コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「紫雨さん、大丈夫でしたか」
バスの隣の席に座った林が、紫雨を覗き込んだ。
「何が?」
「………具合悪くなったと聞いたので…」
「ああ、大丈夫。心配してくれて、ありがと」
「……………?!」
普段絶対口にしない上司の言葉に、林は、紫雨を二度見した。
「お前の方は大丈夫だったの?」
「あ、はい。すごく気さくなご夫婦で。逆に俺の方が気を使ってもらったような感じだったので」
「それは――――」
(「ダメだろ!」って叱られる……!)
「よかったな……」
林は目を見開いて、隣に座る上司を見つめた。
「……熱でも、あるんですか?」
「俺が?ないよ」
「でもなんか、頬が赤いような……」
左頬は傷パットのせいで見えないが、右側は確かにほんのり赤い気がする。
「……失礼します」
おそるおそる手を伸ばし、紫雨の額に手を触れる。
と、前髪の間から見えた額も赤くなっていた。
「篠崎さん!」
林は立ち上がり、前の席に座っている篠崎に言った。
「紫雨さん、熱があるみたいです」
「えっ!!」
振り返ったのは新谷一人だった。
「大丈夫ですか?」
紫雨は新谷を見ると笑った。
「ないよ、熱なんて。ちょっとバスの中、暑いだけだって」
「体温計で熱、測ってみますか?」
新谷が荷物をあさり出す。
「いいって。大丈夫だよ」
紫雨が言うと、
「本人が大丈夫だって言ってんだから。大丈夫だろ」
新谷の隣に座る篠崎が、こちらを振り返らずに言った。
「あんまり騒ぐとお客様がびっくりするからそっとしとけよ」
「ーーーー」
振り返らない篠崎と、魂の抜けたようにおとなしい紫雨を、新谷は交互に見つめたが、やがて、
「具合悪くなったら、いつでも言ってくださいね」
と紫雨に声をかけ、前に向き直った。
林は明らかに様子のおかしい上司を見つめた。
左頬に貼ってある傷パットが、なぜか波打って剥がれかけている。
「紫雨さん。パット、とれそうなんで、とってもいいですか?」
普段であれば殴られるようなセリフを言ってみる。
「え。ああ」
紫雨は窓の外を眺めながら頷いた。
パットに指をかけ下に引くと、元々粘着力を失っていたそれは、いとも簡単に剥がれた。
「……っ」
傷なんてものじゃなかった。
痛々しい青黒い打撲痕が、紫雨の白い肌に浮き上がっていた。
「これ、誰に……?」
前に座っていた篠崎が、林の異変に気付いてゆっくり振り返った。
「……!」
林は紫雨の背中から腕を肩に回し、その小さい頭をグイと寄せると、自分の肩に顔を押しつけた。
篠崎がその姿をシートの間から見つめる。
「ちょっと頭が痛いそうなので……」
言うと、篠崎は無言でまた前に向き直った。
「……紫雨さん」
紫雨は大人しく林に頭をもたれ掛かりながら、瞬きを繰り返している。
「大丈夫ですか…」
弱く頷いた紫雨の目から涙が溢れ出した。
「……っ」
林はもたれ掛かったその頭を抱きしめるように自分の胸に押し当てた。
夜の高速道路は思いのほか暗く、時折通り過ぎる外灯が、紫雨の涙を映し出していた。
八尾首展示場に着くと、紫雨はお客様への挨拶もそこそこに、自分のキャデラックに乗り込んだ。
後ろから何か若草が言っていて、それに対して新谷が何か噛みついていて、それを篠崎が制しているのが見えたような気がしたが、なにもかも音が聞こえなかった。
ただ自分の車に乗り込むと、キャデラックの低く安定したマフラー音だけが、耳の奥に響いてきた。
「帰ろ」
とにかく帰りたい。
天賀谷に。
マンションに。
自分の部屋に。
帰りたい。
二時間かけて、キャデラックは高速を降りた。
音楽を聞いたわけでもなければ、DVDを流していたわけでもないのに、その道のりは長いとは感じなかった。
マンションに車を停め、カードキーを取り出した。
この一連の流れは、思考を使わなくても身体が覚えている。
(早く……早く……早く……)
エントランスの硝子戸をあけると、そこに大きな男の影が見えた。
「……?」
鼻孔を付く癖のある香り。
その香りを嗅ぐだけで全身に鳥肌が立った。
「……っ!」
男が振り返る。
「よお、紫雨マネージャー。遅かったじゃん」
「岩瀬…!」
思考回路をシャットダウンした頭に、電池を切った身体に、ビリリと電気が走った。
(……逃げろ!)
紫雨は踵を返して火がついたように走り出した。
駐車場じゃダメだ。車に乗り込んでるうちに、キーを回しているうちに、ドアを開かれ引きずり出されてしまう。
走れ。
走れ。
走れ、走れ、走れ、走れ!!
警察は?!
派出所は?!
どこだよ!!!!
「紫雨さん?」
振り返ると、向かい側の道路に、見慣れたハイブリッドカーが停まっていた。
「どうしたんですか?」
運転席から林が叫んでいる。
「おい、待てよこら!!」
後ろから、岩瀬が追いかけてくる。
「……っ!」
紫雨はガードレールを飛び越えた。
反対車線から、車のクラクションが鳴り響く。
つまずきそうになりながら、林の車に、一歩、また一歩と近づいていく。
やっとのことでたどり着くと、反対車線を大型トラックが通り過ぎた。
そのすきに後部座席のドアを開け、身体を滑り込ませる。
「出せ!早く!!」
慌てた林がギアをドライブに入れ、車を発進させる。
ハイブリッドカーは車に似合わないキキキキという派手な音を立てて、夜の街に勢いよく発進した。