バンの後部座席に乗り込むなり、助手席から手が伸びてきて、何かで視界を奪われた。
「なっ!!」
慌てて何かをどけると、紫雨がケラケラと笑っている。
改めてそれを見る。作業用ヘルメットだった。
「調査の時はそれをかぶれよ。車に付属してるやつは古いし臭いから、特別に俺のを貸してやる」
確かに荷台に転がっているヘルメットは、紫雨の物より数段黄色いしところどころ黒い。
「ありがとうございます」
「いーよ。俺はどうせ検査員専用のメット被るから。あ、あとこれ。ジュース。今日は暑いから、飲んどけよ」
そう言うと、オレンジジュースのペットボトルを渡してきた。
「え、いいんですか」
「おう。冷たいうちに飲みな」
見ようによっては爽やかに見えなくもない笑顔をくれてから、紫雨は助手席に座り直し、シートベルトを締めた。
(……なんだ、結構いいひと?)
単純な由樹はヘルメットを膝に挟めながら、自分もシートベルトを締めると、ペットボトルの蓋を開けた。
一口飲む。酸味が強いが、爽やかなジュースだ。
由樹はペットボトルに口をつけながら顔を軽くあげた。
(……ん?)
バックミラーを通して林と目が合った。
(え、睨んでる?)
「……現場、どっちでしたっけ?」
林が紫雨に目を戻す。いつもと変わった様子はない。
(気のせい?かな?)
「えっとね、天賀谷展示場方面にまず走らせて」
「わかりました」
エンジンを掛け、車が発車する。
ちらりと見えたセゾンエスペースの事務所から、スマートフォンを耳に当てた渡辺がこちらを見ていた。
にこりとも笑っていないその顔に軽く会釈してから、由樹は後部座席のシートに身を沈めた。
紫雨の道案内で現場に着いた。
そこは整地された見晴らしのいい分譲地で、敷地の境目にロープが打ち付けられている以外は何もない平らな土地だった。
「すご……」
まるで巨大なグラウンドみたいな広場にある、できたばかりの道路と、綺麗な長方形に分けられた土地を見て、由樹は呟いた。
「地球はこうやって分けて売られるんだな……」
「面白いこというね」
車から降りた紫雨が笑う。
「土地っていくらくらいするもんですか?」
記録用紙をクリップボードに挟んでいる彼に聞く。
「まあ、場所にもよるけど、ここは坪80万円くらいだな」
「坪80万……」
言われてもピンとこない。
「じゃあ、新谷君に問題な。ここの土地、一区画で何坪くらいあるでしょーかっ」
紫雨が由樹を見下ろす。
「えっと……」
そんなの皆目見当もつかない。一坪が畳でいうと2畳分だから……。
「100坪くらいですか?」
適当に言うと、林が鼻だけで吹き出した。
「ぶぶー。林。どれくらいだと思う?」
言われた彼はちらりと区画を見る。
「だいたい、60くらいですか?」
「正解。66坪」
紫雨がパチンと指を鳴らす。
「ここら辺は、60もあれば十分。4LDK、総面積45坪ほどの家が建って、タイヤや自転車を入れる物置小屋が置けて、カーポート2台分準備できるかな。
でも北部のほうや南部のほうは違うぜ。60なんかじゃ到底足りない。なんでかわかるか?」
「…………」
頭をフル稼働して考える。
「……田舎のほうは一世帯当たりの車の所有数が違うから、ですか?」
「んー」
紫雨は笑いながら顎を撫でた。
「着眼点は悪くないけどちょっと違うかな。林は?わかるか?」
「屋根からの雪を落とすスペースの確保ですか」
「正解。豪雪地方では、雪の落とし場所を確保しなければいけない。屋根の面積や勾配によっても変わるから、設計がソフトで持っている落雪シミュレーションに条件を入れ込んで、その最低確保分、土地の境界線から離して家を建てなきゃいけないんだ」
(へえ。知らなかった…)
由樹は感心して頷いた。
「ちなみに屋根勾配は東西南北どちらの方向につけるのが正しいでしょうか」
(え、屋根の形や向きなんて、好き好きじゃないの?)
由樹が首を傾げると、林が答えた。
「南です」
「それはなぜ?」
「建築時、もしくは将来的に太陽光パネルを設置できるようにです」
「正解」
紫雨はヘルメットの上から林の頭をポンポンと撫でた。
「今すぐつけない客も多いけどな。高いし。でも将来的につけられるように、勾配は南側にしておいたほうが無難、かな」
「すごいですね、林さん」
言うと、林はヘルメットをずらして、顔にわざと影を作っていた。
違和感を感じ覗き込むと、その顔は真っ赤に染まっていた。
(え、なんで……?)
ザザザザザサ。
黒い軽自動車が分譲地に入ってきた。
「あ、お客様だ。とりあえず装置下ろしといて。俺、挨拶してくるから」
紫雨が駆けていくと、林はすぐさま車のトランクを開けた。
「装置は重いので、分解してあります。本体とモーターは1人では持てないので二人で持ちましょう」
早口に捲したてるようにいう林に頷く。
「今日は暑いわね」
客の声が聞こえてくる。
「紫雨さん、熱中症にならないように気を付けてね」
「ありがとうございます」
「これ、塩飴。嘗めながらやって」
「え、いいんですか?わざわざすみません」
客と和やかに話している紫雨を見る。
「なんか俺………少しだけ、紫雨リーダーのこと、見直したかも」
その言葉に、作業用手袋に手を通した林が呟く。
「……んと、頭……い」
「え?」
由樹が振り返ると、林は無表情で新品の手袋を由樹に渡した。
「じゃあ、俺と林で本体を組むから、新谷君はこの記録用紙に、簡単な敷地図書いてくれる?」
「敷地図、ですか?」
ぽかんと口を開けた由樹の顎に手を掛けると、紫雨は至近距離で顔を覗き込んだ。
「えっ?あ……」
「……何期待してんの」
紫雨がフッと笑いながら、由樹のヘルメットの顎紐についたバックルを外した。
「あ………」
「ちょっとの間返してね。マシン触るときはメットつけないといけない決まりだから」
ヘルメットを優しく取ると、それを自分の頭にのせている。
由樹も頭は平均より小さいほうだと思っていたが、紫雨はさらに小さいらしく、バックルを留めた後、ぐっとさらに紐を引っ張っている。
「ときに新谷君、敷地図を書いたことはある?」
「あ、えっと、まだなくて」
マシンを設置し、モーターを持ち上げ、それに積みながら紫雨は周りを見回した。
「まず書くべきは敷地に面した道路。その次に敷地のだいたいの形。ちなみにこの土地は東西南北どの道路?」
由樹は見回した。
開けた土地に、目だった建物、例えば駅やスーパなどは何もない。
(いや、待てよ。太陽は東から登るんだから。え。あれ、どっちから登ったなんてよくわかんないんだけど)
今日はなぜか妙に暑い太陽を見ていたら、頭がクラクラしてきた。
(なんだろう。これ、暑さのせいかな)
めまいを覚えてふらついた身体を紫雨が片腕で支える。
「おっと、大丈夫?」
「……なんか、フラフラして」
「貧血?なんか新谷君って栄養足りてなさそうだもんね」
カラカラ笑いながら紫雨がそのまま由樹の肩に手を掛けながら、一回転させる。
「もし東西南北がわからないときは、まず、周りの建物を見る」
「周りの建物?でもここらへん、何も目印が…」
「違うよ、民家」
言いながら紫雨が一番近くにある住宅街を指さした。
「いいか、これから家の打ち合わせを重ねて行けばわかるけど、めったなことがない限り、バルコニーは南側につける。水回りは北側に寄せる。だから、バルコニーがあるほうが南。窓が少なくて小さいほうが北」
「おお、なるほど!」
素直に感心して自分の肩を抱いている紫雨を見上げた。
「じゃあ、以上のことを考慮して、この道路は何道路?」
紫雨が至近距離で少し悪戯っぽい顔で微笑む。
「……東道路です!」
「正解!よくできました」
歯を見せて笑うと、凄く若く見える。
下手したら由樹や林とそんなに変わらないほどに。
肩にかけられた手が、頭に置かれる。
「な。展示場で勉強するより、現場出たほうがいろいろ覚えられるだろ?」
「……はい!」
「惜しいな。天賀谷展示場にきてたら、俺が毎日いろんなところに連れ出してやったのに」
言いながらその頭をポンポンと叩き、紫雨はマシンに視線を戻した。
「何キロから始めますか」
いつもに増してそっけない林の声が響く。
「んー。50からでいいだろ。ここら辺、地盤堅いから」
言いながら錘を持ちながら膝を立ててしゃがみ、メットに片手をかけながら、林を見上げる。
そんな他愛もないポーズでさえ、紫雨がやると少し様になってしまうから不思議だ。
(……不覚にも、ちょっとかっこいいと思ってしまった)
由樹は腕まくりをした作業着から見える腕の筋肉から、慌てて目を逸らした。
顔を赤くしながらクリップボードに向かい、敷地図を完成させる。
(……っ!なんだろう、本当にクラクラする…)
目が回るような感覚を覚え、顔を振る。軽く頭痛もする。
(……暑い太陽のせいかな…)
由樹は恨めしげに初夏の太陽を見つめた。
その後ろ姿を見ながら、紫雨はヘルメットの下でにやりと笑った。
「わあ、大きいお風呂―!」
今まで市営住宅の小さな風呂釜に、入っていた実來は、その大きな浴槽を見て喜んだ。
「入ってみるか?」
言いながらその中に降ろしてやると、ますますはしゃぎ、その中で泳ぐ真似をして見せる。
「広いからみんなで入れるね!」
言いながらこちらを見上げる。
「篠崎しゃんも入ってみて」
言われた通り、浴槽をまたいで入る。
「ああ~、いい湯だなあ」
手足を伸ばすと、首を回して見せる。
「パパみたい」
実來が笑う。
小さい子と話す機会なんて、客との打ち合わせやイベントのときくらいしかないが、案外可愛いものだ。
浴槽のふちに両手肘をかけて、プクプクしたピンク色の頬を眺める。
自分に子供ができたら、または妹が結婚して姪か甥ができたら、こんな感じだろうか。
(ま、俺もアイツも当分ないけどな)
年の離れた妹は、去年就職して、今年で社会人2年目になる
(待てよ、つーことはあれじゃないか。新谷とあいつ、同い年か)
妹の頼りないスーツ姿を思い出す。
もし入社したばかりの年に、自分よりも6つも7つも年上の上司に襲われたとしたら。
(女上司でも、こえーかもな。……ん。待てよ…)
篠崎の脳裏に今更ながら一つの疑問が浮かぶ。
(あいつを襲ったのって………本当に女上司か…?)
顎に手を当て眉間に皺を寄せた篠崎の耳に、
ジュゴッ
何かの破裂音が響いた。
「何の音?」
実來が顔を上げる。
まずい。
実來を抱き上げて、蛇口に背を向ける。
そこから勢いよく熱い湯が流れ出した。
「本当に、すみません」
先ほどまで生意気な口をきいていた猪尾が頭を下げる。
「お風呂にいたのをすっかり忘れてしまって。台所でリモコンの説明をしてしまいまして」
「うちの実來がお風呂なんかに誘うから」
客夫婦も頭を下げる。
「いや、全然大丈夫ですよ」
篠崎は猪尾の腰をつねりながら笑った。
「ワイシャツの替えくらい、車にいくらでも積んでいるので。ちょっと着替えてきますね」
言いながら篠崎は上がり框に置きっぱなしだった上着を手にした。
(上着を脱いでたのが不幸中の幸いだったな)
内ポケットからスマートフォンが上がり框に落ちた。
一瞬ヒヤッとしたが、新品のフローリングには傷ついていなかった。
ほっとしながら衝撃で勝手に起動した画面を見る。
(着信……13件?)
時庭展示場が5件。渡辺の携帯電話から8件。
何か事件でもあったのだろうか。
篠崎は玄関ドアを開けて出ると、外階段に座り込んで、リダイアルボタンを押した。
トゥルルルルル
トゥルルルルル
「……出ろ。ナベ」
トゥルルルルル
トゥルルルルルル
「篠崎さん!」
ひどく慌てた渡辺が出る。
「おう。どうした?ナベ」
「大変なんです!」
スマートフォンを握りしめた篠崎は、渡辺の報告を聞ききながら、顔を上げた。
そして5月にしてはやけに暑い太陽を睨むと、低い声で呟いた。
「現場の住所、顧客情報から調べろ」
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