事務所に戻った紫雨はまだどこかボーッとしているようだった。
「本当に平気か?」
篠崎が紫雨の横に立ちながら、その顔を見下ろす。
「ダイジョーブですって。ご心配おかけしました。今日は早めに帰ってクソして寝ます」
「ならいいけど」
新谷も篠崎の隣で心配そうに紫雨の顔を覗き込んだ。
「紫雨さん、今日は温かいお風呂に入ってリラックスしてくださいね」
「ハイハイ。ソーシマスヨ」
言いながら紫雨は虫を払うように手をひらひらと振った。
「ほら、2時間半かかるんだから、さっさと行ってください」
「あ、やばい。篠崎さん、打ち合わせの時間が!」
新谷が見上げる。
「ホントだ。行くぞ、新谷」
篠崎も鞄を持ち上げた。
「あ、その前にトイレ行ってもいいですか」
新谷が言うと、篠崎は鼻で笑った。
「ダメだな。時間がない」
「鬼畜……!」
紫雨は頬杖をつきながら二人を見上げると、ふっと笑った。
「オツカレサマデシタ」
言いながらパソコンを開くと、紫雨はキーボードを叩き始めた。
篠崎の視線が、その手から林に移る。
「あとは頼むな」
林は背筋を伸ばし、頷いた。
二人がバタバタと靴を履く。
「一瞬!一瞬で終わらせますからぁ」
「だめだ」
「えー!10秒で終わりますから!」
「ダメ」
「5秒!」
「無理」
「15秒!」
「……なんで増えるんだよ」
2人の笑い声は閉じた防音扉で聞こえなくなった。
紫雨がスーッと大きく息を吸い込む。
「大丈夫ですか……?」
林は不安になって紫雨を見上げた。
その視線に気づき、紫雨はわざとらしく息を吐いて見せた。
「大丈夫だよ」
紫雨がふっと笑った。
林はその悲しい笑顔になんだかこちらが泣きそうになりながら、先ほど紫雨と腫れるほど合わせた唇で微笑んだ。
◇◇◇◇◇
「紫雨さん。帰りましょうか」
定時になり、林は鞄を掴んだ。
「今日くらいは早く帰りましょう」
「そう、だな」
言うと紫雨はデスクの一番上の引き出しの鍵を開けた。
「…………」
そこからカードキーケースを取り出している。
「紫雨さん……?」
紫雨の白い人差し指が唇に触れる。
林は席に座り、本部と電話している様子の秋山の顔を見た。
「じゃあ、お疲れでーす」
紫雨は席に残っていた室井と飯川に言った。
「っ」
と、前を歩いていた紫雨が急に動きを止めた。
振り返ると秋山が紫雨の手首を掴んでいた。
「はい。……わかりました。じゃあ、消防署に調書の提示を請求します」
秋山は通話を続けながらホワイトボードを指さした。
紫雨と林は同時にそれを見上げた。
【秋山→東京出張(2、3日の予定)】
紫雨は秋山を振り返って頷いた。
林はドアを出る紫雨の背中を見た。
(…………)
こうして事務所を一緒に出るのも……今日が最後だ。
◇◇◇◇◇
「本当にいいんですか。約束まであと2日あるのに…」
林はハイブリッドセダンのハンドルを握りながら、助手席に座る紫雨に聞いた。
「7日間でも5日間でも大差ないだろ。ちょうどよく秋山さんも出張だっていうし」
「本当に大丈夫でしょうか」
林は心配そうに紫雨を見上げた。
「せめて今日くらい、泊まってくれればいいのに」
紫雨は助手席から、まだ沈み切っていない夕焼けを眺めた。
「……もう、無理だろ」
その呟きが林の胸に腹にドンと重く押しかかる。
(無理……か)
どこで間違えたのだろう。
いや、どこでじゃない。きっと初めから間違えていた。
でももし間違えなかったとして、
正しくこの人を想ったとして、
それを正面から伝えたとして、
それでも初めから、“無理”だった。
窓枠に肘を付き、外の風景を見ている紫雨の小さな息遣いを聞きながら、林は涙が込み上げてきた。
こんなに近いのに、
こんなに遠い。
手を伸ばせば届くのに、
その心には触ることさえできない。
(俺じゃ、無理だったんだ…)
堪えようとしても涙が溢れてくる。
嗚咽の息が漏れる。
「………」
紫雨は視線を変えないまま、小さく息を吐いた。
「泣くなって。お前って結構泣き虫だな」
「……けない」
「は?」
「敵うわけない。俺が篠崎さんになんて………」
言うと、紫雨は鼻で笑った。
「当たり前だろ」
そして笑いながら言った。
「俺だって、新谷に敵わねぇよ」
「…………」
車は丁字路に差し掛かった。
北に行けば紫雨のマンション。
南に行けば林の家。
「…………」
林は断腸の思いで、北へハンドルを切った。
マンションの前に停まっているキャデラックを見た。
「バッテリー、上がってないですかね」
「冬でもあるまいし。大丈夫だろ」
紫雨が助手席のドアを開けた。
「じゃあな。ご両親には後日、正式にお礼に行くから」
「いいですよ。そんなの」
「そんなわけにいかないの」
笑うと紫雨は運転席を振り返った。
「余計なことかもしれないけど、お前さ、あの家、出たら?」
「え?」
「あの義母ちゃん、見てんの辛いかなと思って」
「ああ、そういうことですか…」
林は微笑みながら、少し視線を下げた。
今やあの女性に色気も欲望も感じなくなったというのは、別に言わなくてもいい気がした。
「ま、いいけどな」
アスファルトに足をつけると、紫雨の新しい革靴がコツンと小気味いい音を鳴らした。
「じゃ。オツカレ」
立ち上がった紫雨はひどく疲れて見えた。
「お疲れ様でした」
林は心からそう言い、丁寧に頭を下げた。
「…………」
ゆっくりと顔を上げる。
彼はもうエントランスに辿り着いていた。
ポストから大量の封筒を取り、それを抱えながらカードキーを取り出している。
自動ドアが開く。
林は簡単に周りを見回した。
不審な人物はいない。
紫雨はそのまま振り返ることなく、エレベーターホールへ消えていった。
これからしばらくは、毎日ここにこうして来よう。
紫雨が安全にマンションに入るのを見送ってから、家に帰ろう。
(俺にできることは、それくらいしかないから…)
決意を新たに手をギアに掛けたところで、携帯電話が鳴った。
【白根光穂】
「……………」
一瞬躊躇したが、出ることにした。
『あ、林さん、よかった。繋がって』
電話口の白根はほっとしたような声を出した。
『あれからメールも返してくれないから、どうしたのかと思って』
「……すみません」
正直この数日間、白根どころではなかった。
昼も夜も、寝ても冷めても紫雨のことしか考えられず、他のすべてを排除していた。
親との会話も、白根のメールも、仕事でさえ―――。
『いえ、大丈夫ならいいんです』
白根は感情のこもらない林の声に、戸惑った声を出した。
(やめとけばいいのに。俺なんて)
数時間前、紫雨から吐かれた台詞と、同じようなことを思った。
(うだつの上がらない、いつクビになってもおかしくないハウスメーカーの営業なんて、見切って次に行けばいいのに……)
『あの、紫雨さん、大丈夫でした?』
「え?」
『あ、いえ、あのとき、物凄く感情的になっているように見えたので……』
「…………」
そうだ。ホテルのロビーで、紫雨は異常なほど林を怒鳴った。
(なんで、あんなに怒ったんだろう)
「大丈夫です。いつものことですよ」
言うと、白根はまた言い淀んだ。
『林さん』
「あ、はい」
『やっぱり直接会って、話しませんか?』
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