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あ……く……
あら……く……
あらや……ん?
あらやくん?
「新谷くん」
驚いて目を見開く。
「あれ、俺、どうして」
気が付くと、由樹は子供部屋のベットに横になっていた。
「大丈夫?」
仲田が微笑む。
(俺、どうしてここにいるんだっけ。確か篠崎さんにすこぶる怒られて、それで、え。でもなんでベッドに?)
「すみません。どうしたんだろ、俺」
「ね、どうしたんだろうね、君」
仲田がにっこりと笑う。
(やっぱりすげー美人)
客観的にそう思いながら慌ててベッドから足を下ろす。
「すみません、大事な展示品なのに」
「いいよいいよ」
言いながら眼鏡とスーツの上着を渡される。
(あれ、俺、いつの間にスーツ脱いだんだっけ)
小首を傾げながらにこにこそこに立っている女性を見つめる。
「仲田さんは何でここに?」
言うと、仲田は少しだけ考えた顔をしながら、クローゼットを指さした。
「ちょっと外壁のサンプルを取りに、ね」
「あ、俺、持ちますよ」
言うと、ビジネス鞄ほどのサイズがある、重い外壁サンプルを持ち上げる。
「大変ですね、重くて。打ち合わせで使うんですか?」
「まあねー」
妙に間延びした声を出しながら歩く仲田に続き、事務所に戻る。
篠崎も渡辺もいなかった。
少しほっとしながら、仲田のバックの脇に外壁サンプルを置くと、自分の席に戻った。
そのデスクの上には、さきほど床に散らばった本がおざなりに積み重ねられている。
由樹はふうっと小さな息をつくと、それを両腕で挟み、下から一気に持ち上げた。
「……どうするの?それ」
仲田が聞く。
「捨ててきます」
「え、勿体ないよー」
尚も色っぽく間延びする声が追いかけてきたが、由樹は靴を履き替えると、外階段へと出て行った。
管理事務所の脇にあるごみ捨て場に、それを置く。
「……いや、やっぱり」
自動販売機のところまできて、ゴミ捨て場に戻る。
先ほど自分の手で投げ入れた本を漁る。
「あれ?…あれ?」
ない。
あの本だけが。
家に忘れてきたのだろうか。
それならそれでいいけど。
首を傾げながら振り返ると、
「君って見てるとおもしれ―ね」
巨大な男が立っていた。
「あ、すみません。いただきます」
渡辺が奢ってくれた缶コーヒーを受け取りながら、休憩スペースのベンチに腰掛けて座る。
「篠崎…マネージャーは出かけたんですか?」
「えー?」
渡辺が大きな身体を左右に揺らす。
「あるじゃん。アウディー」
アウディー?由樹も駐車場を覗き込む。
確かに黒塗りのアウディーのセダンが留まっている。
あれが篠崎の私用車らしい。
「展示場にいなかった?」
「事務所にはいなかったです」
「そーか―。じゃあ、煙草かもね」
ドキリとして、ベンチの後ろの喫煙スペースを見る。
篠崎の姿はない。
「大丈夫だよ、あの人、煙草吸うときは、いつも駐車場ウロウロしてるから」
ほっとしてベンチに座り直すと、一部始終を見ていた渡辺が笑う。
「……篠崎さんに怒られたの?」
「はい。怒られたというか、見放されたというか…」
「そーんなことはないでしょう」
渡辺が笑いながら、自分はペットボトルのコーラを一口で半分ほど飲み干した。
「ハウスメーカーの営業をなめてる的なことを言われました」
うーん、と渡辺が唸る。
「まあ、実際そうでなくてもさあ、前の会社が会社で、職種が職種だから、そう思われるのかもね」
「……渡辺さんも知ってるんですか?」
渡辺が少し動くとベンチがきしむ。
「昨日、新谷くんが帰った後、支部長が来て、自慢気に話すんだもん。そりゃあ、ちょっとマネージャーも面白くなかったんじゃないの?」
人の良さそうな支部長を思い出す。
「……言わないでほしかったっす」
思わず弱音が飛び出すと、渡辺は微笑んだ。
「支部長のことだから、何か考えがあってあんな話したんだと、俺は思うけどね」
意味深な渡辺の言葉に賛同する材料がなく、由樹は俯いた。
「俺は、向いてないんでしょうか。こんなにマネージャーに嫌われてしまって」
言うと渡辺がまた大きな腹を揺らしながら笑った。
「だーかーらー、嫌われてないって!」
(そうかな。渡辺さんもあの罵倒を聞けば、わかると思う……)
「ま、向いてるか向いてないかは、“どうしてこの仕事に就いたか”に寄るんじゃない?」
(どうしてこの仕事に就いたか…)
由樹は微糖なのにやけに苦い缶コーヒーを一口啜った。
「マネージャーの気持ちもわからなくはないけどな」
渡辺がこちらを見る。
「60%。何の数字だと思う?」
由樹は先輩の肉に埋もれた目を見つめた。
「……マネージャーの成約率ですか?」
渡辺は一度目を丸くした後、盛大に笑った。
「いい線つくね。でも外れ。この数字はね。住宅業界全体の営業マンの5年以内離職率だよ」
5年以内離職率、60%。6割の人間が、5年間で辞めていくということか。
その数字に目を見開いていると、渡辺は笑う。
「俺たちはね、君みたいな気持ちのいいほど真っ直ぐな若人が、希望いっぱい住宅業界に飛び込んできて、ポキンと折れるのを何人も見てきた。それが君みたいに、入って間もなく、成約もとれてない人間だったらいいよ。だけど、下手に3、4年、生き残ってさ。10棟くらい売った営業ならさ」
渡辺の温和な顔から笑顔が消える。
「死ね。だよね。はっきり言って」
その変貌ぶりに由樹が少し離れると、渡辺がその分詰めてくる。
「残された俺たちが地獄を見る羽目になるからさ」
また笑顔に戻る。
(……この人も、案外、食えない人だな)
苦笑いした由樹の肩を渡辺が叩く。
「まあ、俺は、新谷くんのこと、応援してるから」
いつの間にかペットボトルは空になっていた。
「85%。なんの数字かわかる?」
渡辺が振り返る。
「篠崎マネージャーの成約率、だよ」
「……すご」
「じゃーねー。俺、今日仲田さんと客宅で打ち合わせだから―」
渡辺はペットボトルをゴミ箱に捨てると、展示場から手を振りながら出てきた仲田と合流して、出て行った。
遠ざかる二人を見ながら、由樹は展示場に向けて歩き出した。