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トイレ休憩と称して10分間の時間を取り、紫雨はスタッフ用トイレで用を足した。
「……はぁ」
手を洗いながら思わずため息が漏れる。
国家公務員。十分セゾンの家を買うことのできる客層。
しかも彼がアタックしている客だ。
『……お前がいい』
紫雨はトイレの天井を見上げた。
できれば篠崎の商談を一歩進めてあげたい。
最低でも現状維持。
後退だけはなんとしても回避しなければ。
自分に課した条件が、どんどん紫雨の背中に覆いかぶさっていく。
(俺にできることはこれくらいなんだから……)
上を向いていた頭を誰かが掴んだ。
「……?!」
そしてそのまま鏡に向かって思い切り打ち付けた。
「ってぇな…!!」
鏡に映った男を睨む。
「あんまり嘗め腐ったこと、しないでくださいよ」
まだ紫雨の頭から手を離さないまま若草が笑っている。
「あんた、性根変わってないすね。相変わらずのクズで不思議と安心しましたよ」
「……お前もな。若草。たかがリーダーになったくらいで対等になったつもりか?」
鏡の中の男に笑いかけると、その口元が歪んだ。
「あんただって、ちょっと前までリーダーだったのに、笑わせないでくださいよ。篠崎さんがマネージャーになってから、遅れること、3年ですか?長かったですねえ?」
「…………」
「あんた、昔から篠崎さんには敵わなかったもんな」
肘打ちを喰らわそうとすると、若草は寸でのところでよけながら笑った。
「こえー、こえー。止めてくださいよ」
そして押さえつけている紫雨の耳元に口を寄せた。
「騒ぎになって迷惑がかかるのは、今回の責任者の篠崎さんでしょ?」
「…………」
「あんた、篠崎さんのこと、好きだったもんね?篠崎さんには笑っちゃうくらい嫌われてましたけど」
鏡の中の若草を睨みすぎて、目が痛くなる。
「久しぶりに会ったらすっかり仲良くなってんだもん。びっくりしましたよ。しかも今日は篠崎さんのサポートとか。ははは。奇跡ですか?」
若草の手が、紫雨のスラックスの上から臀部を滑る。
「もしかして、篠崎さんともヤッちゃった?どんなテクもってんだよ、あんた」
臀部の割れ目に指が食い込んでくる。
「てめえ、何すんだよ…!」
「ねえ、男とするのって気持ちいいですか?」
「はぁ?」
「そんなにいいなら、試してみようかなって」
指が尻を上下になぞる。
「は……なせ……!」
「えー、あんた、こういうこと後輩に散々してきたでしょう?」
鏡の中の若草を睨む。
―――若草を睨んだ、はずだった。
しかし鏡の中にいたのは、口の端を釣り上げ、顔を歪めた自分だった。
紫雨は唇を震わせながら、鏡の中の自分を見つめた。
『ナベ、お前から寄ってきたんだろ。今更“違いました”はねぇだろ?』
『ほら、林。好きな男の名前を呼んでみろよ。もしかしたら助けに来てくれるかもしれないぞ』
『おいおい、だいじょーぶ?新谷君、意外と良さそうじゃん』
「………っ」
自分が後輩たちに吐いた最低な言葉たちが、自分に跳ね返ってくる。
「ねえ」
自分の顔から若草の声が聞こえる。
「篠崎さんとヤるときは、あんた、どっちなの?挿れる方?挿れられる方?」
「……篠崎さんは、違う…!」
鏡の中の自分を睨みながら叫ぶ。
「えー。じゃあ質問変えます?」
「………?」
「あんた、篠崎さんに挿れられたいの?それとも挿れたいの?」
「てめぇ……!」
バンッ。
ドアを開けて入ってきたのは――――。
「おい、お客様が待ってるぞ」
篠崎だった。
若草が一瞬で紫雨から離れる。
「………何をしてた」
篠崎が紫雨と若草を交互に睨む。
「二人で何をしてたのかって聞いてんだよ」
若草がこちらを睨む。
(……言うぞ)
その唇が僅かに動く。
「……?」
(篠崎さんに、全部言うぞ)
(アンタノキモチ)
「………」
紫雨は視線を篠崎に戻した。
「すみません。あまりにこいつが生意気なことを言うので、思い知らせてやろうと……」
「………」
篠崎が紫雨を睨んだ。
「お客様を待たせて、か?」
「………」
「すみませんでした!」
若草が勢いに任せて頭を下げる。
「俺が、挑発に乗ってしまったんです。紫雨さんが、子供が出来ないのは、うちの妻のせいじゃないかっていうから、我慢できなくなって……。大変、申し訳ありませんでした」
「……っ」
腹が燃える。紫雨は自分のそこをワイシャツごと握った。
「もういい。戻れ。お客様が探してるぞ」
「はい。本当にすみませんでした!」
若草が深く頭を下げた後、篠崎の脇を抜けて、トイレから出ていった。
「…………」
篠崎が紫雨を睨む。
「弁明なら、聞くぞ」
「……いえ」
紫雨は息を吸い、そして吐いた。
「べつに何も」
篠崎は俯いて深く息を吐いた。
「お前は……変わったと思ったのに」
込み上げてきたのは、
「ふっ」
笑いだった。
「新谷が変えてくれたと思ってたのにって?」
笑いながら篠崎の顔を見上げる。
「馬鹿にしないでくださいよ。こちとらあんたみたいに単純じゃないんでね」
無理して笑顔を作ろうとしているせいで、頬の傷が痛む。
「自分が新谷に出会って変わったからと言って、その純愛物語に俺まで巻き込まないでもらっていいですかぁ?篠崎マネージャーともあろう人が。カッコ悪くてガッカリだな」
「………」
「そう言えば、新谷の後ろの穴は広がりましたか?俺が弄ってやった時には、だいぶきつかっ――」
ガツン。
「?」
気づくと、紫雨はトイレの床に突っ伏していた。
「客にはお前が気分が悪くなったと説明しておく。俺が3件相手するから、お前はバスが出発するまで、休んでていい」
篠崎は静かに告げると、ドアから出ていった。
「…………」
紫雨はフラフラと立ち上がると、殴られた自分の顔を確認した。
「ナニソレ。優しさのつもり?」
傷パットが貼られた左側ではなく右側を、篠崎は利き手じゃない左の拳で殴っていた。
「統一してよ。両頬に傷パット貼ってたら変でしょ」
紫雨は洗面所に両手をついた。
涙が溢れ出し、左頬の傷パットと、腫れ始めた右頬を濡らしていった。