「そなたがヴァリニャーノか。フロイスもオルガンティノも高い学識と高潔な人格の持ち主だとほめていたが、成程分かるような気がする」
「畏れ多い御言葉にございます」
ノブナガの鋭すぎる程の眼光を受けても泰然としながらヴァリニャーノは答えた。
「遠い異国からはるばる我が国にやって来た労苦が顔に出ておるな。しかし若い頃はさぞや美男子であったのだろう。多くの女を泣かせてきたのではないのか?」
「……御冗談を」
ノブナガは場を和ませる為、客人の緊張をほぐす為に冗談を言ったに過ぎないのだろう。
だがヴァリニャーノは己の過去の過ちを見破られた気がして心臓が破れんばかりに驚愕していた。
ナポリ王国の名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは法学を学ぶためにパドヴァ大学に入学したが、学問に身を入れることはなかった。
その類まれな美貌と高貴で洗練された振る舞いによって多くの女性を引き付けてしまったが為、ヴァリニャーノは女遊びを覚えてしまったのである。
そして素人女には満足できなくなったヴァリニャーノは悪所に通いつめるようになり、毎日娼婦と遊び戯れ、時には複数の女性と乱交に耽り、酒を浴びるよう飲んだ。
そして女遊びだけでは酒毒と若い活力を発散出来ない為に喧嘩に明け暮れ、刃傷沙汰も常という有様であった。
(そしてあろうことか、私は情人の一人を斬りつけ、重傷を負わせてしまったのだ)
ヴァリニャーノは矢継ぎ早に浴びせられるノブナガの質問にそつなく答えながらかつて己が犯した罪を思い返していた。
(あの女性が私以外の男に通じていたからだ。ふっ、全く身勝手な話だ。私自身、彼女以外に複数の情人がいたのにな。彼女を裏切り者だと責める資格などあるはずが無い。いや、あの時私が激怒したのは彼女に対して嫉妬したのではない。男としての誇りが傷つけられたからだ。私はうぬぼれきっていた。私以上の美男子が、私以上の男などいるはずが無いと本気で思っていたのだ。全く何という思い上がり、愚か極まりない妄想であっただろうか。叶う事なら、この手であの頃の私を絞め殺してやりたい。
そして妄想に染まり切って理性と言うものを完全に失っていた私は気がついたら刃で女性の顔や体に幾度も斬りつけていたのだ。そして私はヴェネツィアの監獄に入れられた。後悔と罪の意識で身が切り裂かれるような日々であった。放蕩に明け暮れて名誉ある家名を汚して家族を失望させ、用意されていたはずの輝かしい未来を台無しにしてしまったこと。あろうことか非力で抵抗する力など無い女性の顔を斬りつけ、一生残るであろう深い傷を負わせるという人としてこれ以下は無い最低極まる愚行。もう死ぬことでしか罪を償うことは出来ないだろうと思った。そしてそこで回心が訪れたのだ)
ヴァリニャーノの心にあの瞬間の至福の喜びが鮮明に蘇った。
(私は唯一絶対のデウスの声を確かに聴いた。肉欲と傲慢という卑小な罪とは決別し、魂の浄化に至れ。それこそが真の喜びであると。そして己の罪を償う為に真の信仰を広め、この世を覆う闇を払うことにその身を捧げよと)
その使命を果たす為に遥か遠いジャッポーネまでやって来たのである。
そしてこの国をキリスト教カトリックに改宗させる為には眼の前の強大な王を何としてもイエズス会の味方につけねばならないだろう。
フロイス、オルガンティノによればこの王は寛容さと残虐さを兼ね備える不可解な人物であり、宗教勢力が政治に介入することを殊の外忌み嫌っているという。
それ故本願寺というジャッポーネにおける最強の武装宗教勢力に敢然と戦いを挑み、遂に彼らを下して武器とその本拠地を取り上げたのだと。
(確かにこの男は危険かも知れない。下手をすれば我らイエズス会を弾圧する可能性も大いにある。だがこの国から邪教崇拝、偶像崇拝を一掃する為にはこの王を利用せねばなるまい)
ヴァリニャーノは布教する為には適応主義を取り、この国の伝統的な信仰にも敬意を払うべきだという姿勢を取っているが、あくまでそれは方便に過ぎない。
最終的にはカミやホトケへの信仰は根絶すべきだと思っている。
言うまでも無く神は唯一絶対の存在なのであって、カミもホトケも所詮は汚れた悪魔、邪神に過ぎないからである。
神社、仏閣、仏像などは悉く破却し、灰燼に帰さねばならない。必ずそうしなければならないのである。
(そうしなければ、この国の人々の魂は救われないのだ)
決意を新たにしたヴァリニャーノはノブナガの対話に慎重かつ果敢に挑んだ。
ノブナガの質問はやがて九州の情勢へと移った。
各地の大名、すなわち諸侯王が有する兵力、政、統治されている人々の資質など。
(この男……。やはり九州にも兵を差し向けるつもりか)
ヴァリニャーノの背中に冷たい汗が伝わった。
彼の地では幾人かの王が既にキリスト教カトリックに改宗し、イエズス会への援助を惜しみなく行ってくれている。
彼らのことをノブナガはどう思うのか。そして彼の地で既に力強い影響力を発揮しているイエズス会のことを知ってノブナガは不快に思わないだろうか。
そしてノブナガの九州進出に彼らはどう対処すべきなのか。
「彼らが望んでいるのは静謐であって戦乱ではありません。貴方様の天下布武に大いに賛同し、付き従ってくれるのではないでしょうか」
「であるか」
ノブナガは微笑しながら答えた。
ヴァリニャーノの言葉をどう受け取ったのだろうか。内心鼻で笑っているのか、それとも無邪気に喜んでいるのか。あるいは九州の勢力に与する輩だと警戒したのか。全くうかがい知れなかった。
「色々為になったぞ。かなり頭が回る人物のようだ、気に入った。また会って話を聞かせてもらおうか、ヴァリニャーノ殿よ」
ノブナガは大いに気をよくしたらしく、小姓を呼んだ。
すると坊丸、力丸の二人が木の枠に布の張られた物が数枚連なり折り重ねられた代物を運んできた。
「あれは屏風と呼ばれる物です。元々は寝室での風よけですが、貴人に好まれる美術品でもあるのですよ」
そっとオルガンティノが教えてくれた。
「これは我が安土城を描いたものである。狩野永徳の筆によるものぞ。艱難を乗り越えて我が国にやって来たそなたらの労に報いる為にくれてやろう」
ノブナガが誇らしげに言った。狩野永徳とはどうやら高名な画家のことらしい。
成程、金箔を惜しげもなく使った布地を背景に雄勁な筆致で豪壮な城が描かれた様子は未だこの国の美術品に見慣れていないヴァリニャーノの魂を震わせるものがあった。
「このような大層な品をいただけるとは……。何と勿体ない。心から感謝申し上げます」
この狩野永徳作による屏風は後に教皇グレゴリウス13世に献上された。
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