展示場に先週よりも早く帰ってきた新谷は、ドアを開け、猪尾以外揃っていた全員の顔を確認した瞬間、ふーっと長く息をついた。
「お帰り」
渡辺が笑いながら迎えると、
「ただいまです」とほっとしたように笑った。
篠崎はシステムの個人記録を見ながら、隣の席に座ってまたフーッと息を吐く部下に話しかけた。
「今日お前、ロングアプローチできたんだな」
言うと、新谷はピクッと反応し、篠崎を振り返った。
「なんでわかるんですか?」
その質問に呆れながらディスプレイを指さす。
「上司は部下の個人記録閲覧できるから」
「あ、そっか」
言いながら新谷は嬉しそうに笑った。
「今日は着座も出来たので、先週よりかは良かったと思います」
一日相当走り回って頑張ったのだろう。髪が乱れている。
特に意識せずに軽く手櫛で整えてやる。
手を除けた下には真っ赤に染まった新谷の顔があった。
(こいつ……)
「お前ってさ。もしかして紫雨とかに触られても、こんなに赤くなんの?」
言うと、新谷は片眉を上げた。
「はああああ?んなわけなくないですかあああ?」
急に砕けた言葉で大声を張り上げた新谷に、事務所のみんなが唖然とする。
「……あ、いえ、そんなわけ、ないです」
新谷は気まずそうに俯くと、少し口を尖らせて言った。
「ならいいけど。紫雨に勘違いでもされたら、また面倒なことになるかなって……」
笑いながら言うと、彼は妙に深刻そうな顔をし、かぶりを振った。
「そんなんじゃないです。……先週だって、言い合いしちゃったし」
「言い合い?」
渡辺が顔を上げた。
「紫雨さんとぉ?」
「はい。売り言葉に買い言葉ってやつで……」
「言い返したの?」
渡辺は目を丸くして新谷を見て、その後、篠崎を見た。
「はい。大人げなかったと思いますが……」
「…………」
篠崎は口元を手で拭った。
(紫雨に何か文句を言えるのは、俺と秋山さんくらいなもんだと思ってたが……)
入社数ヶ月の新人に噛みつかれた紫雨の心情を想い、一抹の不安を覚える。
(あいつに目をつけられたら終わりなのに。大丈夫か、こいつ)
体勢をずらし、ディスプレイに向き直った。
(でもまあ、秋山さんの目もあるしな。あいつ、秋山さんには従順だから)
「今日も、アポは取れませんでした……」
新谷はしゅんと小さくなった。
「……まだアポにこだわってんのか?」
呆れながら言うと、彼に目を戻した。
「アポは取るもんじゃない。取れるもんなんだよ」
「……取れるもの、ですか?」
「そう。客が“この営業にもっと話を聞きたい”と思えば、おのずとアポは取れる」
「はーい、それ、篠崎さんだけだと思いまーす」
向かい側で、渡辺が太い腕を上げる。
「天才肌の篠崎さんしかそんなうまいこといかないと思いまーす」
「なんだ、それは」
鼻で笑いながらまだ真剣に悩んでいる様子の新谷を見下ろす。
「アポを取ることを目的にしているうちは取れないぞ。それともアポを何が何でも取らなきゃいけない理由でもあるのか?」
言うと新谷は一瞬止まった。
「……なんだよ?」
しかしすぐに背筋を伸ばすと、首を横に振った。
「いえ、大丈夫です!」
「なんだ、大丈夫って」
「俺、明日も早いんで、これで失礼します!」
言いながらそそくさと立ち上がると、新谷はバッグを持ち上げた。
「じゃあ、お疲れ様でした!」
わたわたと帰っていった新谷の姿が、ドアの曇りガラスから見えなくなると、篠崎はふうと息を吐いた。
「それにしても、あの紫雨に言い返すとは、な」
言うと向かい側に座っている渡辺も小さく頷く。
「新谷君、きっと大物になりますね」
篠崎は暗い駐車場を照らす、新谷のコンパクトカーのヘッドライトを見て、目を細めた。
「大物になる前に潰されなきゃ、の話だけどな」
◆◆◆◆
翌日の夜。
皆が帰った事務所で、篠崎はひとり新谷の帰りを待っていたが………。
彼は時庭展示場に帰ってこなかった。