ーーーーーーーーーーーーー
――紫雨はカレーが好物で妹はシチューが好きだった。
同じ材料で作る夕飯に、伯母はいつも「カレーにする?シチューがいい?」と聞いた。
別に自分はシチューも嫌いなわけではない。
優しい兄はいつも「シチューでいい」と言っていた。
中2の夏。
伯母に引き取られて2回目の夏がきた。
小6に上がった妹は、宿泊訓練で近くの山にキャンプに行っていた。
夕飯はカレーだった。
伯母は「カレーがする?シチューがいい?」とは聞かなかった。
嬉しそうに微笑んだ紫雨に、伯母も優しく微笑んだ。
――その夜。
伯母は紫雨の部屋に入ってきた。
パジャマのボタンを外し、紫雨の身体にやけに滑った舌を這わせた。
震える唇を奪い、わけもわからず硬直させている身体に指を滑らせた。
ゲイであり、女性の写真集やアダルトビデオや漫画で女性の身体を眺めていた同級生たちよりも、少し発育が遅かった紫雨は、その夜、執拗に繰り返された刺激に、初めて精通した。
それから伯母は、頻繁に紫雨の部屋に入ってくるようになった。
その頃からだ。
紫雨が過呼吸になりやすくなったのは。
大抵それは、プールに向かう水着の女子を見たときだったり、体育の時間に降ってきた雨に、女子の白い体操着から下着が透けて見えた時であり、勘違いした男子たちは「紫雨は女子の身体を見ると、興奮して過呼吸になる」と彼をいじめた。
冗談じゃない。
女なんて大嫌いだ。
吐き気のするような酸っぱい匂いと、血のような生臭さを、フローラルな香りで隠している生き物。
萎む直前の風船みたいにやけに柔らかくて、ぬるぬるした粘液を溢れさせ、牛の乳のような重そうな乳房をブラブラとぶら下げて―――。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
ーーーーーーーーーーーーー
「……?」
温かい。
自分の手が誰かに握られている。
「…………」
紫雨は目を開けた。
「……紫雨さん」
両手で手を握っていたのは、いつもの無表情からは想像ができないほど、顔を崩した林だった。
「何だ、その顔……」
酷く咽喉が痛む。紫雨は掠れる声で言った。
「俺のせいで……ごめんなさい…」
お前のせい?何が?
俺がお前のせいでどうなったって?
紫雨は林から目を逸らし、第2ボタンまで外されたYシャツを見つめ、そのあと天井を見つめた。
ああ、過呼吸か…。
またなったんだ。俺……。
少しずつ記憶の断片が集まってくる。
誰かと和室に入った。
疲れて、だるくて、立っているのもやっとだった。
なぜかウッドデッキにアイツがいた。
笑って煙草を吸って―――。
アイツと対面した男はーーーー。
「…………」
突如として記憶が蘇ってきた。
自分が彼にしがみ付いてしまったことも、彼が抱き締めてくれたことも。
そして――――。
(最っ悪だ……)
紫雨は自分の冷え切った腕を両目に当てた。
(篠崎さんに、あんなことをさせて……)
と、横から鼻をすする音が聞こえてきた。
紫雨は腕を自分の目から外し、林を見上げた。
「……お前、何、泣いてんの」
林は紫雨の手を離さないまま、ポロポロと涙を零していた。
「おい。答えろ。なんでお前が泣いてんだよ?」
「……っ」
林は、垂れた鼻水も、溢れ出した涎も、全てを飲み込んだ、湿った声で言った。
「好きです。紫雨さん。俺、本気で――」
その言葉に、紫雨は思わず口を開けた。
「……マジで言ってんの?」
林は手を握りしめたまま瞼をぎゅっと瞑り、首を縦に振った。
「……マジか」
紫雨は林から目を逸らし、竿縁天井を眺めた。
「……世界で一番、あなたのことが、好きです」
林が今までとは比べ物にならないほど素直な声で、真っ直ぐな言葉を紡ぐ。
(……世界で一番、俺が好き?)
人生で初めて言われた言葉を脳内で反芻すると、痛む喉の奥から笑いが込み上げてきた。
「……なんだそれ。世界で一番可哀想な奴…」
言うと、林は片手で手を握ったまま紫雨の顔の横に手を付き、ゆっくりとその唇に自分の唇を合わせた。
舌も入ってこない、唇だけの優しいキス。
それが離れると、紫雨は林を見つめた。
「………やめとけって」
「…………」
また唇が触れる。
「………俺は落ちないよ」
「…………」
無言の林がキスを繰り返す。
それでも嫌な気はしなかった。
ただ。
ただ、切なくて、可哀想で、空しいだけだった。
「……忘れらんない人がいるんだ。知ってんだろ?」
「…………」
「とっくに諦めてんだけど、気持ちまでうまいこと消せない」
「…………」
「他を当たれよ。お前男も女もいけるんだったら、よりどりみどりだろ」
「…………」
「男に片思いなんて……」
「…………」
「辛すぎること、やめとけ」
「…………」
「じゃないと」
紫雨は自分にキスを繰り返す、涙に濡れた林の顔を両手で掴んだ。
「……禿げるぞ?」
林の手が、紫雨のブラウンの髪ごと彼の頭を包んだ。
今度は激しく唇を合わせる。
舌が絡み、唇が吸い付いてくる。
先ほど世界で一番好きな男のそれに触れた唇は、今、自分を世界で一番好きだと言ってくれた男に奪われていた。
紫雨は林に抱きつき、その舌の愛撫に応えた。
(……これで最後だ。これで―――)
紫雨は林の涙でしょっぱいそれを――。
最初で最後だと決めたキスを――。
夢中で貪った。