由樹は展示場の裏口を見上げてため息をついた。
万が一にも来場客が間違えてこちらから入らないよう、勝手口用のドアを使い、わざと地味にしてある事務所の入り口は、今日はなんだか大きく重く見えた。
「あ、開けられねぇ…」
由樹は階段を上ることも出来ずに、その外壁と同色の淡いグレーのドアを見上げた。
どんな顔をして篠崎に会えばいいのだろう。
考えれば考えるほどわからず、だんだん顎が上がっていく。
『ピ~~~ヒョロロロロロ』
6月の青い空をトンビが飛んでいく。
『カア!!カアア!カアア!』
その後ろを2匹のカラスが追いかけていく。
半分程の大きさしかないくせに、交互にトンビの尾っぽをつついている。
「おいおい…。いじめるなよ…」
1対1で狭い部屋に閉じ込められたら間違いなくトンビが勝つだろうに。
「……身の程をわきまえろっての」
カラスに放った言葉が自分に跳ね返ってくる。
空を仰いだままため息をついた。
きっと篠崎は忘れている。
初めて由樹がキスした時もそうだった。
気にしていたのは由樹だけで、彼はこちらが言うまで忘れてたような反応をしていた。
彼にとって、後輩とのキスなんて、何でもない。
酔っ払ってふざけた延長線上にあるそれは、彼の人生に何の影響も与えていない。
気にする方が馬鹿みたいだ。
篠崎に振り回されて、大事な彼女と別れそうになるなんて言語道断だ。
「さっさと忘れ……」
見上げた空に、アッシュグレーの髪の毛がかかる。
「何を忘れるって?」
慌てて顎を引き振り返ると、ビジネス鞄を肩に引っ掛けた篠崎が立っていた。
「あ、おは、おはようございます。あの、昨日はごちそうさまでした」
言いながらぺこりと頭を下げると、篠崎はもう一つの手で欠伸を抑えながら小さく頷いた。
「帰り、大丈夫だったか?」
「あ、はい」
「夜中、電話かけてきたろ」
(そうだった……)
自分のことで精一杯で昨日、千晶がかけた電話のことをすっかり忘れていた。
「あ、すみませんでした。あの、千晶が……」
言うと、篠崎はフッと笑った。
「千晶ちゃん、また俺との浮気を疑ってんのか?」
(……疑っているというか、自分から変な告白をしてしまったというか、なんというか…)
「彼女を不安にさせないのも、彼氏の大事な仕事だぞ」
「…………」
「………今、どの口が言うんだって思っただろ」
篠崎が目を細める。
「いえ、そんなことは……」
「正直に言えよ。今セクハラで訴えたらお前、勝てるぞ」
「…………」
赤くなって黙っている由樹を覗き込んで篠崎はふっと笑った。
「昨日は冗談が過ぎたな。悪かったよ」
「……い、いえ…」
わかってはいたが、“冗談”と面と向かって言われると、やはり堪える。
「お前だって好きでもない男にあんなことされたら、嫌だよなぁ?」
言いながら篠崎の大きな手が由樹の頭に触れる。
ゾクッと身体が反応した。
昨日、逃げられないように、抵抗できないように、抱きすくめた大きくて熱い手を思い出す。
背中に回して身体を閉じ込めて、頭を包んで唇を押し付けて、耳を触りながら舌を押し込んだ、あの手を―――。
(………っ!)
バシッ。
「いって……」
気が付くと由樹はその手を振り払っていた。
「あ……、ごめんなさい」
由樹が戸惑いながら謝ると、篠崎はふうっと息を吐いて部下を見つめた。
「なんでお前が謝んの。俺が悪かったんだろ」
言いながら、由樹に振り払われた手にバッグを持ちかえると、篠崎はそのまま腕時計を見た。
「ほら、掃除始まるぞ。行こうぜ」
まだ青ざめている由樹の脇を抜けると、事務所への外階段を上り始めた。
ハウジングプラザの時計を見上げる。本当だ。もうすぐ時間だ。
(……ん?篠崎さんにしては、遅くないか?)
階段を軽く二段飛ばしで上っていくその後ろ姿を見つめる。
もしかして、本当に、昨夜はお楽しみだったのだろうか。
遠くの空に、トンビを追い払って満足そうに帰ってくるカラスたちが見えた。
由樹はそれを睨むと、手でピストルの形を作り、パンパンと無表情で撃ち落とした。