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テラーノベルの小説コンテスト 第4回テノコン 2025年1月10日〜3月31日まで
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年末、ミュージシャン小山田圭吾の発言を隠れて録音した音声データが週刊誌のウェブサイトで公開されると、あっという間にアクセス数が数百万規模となり、新聞やテレビでも報じられるほどの大騒動となった。


人間は二種類しかいない。支配する側と支配される側。僕は前者で〈ピー〉や〈ピー〉はもちろん後者。僕にとって二人は支配し奪い尽くしそのことを楽しむ存在でしかない。〈ピー〉は今まで僕に処女を捧げ、僕のセックスと暴力を無条件に受け入れ、僕の排泄物も喜んで食べてきた。〈ピー〉も同じ。これから〈ピー〉と結婚したあとも僕に〈ピー〉を自由に抱かせ、死ぬまで一生懸命働いて僕の性奴隷と僕の子どもたちを養うことになる。支配する側とされる側の境界は絶対に越えられない。今までも、そしてこれからも。お分かりかな?


当初、週刊誌側は音声データの公開に前向きではなかった。この音声データの発言者が本当に小山田かどうか確証が持てなかったからだ。だから私は私自身の戸籍の附票も提出した。これには胎児認知された事実と認知した父親である小山田の情報も記載されている。週刊誌側はこれで行けると自信を持ち、被害者である私に関する情報は匿名化した上で、音声データの公開に踏み切った。

小山田がある女性を奴隷のように支配し、性欲の赴くままにセックスし、自分の排泄物を食べさせてさえいた。結局、その女性を妊娠させ胎児認知した。

奴隷、セックス、排泄物、妊娠、認知……。世間の人々が興味をひかれる材料がてんこ盛りだったこともあり、けっこうなスキャンダルとなってしまったわけだ。

小山田は文書とSNSでの謝罪で火消しを図ったが、会見を開いての謝罪は拒否し、そのせいか事態の沈静化の兆しはまだ見えない。

私の両親とともに認知届を書かせたあの日を最後に、小山田とは一度も会ってない。あの日から十日もしないうちに、会いたいとSNSで連絡が来たときは即ブロックした。

当初、何年も彼の奴隷状態に置かれたことの慰謝料も請求するつもりだったけど、今回の件のすべてを口外してはならない、という条件を向こうが求めてきたから慰謝料の請求は取り下げた。取り決め通りに出産費用と養育費さえ払ってもらえればそれでいい。それ以外に彼に望むことはもう何もない。

今回、週刊誌にリークしたのが私というのはバレバレだから、向こうももう私に会いたいとは思ってないだろう。


翌年三月、私は横浜の大学を卒業した。

四月、小山田との子どもを出産した。女児で、智音(ともね)と名づけた。智音はもちろん大智君と詩音さんから一字ずつもらったものだ。私が小山田の呪縛から脱することができたのは二人のおかげだ。同月、母子ともに健康な状態で退院した。

五月、沼津の実家で両親とともに過ごした。平和な日々だった。

六月、私はまだ首の座ってない智音を連れて新潟へと旅立った。そこで暮らすためだ。


新潟への転居は勝又美琴さんに誘われた。美琴さんは中学の一年先輩。といっても中学在籍中は学年も違うし、美琴さんの存在自体知らなかった。

小山田に認知届を書かせた日、私が彼から奴隷同然に扱われていたことを知った美琴さんは、その日の夜、私の実家まで訪ねてきて、友達になりたいと私に言った。私の実家の場所は大智君から聞いたという。

「帰ってください。私はそのことをもう思い出したくないんです。私は小山田に命じられて大智君にひどいことをたくさんしました。そのことは彼に謝りたいと思ってます。でもいくら先輩が大智君のお姉さんであっても、私が先輩と友達になる理由はないと思います」

「あたしも小山田の奴隷だった」

美琴さんはそう言って、まず私を絶句させた。

「放課後、軽音の部室の机の上で、小山田は大智にみんなの見てる前でオナニーさせたあと、誰もいなくなった同じ場所であたしとセックスした」

私と同じことをされている。小山田が校内で性欲処理に使っていた女は私だけじゃなかった、ということ?

「あなたも知っての通り、あいつサディストだからね、セックスしたあとよく言われたよ。姉も弟もどっちもおれの奴隷になりましたって聞かされて、おまえらの親がどんな顔をするか見てみたい。あいつはそれを笑いながら言うんだ。それだけはやめて下さいって土下座したあたしを見て、あいつは興奮してまた勃起して、そしてまたあたしを犯すんだ。今思えば地獄だけど、当時は逆らったあたしが悪いんだってずっと自分を責めていた」

小山田がやりそうなことだと思った。私の場合は小山田からこんなことを言われていた。

〈唯のことをいじめから助けてくれる女神のように思ってる大智に、実は唯もおれの奴隷なんだって教えたら、あいつ絶望して自殺するんじゃないかな? 今度試してみてもいいか〉

〈やめて! 傷つけるなら私だけにして!〉

〈人にものを頼むときはどうするんだっけ?〉

全裸のまま土下座した私を見て、確かに小山田は禍々しく勃起していた。もちろん、その勃起を鎮めるのが奴隷の役割だから、それからすぐ私の性器は小山田の性器によって再び蹂躙されなければならなかった。

「今日、川島健司という男もいたよね。あいつは中学のときも小山田の手下だった。あたしは月に一度くらい手下たちの前で下着姿にされて、彼らのものを口で処理してあげなければならなかった」

「私もそれをしました。私のときは下着も全部取らされましたけど」

玄関先で話す内容でもないから、私の部屋まで来てもらって、いっぱいお話した。小山田が私を奴隷にしたのは美琴さんが卒業したあとだと知った。新たな奴隷を探していた小山田は、美琴さんが卒業した直後、甘い言葉で私に近づいてまず処女を奪い、時間をかけて私を従順な奴隷に育て上げた。

「それから今までずっと? 七年間もあんな男の言いなりに? あたしなんてたった半年でもそれが原因で男性恐怖症になって、恋愛どころか男の人とただ普通に会話するだけでも苦痛に感じるような体質になってるっていうのに」

「今思うとマインドコントロールされてたんだと思います。小山田には私が自分の頭で考えることを禁止されてました。全部おれが考えて全部おれが決める。唯はその通りにするだけでいい。それで今までだって幸せだっただろう? これからもそうだって」

「唯さん」

「何ですか?」

「唯さんは今すごくつらいことを話してるはずなのに、全然たいしたことじゃないみたいに話してる」

「そうですか? でもそれがどうしたっていうんですか?」

「かわいそうに。たいしたことじゃないって思い込まないと、心が折れちゃうんだね」

次の瞬間、必死にせき止めていた心の堤防が決壊し、今まで抑えられていたあらゆる感情が私の中から溢れ出した。

「ああああああああ……」

「つらかったね。奴隷なんて感情を捨てなきゃやってられないもんね。でももういいんだ。泣きたければ泣いたって。あたしもさ、高校生になって小山田から離れられたはいいけど、しょっちゅうフラッシュバックを起こしては大声で泣き叫んでた」

いつの間にか私の体は美琴さんにきつく抱きしめられていた。

「いやああああああああ……」

私はただ悲鳴だか奇声だかよく分からないものを口から出し続けるだけだった。

「嫌なら嫌って、痛ければ痛いって、逃げたければ逃げたっていいんだ。もう唯さんは誰かの奴隷じゃないんだ」

「惨めだった……私、惨めだった……死にたくなるくらい惨めだった……」

小山田の言いなりだった七年間、私はただの惨めなロボットだった。考えるのが怖かった。自分の惨めさに気づかされるのが何より恐ろしかった。

お腹に小山田との子どもがいるのを隠して、詩音さんから大智君を略奪して、大智君をお腹の子どもの父親にしようとした。詩音さんの目の前で不意打ちで大智君にキスした。挙げ句、詩音さんが隠していた知られたくない過去を勝手に大智君にバラしてしまった。

小山田に指示されたこととはいえ、こんな狂ったことが平気でできるくらい私は惨めだった。

美琴さんは奇声を上げ続ける私を一晩中抱きしめていてくれた。こうして私たちは友達になった。

でも、大智君と詩音さんに会いに行く勇気は出なかった。結局、私が二人にしてしまった数々の悪事の謝罪と小山田の呪縛から私を解放してくれたことへの感謝は伝えられないまま、私は新潟へと旅立ったのだった。


もちろん、何のあてもなく新潟に住もうと思ったわけじゃない。私と智音が転居する半年前に、美琴さんがすでに新潟に移住していた。

去年の九月、いじめられっ子の大智君がいじめっ子の小山田を倒したあの日、美琴さんはかつて詩音さんにひどい目に遭わせた一味の中心人物の杉山流星という男と話をしていた。

流星たち十二人の男たちは七年前、二十歳だった詩音さんを言葉巧みに騙して十二人全員と恋人になったように思い込ませ、実際は共通の性処理の相手として毎日代わる代わる十二人の誰かとセックスさせていた。しかも十二人の男たちは全員未成年の高校生だった。十二人のうちの一人がすべて暴露して詩音さんが大学も辞めて失踪するまで、詩音さんのセックスまみれの日々はすでに半年も続いていた。

詩音さんと婚約者の大智君は十二人を許した。でも美琴さんは納得できなかった。

「詩音さんの処女を奪った挙げ句セックスの虜にした杉山流星さん、あたしが誰か分かる?」

「勝又美琴さんでしたっけ? 大智さんのお姉さんの」

「そう。あんたたちが勘違いしてたら嫌だから、あたしからもちょっと言わせてもらってもいいかな?」

「もちろん遠慮なく言ってください」

「あの二人はつらい過去を早く忘れたかっただけで、決してあんたたちのやったことが許されたわけじゃないんだよ」

「分かってます。おれたちは謝罪じゃなくて贖罪がしたかった」

流星はバッグから預金通帳を取り出して、開いて美琴さんに見せた。

「残高二千万!? あんたたちお金持ちなの?」

「みんなで持ち寄ったお金です。もし詩音さんと再会できたら慰謝料として渡せるようにいつも持ち歩いてました。でも今日話した感じじゃとても受け取ってもらえなそうだからその話はできませんでした」

「お金の話をしなかったのは正解だと思う。そのお金を受け取って、たとえば車を買ったら、その車に乗るたびにあんたたちのことを思い出すことになるんだから」

「詩音さんが失踪してからずっとおれたちが恋人を作らなかったのは、再会したとき詩音さんに恋人がいなければおれたちの中から誰でも一人選んでもらおう、という気持ちもあったからです。もちろん詩音さんがそれを望むなら、という前提条件つきの話ですけど」

「バッカじゃないの!」

美琴さんは本気で腹を立てた。

「レイプした加害者が被害者に結婚してやるっていうのと同じじゃん! ちょっと顔がいいからってうぬぼれるのもたいがいにしろよ! たとえ詩音さんに恋人がいなかったとしても、今さらあんたたちなんか選ぶわけねえだろ! 大学も辞めて、教師になるという夢も捨てて、生まれ育った土地も捨てて、七年間という長い時間も無駄にして、いったい誰のせいでそんなことになったと思ってんだ! 女を舐めんな!」

流星は何も言い返せず、ただうつむいていた。

「だいたいさ、何やっても土下座すれば許されるんなら、あたしだって小山田を殺してるっての!」

「小山田って隠し撮りした動画で詩音さんを脅してたやつでしたっけ?」

「それだけじゃない。あいつは中学のとき誰も来ない教室に毎日あたしを呼び出してはセックスの相手をさせてた。確かに無理やりじゃなかったさ。でも奴隷相手のセックスだからね、そこに愛なんてなかった。セックスばかりじゃなく、奴隷だからさ、言われたことはなんでもやったよね」

美琴さんは深く息を吸い込んで、それを一気に言い切った。

「セックスの前、必ず服を全部脱いで、服を着たままの小山田の前で誓いの言葉を言わされるんだ。何を言うかはあたしに任されてた。美琴は小山田君とセックスするために生まれてきましたとか、美琴は死ぬまで小山田君以外の男とはセックスしませんとか、いつか必ず小山田君との子どもを産んでみせますとか。これが小山田から見てつまんなかったり、前に似たのがあったりすると、お仕置きされるんだ。今日はおれのうんこを食べてね、とか。小山田のうんこ、何回食べたかな? うんこ食べるくらいだから、人が恥ずかしいと思うことはたいていやった。完全に麻痺してたよね。セックスだって十分恥ずかしい行為なのに、セックスだけで済んだ日は今日は恥ずかしいことやらされなくてよかったってめちゃくちゃうれしかったのを今でも覚えてる」

美琴さんの全身が怒りで震えていた。

「中学を卒業して小山田とは離れられたけど、小山田の奴隷にされたトラウマであたしは男と普通に会話できなくなった。うまく話せてるなって思っても、気がついたら泣き叫んでるか怒り狂ってるかどっちかになってるんだ。高校でも大学でもあいつ頭おかしいって思われて、男子たちから避けられてた。当然、恋愛もセックスもできない。何が悔しいって、小山田以外の男とはセックスしないって誓った通りの結果になってることだよね。仕事もさ、やる気はあるんだけど、入社試験受けたどの会社も面接官が男ばかりだったから、面接で泣いたり大声を出したりして就活は全滅した。今年大学を卒業したけど、今は女しか来ないスポーツジムの受付の短時間のバイトでこづかい稼ぎしてるだけ。たった一人にひどい目に遭っただけのあたしでさえ、あれから何年も経ったのにいまだに苦しんでる。まして十二人にひどい目に遭った詩音さんが簡単につらい過去を忘れられると思うなよ! 詩音さんは忘れたいだけであって、決して忘れたわけじゃないんだ! あんたたちはそれを絶対に忘れるな!」

冷静に話し始めたはずが、結局大声を出してしまった。あたしのこの悲しみはいったいいつになったら癒えてくれるのだろうか?

美琴さんは泣いたり大声を出したりしたあとは、必ずそんなふうにひどい自己嫌悪に襲われる。

「あの、ちょっと聞いていいですか?」

「何?」

「詩音さんには今、大智さんという心の支えがいますけど、美琴さんにはそういう人はいますか?」

「さっきも言ったけど恋人ならいない。男に嫌われる女は女も相手しないみたいでさ、友達もいない。両親だけだな。こんなあたしを見捨てないでくれるのは。その親にもあたしはさんざんひどいこと言ってきた。ひどいこと言ったのはあたしの方だけど、そういうのを思い出すと、ときどきあたしの方が居心地が悪くなるんだ」

「美琴さん、あなたがつらい過去のせいで今も苦しんでる、というのは分かりました。一つお願いがあるんですが、聞いてもらってもいいですか?」

「言ってみな」

「美琴さん、しばらく新潟で暮らしませんか?」

「は? なんで?」

「美琴さんがトラウマを乗り越える手助けをおれたち十二人でしたいんです。本当は詩音さんに再会したらその提案をするつもりでした。でも詩音さんにはもう大智さんがいますから、おれたちの出番はない。かつて詩音さんの人生をめちゃくちゃにしたことの償いをどうしてもさせてほしいんです。美琴さん、おれたちに最後のチャンスを与えるつもりで、詩音さんの代わりにその役目を引き受けてもらえませんか?」

「トラウマを乗り越える手助けって、あんたたち、詩音さんにトラウマを植えつけた女の敵だよね? 信用してもらえると思ってるの? あたしが新潟に行ってひどい目に遭わされないって保証がない限り絶対に行かないよ」

流星は残りの十一人を呼んで何か相談してから、美琴さんに言った。

「美琴さんの口座に二千万円送金するので預かっていて下さい。もし美琴さんが新潟でおれたちの誰かから嫌な目に遭えば、その金は迷惑料としてそのまま差し上げます。この条件でどうですか?」

「あたしはそれでいいけど、お金だけ受け取ってあたしが新潟に行かなかったら、あんたたちどうするのさ?」

「それならそれで、あなたが小山田にひどい目に遭わされた慰謝料としてそのお金を受け取ったんだっておれたちは思うことにしますよ」

美琴さんが流星に口座情報を伝えると、確かにすぐに二千万円が自分の口座に送金されたことを美琴さんはネットバンキングで確認した。


美琴さんも約束を守り、翌月の十月に新潟に出発した。住居は流星の父親が所有する賃貸マンションの空き部屋の一つを無償で貸してもらえることになった。仕事は向こうに行ってから考えるそうだ。

そのとき私は大学のある横浜に住んでいた。横浜で途中下車した美琴さんと駅ビル内のカフェで少し話した。

「あたしが先に新潟に行って見たこと聞いたことを全部伝えるから、よさそうなら唯さんもあとから来るといいよ。男にひどい目に遭わされてトラウマに苦しんでる子をほかにも一人知ってるけど、その子が来たいと言ったら追加で受け入れてもらえる? って流星に聞いたら、何人でもいいですよって言ってもらえてるから。あとから唯さんが来ても困らないように、あいつら十二人が神なのか悪魔なのか、あたしはその辺も徹底的に見極めてやるつもりだよ!」

美琴さんはそのあと、大智君が教員採用試験に合格したことと大智君と詩音さんが入籍したことと詩音さんが妊娠したことをいっぺんに教えてくれた。結婚式は挙げないらしいけどそれは仕方ない。いじめられっ子だった大智君は呼びたい友達がいないだろうし、詩音さんに至ってはすべてに絶望して故郷から逃げ出した過去を持つ人だから。

「なるようになったって感じかな」

「そうだね……」

かつて私はあの二人がなるようにならないように妨害してばかりいた。なるようになってくれて本当によかったと思うと、涙が出てきて美琴さんに心配されても涙が止まる気配はなかった。


美琴さんの新潟生活はとても快適だったようだ。流星の仲間の一人の親がお弁当屋を経営していて、バイトはそこでしている。毎日流星の仲間たちがお弁当を買いがてら様子を見に来てくれるそうだ。

もちろん、手を出してくる卑劣な男もいない。住み始めて三ヶ月後には預かった二千万円も流星に返却したそうだ。

真冬の頃、困ってることはないんですかと聞いたら、すぐに雪と返事が返ってきた。マンション住まいだから積もった雪のせいでドアが開かないということはないけど、歩くのが大変でときどき外に出るのが億劫になるそうだ。

六月、詩音さんが無事男の子を出産した。名前は広道君。大智君が命名したそうだ。人で賑わう広い道の真ん中を歩いていくように、道を外れることなく堂々と生きてほしい、という親の願いが明確でいい名前だと思った。

卑怯で臆病な私は二人への謝罪をまた先送りにして、四月に生まれたばかりの智音を連れて新潟へと旅立った。


「勝呂唯さん、お久しぶりです。抱っこしてるのが智音ちゃんですね。お二人とも大歓迎しますよ」

そう言う杉山流星の声が少し緊張していた。そりゃそうだろう。小山田圭吾との子を妊娠した身で、小山田に奴隷にされていた過去を週刊誌のウェブサイトで告発した女が私であることを、彼は知っているのだから。

私たち親子の部屋は美琴さんの部屋の隣に用意されていた。確かにそばに美琴さんがいれば心強い。流星たちの気遣いは新潟生活のスタートから完璧だった。

小山田から毎月十万円の養育費が振り込まれ、市からも母子家庭向けの手当が支給される。その上、美琴さんと同じく家賃はタダにしてもらっているから、家計的にはかなり余裕がある。

近所の公園で親子で日向ぼっこしてると、流星の仲間たちがよくやってくる。でも首の座ってない子を抱っこするのは怖いみたいで、私に抱っこされた智音をいないいないばあをして笑わそうとしてくれるくらい、でもそんなことでも正直助かるし、とてもうれしい。

美琴さんが新潟に向かうとき、流星たちが神か悪魔か見極めてやると宣言していたけど、私が見たところそのどちらでもなく、彼らは善と悪の両方の心を持ったただの人間であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

近所に生後六ヶ月から預かってくれる保育園があって、ちょうど空きがあって待機しなくても入園できるというから、十月から働くことにした。教育委員会に講師登録すると、小学校ならちょうど十月から産休に入る先生がいて、その人の代わりに教壇に立つことができると聞いた。本当は高校がよかったけど、小学校の教員免許も持ってるし、これも何かの縁ということで、その話を進めてみることにした。


私たちが転居してきてしばらくすると、美琴さんが流星の仲間の一人の斉藤大輔といっしょにいるところをよく見かけるようになった。

「実はつきあってるんだ」

美琴さんは私に聞かれる前に自分から打ち明けてきた。

「彼、とにかくやさしくて、彼といると今までの嫌なこと全部、気にしないで生きていけそうな気がして、あたしの方から告白したんだ」

高校生みたいに顔を赤らめる美琴さんをかわいいと思った。実際に高校生だったとき、彼女は過去のトラウマのせいでうまく男子と話すこともできなかったそうだ。要は、高校生の段階の恋愛からやり直す、ということになるのだろうか? まあ、まともな恋愛経験がないという点では、私は美琴さんときっと同じだ。

「あたし、いろいろまだ怖いから、ゆっくりでいいかなって聞いたら、いいよって言ってもらえた。本当にいい人でよかった」

そうは言っても、大輔だってかつて詩音さんを傷つけた男の一人だ。大人にならなければいけないのは、美琴だけでなく大輔も同じ。一方的に誰かが誰かを助ける関係でなくて、被害者も加害者もともにいろいろなものを乗り越えていく、これはそういうコミュニティーだったんだなとそのとき気がついた。


教壇に立つのは大学での教育実習以来。ただ、そのときは実習生だけど、今回は産休代替講師。お金をもらって子どもを指導する立場。甘えは許されない。

と意気込んできたのに、職員室の隣の席の、正規雇用の教諭のくせに茶髪にしてる、私より二つ年上の女はいったい何なんだろう? 勤務時間中、職員室にいるときは、誰かとLINEしてるか、化粧を直してるかのどっちかだ。

担任する子どもが何か質問してきても、ほかの先生に聞いてねってそれはないんじゃないかと思う。答えられないにしても自分でほかの先生に聞いて、自分の口から子どもに教えてやるくらいのことはやってほしい。じゃないと、担任の意味がない。

彼女も私も同じ四年生の担任。彼女のクラスの子どもがいちいち私に質問に来るのを相手するのは正直しんどい。私だって産休代替講師として配属されたばかりで、まだこの学校のことで分からないことはたくさんあるってのに。

彼女の名は高部千花、教員三年目の二十五歳。新規採用でこの学校に配属され、一年目は二年生の担任。それから持ち上がりで昨年度は三年生、今年度は四年生の担任というわけ。同じ子どもたちを三年間見続けてきたのに、当の子どもたちからの評判はよくない。それはそうだ。子どもたちだって馬鹿じゃない。


放課後、明日の授業の準備をしてると千花が話しかけてきた。

「勝呂先生、そういえばシングルマザーで生後半年の娘さんがいるんだっけ? 普通、出産して二年は育休を取るのに、非正規雇用は大変ねえ!」

正規雇用の教諭のみなさんなら育休期間中に普段の給料の半分以上の給付があることは知っている。私にはそんなものはないけど、働きたいから働いているだけだ。ほっといてほしい。

「それにしても、大学在籍中に妊娠して卒業直後に父親のいない子を出産するなんて、無計画もいいところだし、自己管理能力にちょっと問題あるんじゃないの?」

そこまでいうなら、あなたのその優れた計画性と自己管理能力をぜひ仕事で発揮して下さい。あなたの机の上にあるそれは二週間前に実施したテストですよね? 採点して返却しなくていいんですか?

「まあ、大学の頃はあたしもさんざん男と遊んだし、お金が厳しいときはパパ活なんかもやったけど、そんなあたしも結婚前提のおつきあいを最近始めたんだよね」

「そうなんですか。いい人との出会いがあったんですね?」

「いい人? 全然!」

鼻で笑われた。いちいち腹が立つんですけど!

「彼は違う小学校の先生で今年で三十歳なんだけど、真面目で優しいだけが取り柄で見た目は全然パッとしないし話は仕事のことだけ。しいていえば、モテる要素0で絶対浮気しそうにないところが一番の魅力かな。あたし、なぜか過去の彼氏に浮気性の男が多くて苦労したから、結婚するならそういう心配がまったくいらない男って決めてたんだよね。それともう一つ条件があって、あたしの浮気には目をつぶること。独身時代遊んだ人は結婚したらもう遊ばないっていうけど、あれ嘘だよね。あたし一人の男でずっと我慢できる自信まったくないもん。一番いいのはあたしが浮気しても気づかないくらい鈍感なこと。今の彼氏はあたしの結婚相手にピッタリかな。モテないから浮気できない、鈍感だからきっとあたしの浮気に気づかない、万一浮気がバレても優しいから謝ったらきっと許してくれると思うんだよね」

ひどい言われようだ。録音してその彼氏さんに聞かせてあげたら、泡を吹いてぶっ倒れるんじゃないだろうか?

「元カレというか今もときどき会ってセックスしてる人が彼の同僚にいてさ、〈今年で三十歳なのにまったく女っけなくて童貞臭がぷんぷんする男が同僚にいてさ〉って話をその元カレから聞いて、その元カレから彼を紹介してもらったんだよね。笑っちゃうよね。彼、絶対童貞のくせに、一回だけ大学の後輩としたことあるって言い張ってさ。そこまで言うならどこの誰だか教えてみてよって言ったら、それからすぐ彼女が大学を辞めてしまったからその後どうしてるかは知らないってさ。話に無理がありすぎだっての。童貞も恥ずかしいけど、童貞なのに童貞じゃないって言い張るのはもっとみっともない。もちろん口では童貞だからって馬鹿にしたりしないけどね。彼の前では、あたしはまだ処女ってことになってるから。正式に婚約するまでそういうことはしませんから、とも伝えてある。もったいぶってるのもあるけど、なんか気持ち悪くて彼とする気になれないんだよね。本当はキスするのもイヤ。結婚後は仕方ないから彼には月に一度だけやらせてあげて、ほかの男とは週二くらいで遊ぶつもり。ちょっとの浮気であたしがいい奥さんでいられるなら、彼にとっても悪い話じゃないと思うんだよね」

なんか同意を求められてるみたいだけど、同意できる部分が微塵もないから困る。

「ふと思ったんですけど、高部先生、その元カレと結婚した方がうまくいくんじゃないですか?」

「元カレ、もう結婚して奥さんも子供もいるんだよね。既婚者でもよっぽどいい男なら略奪してもいいんだけどさ、すごい浮気性だから結婚相手としてはちょっと無理。顔も運動神経もいいからね、元カレの精子で妊娠して彼に育てさせるのはアリかもねって元カレと二人で話してはいるけどね」

アリのわけないじゃん! って思ったけど、かつて私が小山田との子を大智君に育てさせようとしていたことを思い出して、私は高部千花と同類だったんだなと自己嫌悪で胸がいっぱいになった。

「そんな心配そうな顔しないでよ。元カレも彼も同じ血液型だからそこから誰が父親かを疑われることは絶対ないから」

そんな心配してません! なんか頭痛がしてきたから、トイレと言って私は席を立った。


街にクリスマスソングが流れ始めた頃のある土曜日、私は寝ている智音を抱っこして、賑やかな通りを歩いていた。今日は、藤原礼央と南場達彦と緑川芳樹が智音の遊び相手として、私たちの隣にいてくれる。三人とも子供好きの好青年。かつて詩音さんをみんなで性欲処理の道具として扱っていた人たちにはとても見えない。

前から歩いてくるカップルを見て、礼央があっと言った。彼らにとっては地元だから知り合いとばったり出くわしたのかなと思ったら、カップルの女の方は私も知ってる人物だった。

「高部先生」

と声をかけると、彼女はなぜか苦虫をかみ潰したような顔になった。

相手の男は背が高いのはいいけど、真面目なんだろうなっていうこと以外の感想が思い浮かばない。四角いメガネをかけて少し気難しそうな印象も受ける。

高部千花が、〈モテないから浮気できない、鈍感だからきっとあたしの浮気に気づかない、万一浮気がバレても優しいから謝ったらきっと許してくれる〉と言ってたのはこの人なんだろうな。気の毒だとは思うけど、部外者の私が口出しすべき話でもない。

高部千花は私と智音をほとんど見ず、私が連れてる三人の男の顔ばかり見ている。

もしかして連れてる男を比べて負けたと思ってる? こっちは三人も連れているわけだから恋人じゃないというのは分かりそうなものだけど……

まあ、恋人じゃないならなんなの? と聞かれても何と答えていいか答えづらいのは確かだ。育児ボランティア? うーん、絶対信じてもらえないな。

「あのさ、勝呂先生、勝ったって思わないでよね」

やっぱり……

確かにこっちの三人はイケメン揃いだ。特に礼央は、流星には及ばないけどお金の取れるイケメンだと思う。でも小山田から離れてから、顔がいいとか有名人だとか、そういう誰かが決めた価値観に、私はもう流されないことにした。

それから、私は別にあなたなんかに勝ちたいと思わないし、あなたが〈勝ったと思わないで〉と口にするのはそもそもあなたが連れてる彼氏さんに失礼だからやめてほしい!

「生活に困ったシンママ落とすのは簡単だから狙われてるだけなの。勘違いしないでよね!」

私は何を言われてもいい。自分が大智君や詩音さんにしたことを思えばそれくらい言われても当然の人間だという自覚はある。でも高部千花と初対面であるはずの礼央たちには謝ってほしい。

礼央たちも明らかにムッとしてるけど、何も言い返さない。高部千花が私の同僚だからトラブルになると私に不都合があるかもしれないと自重してくれているらしい。本当にいい人たちだ。かつて詩音さんにひどい目に遭わせた、というのも嘘なんじゃないかと思えてくる。

「高部先生」

そう言い出したのは私ではなく、高部千花の彼氏さんだった。

「今の発言はみなさんに失礼です。発言を取り消して、謝って下さい」

「何言ってるの? 彼氏なら彼女の味方をしなさいよ!」

「あなたが謝らないなら、僕はあなたとは別れます」

「別れる? あんたさ、今あたしと別れたら死ぬまで童貞確定だよ」

「いいですよ。僕は詩音さんのことは八年経った今も忘れた日はないけど、君のことは一日で忘れる自信があります」

「童貞のまま死ね! 馬鹿野郎!」

高部千花は私にも毒づくことを忘れなかった。

「あんたさ、講師の分際で教諭のあたしに恥をかかして! 明日から覚えてなさいよ!」

私、あなたに何かしたっけ? という私の心の思いは当然ながら無視されて、高部千花はヒールの音を鳴らして走り去った。

嵐が過ぎ去って、ここに残された五人の誰もがしばらく無言だった。

私たちと出会ってしまったせいで別れることになってしまった。高部千花の彼氏さん、いや元彼氏さんに謝った方がいいんだろうか? と思案してると、最初に口を開いたのは礼央だった。

「道の真ん中じゃ話しづらいことがあるんで」

礼央は近くの公園に私たちを誘導した。私と高部千花の元彼氏さんだけベンチに座らせ、その前に立ち、なぜか私でなく初対面のはずの元彼氏さんに頭を下げている。礼央に続いて達彦と芳樹も頭を下げた。

「小野蓮さんですよね」

「なぜ僕の名前を?」

「あなたから交際を申し込まれたと西木詩音さんから聞いて知ってました。詩音さんがあなたとデートする場所におれたちもいて、あなたの顔も覚えました」

「詩音さん!」

と言ったきり彼は絶句した。

「じゃあ、みんなで結託してチヤホヤして詩音さんを舞い上がらせて、好き放題にセックスしていた高校生というのは……」

「すいません。おれたちです。詩音さんはおれたちでなく、あなたとつきあうべきでした。そうすれば大学を辞めて教師になる夢もあきらめて遠くの街に逃げ出していくこともなかった」

「それは僕じゃなくて詩音さんに謝るべきことだと思うけど」

「もちろんそうです。去年の夏、偶然再会できたので全員で土下座して謝りました」

「許してもらえたの?」

「許されたというか、恨みながら生きるのは嫌だから忘れることにしたと言ってました。そう言ったのは詩音さんの婚約者さんですが、詩音さんも同じ気持ちだと言ってました」

「婚約者さん? 彼女、結婚したの?」

「おれたちとの過去もすべて知った上で、その人は詩音さんと結婚して、六月には子どもも生まれたそうです」

「そうか、よかった……」

さっき恋人に去られたときはなんともなかった小野蓮がぼろぼろと涙を流している。

「いつか詩音さんの体に飽きたら全部あなたに押しつければいいやと思って、詩音さんにあなたとの交際を許しました。外道という言葉はおれたちのためにある言葉だと今は思います。本当にすいませんでした!」

「いやいいんだ。僕は彼女を愛していたけど、彼女は僕をいい人だと思うだけで、たぶん愛してはいなかった。新潟を去る前に一度だけ僕にも体を抱かせてくれたけど、あれは愛というより彼女なりのけじめのようなものだったと思う。彼女が君たちを忘れるというのなら、僕が怒る筋合いはない、僕も君たちを忘れるよ。ただ彼女のことは忘れようとしても、まだ当分忘れられそうにないかな」

そう言って彼が泣き笑いの表情を浮かべたとき、抱っこされていた智音が私を無視するなと言わんばかりに激しく泣き出した。

「すいません」

「赤ちゃんは泣くのが仕事ですから。ちょっとあやさせてもらっていいですか?」

智音を渡すと、彼は慣れたように智音をあやし、たった五分で智音を泣きやませた。

「慣れてますね」

「いや全然慣れてないですよ。でも学校の子どもたちもそうですけど、子どもというのはこちらが愛せばそれに応えてくれる存在だと僕は信じてるんです」

なるほど。でもそれは相手が大人でも同じじゃないかな。この人に愛されてそれに応えたい、と無邪気に笑い出した智音を見ながら、私は思った。

地味だけど、清楚でもない

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