事務所に入ると、渡辺が両手を口に当てて篠崎を見上げた。
「やだ、ちょっと!!マネージャー!一緒に出社とかいくらなんでも、止めてくださいよー」
篠崎は呆れながら、少し後に遅れて入ってきた新谷を見下ろした。
「やっぱり昨日、二人を残して帰っちゃの、まずかったかなぁ?大丈夫だった?新谷君!」
“大丈夫じゃなかった新谷”は、渡辺の声にびくりと反応してから、それでも、
「何言ってるんですか」と笑った。
「おいおい、あんまり詮索すんなよ」
靴を事務所内スリッパに履き替える。
「だって出勤二人そろって遅いし?まあ、新谷君はいつもだけど」
横目で新谷も履き替え終わるのを待ってから、その肩を抱く。
「空気で分かれよ。なあ?新谷」
洒落のつもりだったが、新谷の顔は展示場脇に咲き始めた鬼灯の花のように真っ赤に染まった。
その顔を見て、渡辺がますます興奮し仰け反る。
「ごめんなさい!空気読まなくて!もう突っ込みませんので、ご自由になさってください!あ、でもあくまで同意の上で!」
席で聞いていた小松と仲田がクククと笑っている。
篠崎はその真っ赤に染まった顔をぐいと顎を掴んで捕まえると、マジマジと見つめた。
(こいつってもしかして、赤面症なのかな。いや、でも客と話すときは赤くなんないしなー)
その目が潤みながら睨む。
「ちょっと!!こんなとこでキスとかやめてくださいよ!篠崎さん?篠崎マネージャー!!」
渡辺が叫び、小松と仲田もさすがに振り返った。
「……なんですか?俺の顔に用がないなら離してください」
新谷まで可愛くないことを言う。
そのまま顔を近づけ、頬に触れるか触れないかの短いキスをすると、彼の顔は赤いだけではなく、茹でたように燃え上がった。
「熱っ」
笑ったところで打ち合わせノートを片手に立ち上がった仲田に頭を軽く叩かれた。
「マネージャー。セクハラで訴えますよ?」
「えー、俺?」
「当たり前でしょう」
「やだな。部下を可愛がってるだけですよ」
仲田のおかげで解放された新谷は、真新しいビジネスバッグを胸に抱え、そそくさと席に向かった。
そのロボットのように不自然にかくかくした動作に愛おしさが込み上げる。
そう。可愛がってるだけだ。
こっちにもあっちにも変な気持ちはさらさらない。
ただあっちが、元ゲイで現在バイなだけでーーー。
デスクの端に置かれたキルト生地のポーチを見る。
中には千晶が作った、さぞや美味しい弁当が入っていることだろう。
(はは。しっかり牽制されてんな、俺)
それを見て、あの必死な彼女の顔を思い出して笑いが込み上げる。
隣の席に腰を下ろすと、毎日のことなのに、華奢な体がピクリと反応した。
(まあ、俺に気がなかったとしても、昨日のはやりすぎたかな)
芽生えた罪悪感に苦笑しながら、自分も並べるように弁当袋を机の端に置いた。
「お互い今日は、“愛妻弁当”だな」
笑ってみせると、新谷はなぜか少し顔をこわばらせて頷いただけだった。
(変な反応)
横目で見ながらパソコンを開く。
システムに繋ぐと、打ち合わせ90日の期限を告げる顧客が3件もあり、警告の真っ赤な文字が並んでいた。
「……どっから片付けるかなー」
脳が仕事に染まっていく。
キーボードを打ち始めるころには、隣で硬直している部下のことは忘れていた。
◇◇◇◇◇
高い空を、大きな羽を広げた鳥が飛んでいく。
あれは、鷹か、鷲か。でも少し小さいからトンビかもしれない。
輪を描くように旋回している。
何かを探しているのか、はたまた狙っているのか。
しかし今日の自分には、何かを迷っているように見えた。
……そう。
若くて未熟で、それでいて優しくて定規で引いたように真っすぐな、自分の恋人のように。
6月に入り、いよいよ存在感を発揮してきた太陽に目を細めながら、千晶はトンビを目で追っていた。
「千晶せんせ~い」
受付の佐藤直子が裏口から顔を出した。
「研修医の子、来ましたよ」
そばかすを一杯散りばめた色白な顔で笑うと、直子は微笑んだ。
「なかなかのイケメンです」
その“しめしめ”という企んだ顔に思わず吹き出す。
「わかった。今行く」
言うと、彼女は満足したようにドアを閉めた。
千晶は一人、もう一度青空を見上げる。
旋回していたトンビは、やっと行き先が決まったのか、太陽が昇る東の山の方にスーッと飛んで行ってしまった。
それを見ながら口を結ぶ。
自覚があるにせよ、無いにせよ、篠崎もきっとあの男と同じ運命を辿る。
由樹に絆され、いつの間にか夢中になり、由樹を翻弄し、振り回して―――。
そしてある日、ふと、現実に戻るのだ。
前には子供が生まれた先輩がいて、隣には結婚する友人がいて、振り返れば孫の顔を切望する両親が立っている。
そして自分にくっついている由樹を見下ろす。
『なんだこいつ。結婚もできないし、子供も産めないじゃん』
そして突き飛ばして歩き出す。正規のルートを。
由樹がどんな顔で道端に転がっているかを振り返りもせずに。
気づけば、山に向かったトンビは、もう見えなくなっていた。
「由樹……」
見えなくなったトンビに話しかける。
「……私、あの人にはあなたを譲れない」
あなたを幸せにできるのは、私だけだと思うから……。