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高校教師となって二回目の夏休み。去年の夏は採用一年目ということで初任者研修に追われ、家族サービスらしきことがまったくできなかった。絶対に怒られると思ったけど、詩音さんはただ黙々と広道の子守りをして家事をこなしていた。
「私は君と出会うまで、こんな自分が誰かに愛されるなんて、ましてや誰かのママになれるなんて思ってなかった。死ぬまで一人ぼっちなんだって思い込んでた。家族サービス? そんなものなくても十分幸せだよ」
詩音さんが僕に何か買ってとせがんだことは一度もない。まだ広道が生まれる前、両親に怒られたことがある。
「大智、おまえ本当は詩音さんの過去を根に持って、裏でつらく当たってるんじゃないのか?」
「どうしてそう思ったんですか?」
「詩音さん、結婚前も結婚後もずっとおんなじ服を着てるじゃないか」
「詩音さんがいらないっていうんです」
「そんな馬鹿な話があるか! じゃあ、父さんからも言ってやる! 一着と言わず五着くらい買ってあげるから、いっしょに買い物に行こうってな!」
「ぜひお願いします」
僕と両親で説得したけど、詩音さんは首を縦に振らなかった。結局、詩音さんが次に服を買ったのは妊娠してお腹が目立ってきたから必要になったマタニティーウェアだった。
結婚前にもそういう傾向があったけど、結婚後は彼女のそういう慎ましさというか卑屈さに拍車がかかった気がする。広道が生まれて、彼女は突然大智さんと僕をさん付けで呼び出して、一方で自分のことは詩音と呼び捨てで呼んでほしいと言い出した。
「なんでですか? 今まで通りでいいと思うんですが」
「大智さんが私をさん付けで呼んで、私があなたを君付けで呼んでいたら、お母さんの方がお父さんより立場が上なんだっていつか広道が勘違いするかもしれないですから」
「立場が人間性って意味なら、僕自身も僕よりもあなたの方が上だと思ってますが」
「冗談はやめて! 私は真面目に話してるのに!」
僕も真面目に話してるんだけどな……
彼女はなかなか歩み寄ろうとしなかった。
「詩音さんの意見と僕の意見が衝突したときは必ず僕の意見を優先するって前に言ってましたよね?」
そう言うと詩音さんは何も言えなくなり、結局、お互いの呼び方は今までどおりとさせてもらった。
彼女の誕生日は四月十五日。今年の誕生日の直前、誕生日プレゼントに何かほしいものはありますか? と聞くと、ないこともないというまんざらでもない反応。
「今まで何も買ってないんだから、どんなに高いものでも買いますよ」
「セ…………」
「すいません。よく聞き取れなかったんですが」
「セックス……」
「セックス? 今だって週三くらいしてますよね……」
「これ以上すると仕事に差し支えるというなら無理は言わないけど……」
そういえば、以前美琴さんとやり合ったとき、売り言葉に買い言葉でこんなこと言った覚えがある。
「毎日でも、彼女の気が済むまで何度でも、僕は彼女とセックスするつもりです」
詩音さんはそのとき、きっとこれからは僕と毎日セックスできるんだと期待したに違いない。
「ごめんなさい。僕、約束を守ってませんでしたね」
「本当に無理しなくていいよ」
「僕だってしたいんです。――脱いで下さい」
「今?」
「はい」
まだ明るい時間。困った表情を浮かべながらも、詩音さんはするすると服を脱ぎだした。経産婦となった、もうすぐ二十九歳になる彼女の裸を見て、きれいだよって僕はささやいた。
「嘘」
「嘘じゃないです」
まだ何もしてないのに彼女の僕を受け入れる器官が愛液で溢れている。
「恥ずかしい……」
「もっと恥ずかしい姿を見せてもらいますね」
そう言われると、詩音さんは顔を赤らめた。本来、清楚な人なんだ。もちろん、二十歳の頃の彼女にも性的な好奇心はあった。それはあくまで健全でありふれたものだった。杉山流星とその仲間たちに目をつけられることがなければ、いくつかの健全な性経験を経て、念願どおりに小学校の教師となり、素晴らしい夫とも出会い、健全な人生をまっとうできたはずだった。
七年ぶりに再会して謝罪されたとき杉山流星がこう言ったそうだ。
「軽い気持ちで、本当に軽い気持ちで、国立大学の地味で真面目な女におれたちみんなでセックスの気持ちよさを教えてやろうぜってノリであんなことをしてしまいました」
その結果どうなったか? 小山田圭吾から没収した彼女の性行為を十時間も隠し撮りした動画にそのすべてが記録されていた。彼女はセックスの虜にされて、十二人の男たちの性処理に喜んで利用されながら、性的快楽に溺れ、「愛してる!」だの「愛してると言って!」だのと叫び続けた。その動画を編集した井原元気はノーマルな性行為の場面をなるべく減らし、詩音さんの羞恥心をかき立てるような変態的でアブノーマルな性行為を中心に動画に収めていた。
たとえば、彼女の生理中に風呂場で男と性交している場面。コアラがユーカリの大木にしがみつくような体勢で、彼女は男に挿入されていた。男は自分にしがみつく彼女を突き上げながらのっしのっしと風呂場の中を歩き回った。ぽたぽたと血を滴らせながら彼女は絶叫した。
「すごい! 頭が変になりそう!」
たぶんそのときすでに彼女は頭が変になっていたんだと思う。
別の場面では、
「三十分おれの肛門を舐めたらセックスしてやるよ」
と言われ、彼女は一言も文句を言わず、男の言う通りにしていた。
彼女は文字通り、男たちに精液まみれにされていた。膣内に出され、後ろの穴にも出され、胸の膨らみを汚され、顔にかけられ、全部飲み干すように強制され――
僕はそんな詩音さんに同情したわけじゃない。ただ愛してしまっただけだ。バイト先で失敗ばかりで女子高生にも馬鹿にされる僕に恋をしてくれたのはあなただ。高校の教師になるという僕の夢を聞いて、君の夢は私の夢だと言ってくれたのもあなただ。僕がかつてひどいいじめに遭っていたと聞いて、泣いてくれたのもあなただ。
「二十歳の頃にしていたようなセックスをまたしたいと思うことはありますか?」
不安になって一度だけ聞いてみたことがある。
「私はもう二度と愛のないセックスはしたくない」
彼女と男たちの行為を十時間も隠し撮りした動画を僕が最後まで見ることができた理由もおそらくそれだ。彼女と相手の男が心から愛し合っていることが伝わる中味なら、十時間どころか十分間だって僕は見続けることができなかったはずだ。でも、十時間の動画のどこにも愛は見つからなくて、かえって僕はホッとした。そこに記録されていたのは、自らの欲望のために彼女の尊厳を踏みにじる自分勝手な男たちとひたすら性的刺激を求めて男たちの言いなりになりさまざまな痴態をさらす惨めな彼女の姿だけだった。
十時間の動画といってもそれがすべてではない。十二人の男のうち動画に登場したのは五人だけだった。杉山流星も動画には出てこない。つまり、彼女は動画以外でも男たちに弄ばれ辱められていたのだ。動画の中で彼女は自慰行為を男に見せ、性器を道具で責められて絶叫し、部屋の中に置かれたおまるに大便を排泄していた。隠し撮りされてないときもきっと同様なおぞましい目に遭っていたにちがいない。
さっき彼女に同情しないと言ったけど、逆に偉いなと思う。僕だったら発狂していたかもしれない。彼女は大学を退学し、教師になるという夢もあきらめて、すべてを捨てて逃げ出した。その後、七年間も見知らぬ土地で一人ぼっちで生きてきた。二度と誰も愛さないと心に誓って。
確かに彼女はかつて過ちを犯したのかもしれない。多くの男たちと関係し性的快楽に溺れそれ以外のすべてを見失った。でも僕とつきあい始めるまでの七年間で彼女は十分すぎるほどの償いをしたのではないか? 世界中が彼女の罪を責めたとしても、僕だけは彼女の味方でありたい。
だって僕だって彼女に救われたから。すべてに絶望して自死を図り生き延びてからも、僕は誰からも嫌われ笑われ馬鹿にされてきた。彼女に愛されて、僕は初めて幸福を感じた。生まれてきてよかったと思えた。
だから僕は愛に満ちたセックスを彼女としたい。彼女の性器を汚し肉体を弄び心を辱めてちっぽけな征服感に浸るのではなく、文字通り彼女と心も体も一つになるためのセックスをしたかった――
すでに全裸になっている詩音さんの髪を撫でる。詩音さんは沼津に来てからずっとショートカットにしていたけど、僕とつきあい始めたころから髪を伸ばし始めた。今ではヘアスタイルの教科書にストレートロングの見本として載せても恥ずかしくないほどのボリュームになった。髪が豊かになっただけ小顔に見えるからさらに美しい。
ただし、詩音さんは二十歳の頃もそのヘアスタイルだった。つまり隠し撮り動画の中の詩音さんもそのヘアスタイルだったということ。
「大智君が気にするならまた髪を切るけど」
「切ってほしくないです」
僕は即答した。
「詩音さんはその髪型が好きなんですよね? それに僕も長い方が好きです。沼津に来てからずっとショートにしてたのは髪を伸ばしてると過去を思い出すからじゃないですか? 詩音さんはようやく過去を乗り越えたんですよ」
「ありがとう。彼らのせいで好きな髪型にもできないのかって考えたら、なんだか悔しくって……」
動画の中の〈彼ら〉は所詮高校生、詩音さんの自慢の髪に誰一人まったく興味を示さなかった。彼らが圧倒的に執着していたのは詩音さんの性器で、その次は胸の膨らみ、それから自分の性器を気持ちよくしてもらえるという意味で、手と口。それ以外のすべての器官は、精液をかける場所という役割以外与えられてないに等しかった。自慢の黒髪が精液で汚された場面も何回か見た。
「僕は詩音さんの髪が大好きですよ」
「うれしい!」
詩音さんは髪を撫でられるのが好きだ。それに気づかなかった彼らは馬鹿だと思う。
僕はおもむろに詩音さんに口づけする。詩音さんはキスするのも好きだ。でも動画の中の男たちはほとんど詩音さんとキスしなかった。どの男も彼女の口の中に性器を押し込むことは好きだったけどね。
気が遠くなるほど長い時間キスをしてから彼女の性器に触れると、愛液が溢れ太ももに垂れた。
「大智君、じらさないで」
「そういえば、初めてのとき僕は詩音さんにずいぶんじらされました」
「ごめんなさい。あのときは童貞だった君にちょっと意地悪してみたくなって……」
「謝ったので許してあげます」
詩音さんのことは本当にかわいいと思っている。その気持ちはあの隠し撮り動画を見たあとも変わらない。むしろこんなにかわいい人を寄ってたかってセックスの虜としていた十二人の男たちを憎んだ。もう二度と僕らの前に現れないと全員に約束させた。あとは僕らが彼らを徐々に忘れていけばいい。
待ちきれないとばかりに詩音さんが僕を立ち上がらせて、ズボンとパンツを脱がしていく。僕の勃起した性器を見て詩音さんはホッとした表情を見せる。僕が動画を見たあとそういう習慣ができた。男たちの言いなりになって恥も理性もかなぐり捨てて性の快楽を貪る無惨な彼女の姿を何時間も見せられた僕が、自分に欲情しなくなることを恐れているのだ。
世の中には妻や彼女を寝取られて性的な興奮を感じる男もいると聞くが、幸か不幸か僕にはそのような属性はないようだ。
動画の中で井原元気が、正常位で繋がっている詩音さんに尋ねた。二人とも一糸まとわぬ全裸。
「もし今撮影されていて、いつかその動画が流出したら姫はどうします?」
詩音さんは元気を突き飛ばして、目を覚ましたように起き上がった。
「冗談ですよ。でもたとえ隠し撮りされた動画が流出してもおれは姫と結婚してもいいって思ってますよ」
「本当?」
「愛してるから」
「元気さん、突き飛ばしたりしてごめんなさい」
このときまだ詩音さんは十二人の男たち全員が自分より年上だと信じていたから、元気もさん付けで呼ばれているわけだ。ラモスという男だけ君付けで呼ばれていたが、それは彼が詩音さんから見て弟のような存在だったからのようだ。(弟のような存在といっても何度もセックスをしていたわけだが)
「悪いと思うなら四つんばいになって尻を突き上げろよ」
言われた通りにした詩音さんを、元気は笑いながら後ろから犯した。元気は詩音さんの性器を思い通りに蹂躙するあいだ、片手で彼女の太ももをつかみ、もう片方の手の平手で彼女の尻全体が薄紅色に充血するまでぱんぱん叩きまくった。痛いよって抗議するのかと思ったら全然違った。
「元気さん、もっと叩いて! 詩音が元気さんのものだという印をいっぱいつけて!」
詩音さんは〈姫〉と呼ばれ持ち上げられる一方で、実際は元気の奴隷同然にしつけられていた。元気はますます激しく詩音さんの尻を乱打し、そのたびに詩音さんは歓喜の声を上げた。
「じゃあ、そろそろおれも気持ちよくなっていいか?」
「うん。詩音の体で元気さんが気持ちよくなってくれるなら、私もうれし……あっ」
詩音さんが言い終わるのも待たず、元気は詩音さんの性器を力任せに後ろから突きまくった。
「元気さん、愛してる! ああっ、イクっ!」
性的快楽に溺れた詩音さんが緊張感のない無防備な表情をさらしている。一方、元気は得意満面な表情。それは単に、性的欲求を今ちょうど満たしている、という満足感だけによる表情ではないだろう。年上の女子大生が自分の言いなりになっているという征服感や、もっともっといたぶってやろうというサディスティックな悪意も含まれているように感じられた。
「元気さん、愛してるって言って!」
何度も詩音さんが叫んでいたが、もう二度と元気は愛してるとは答えなかった。
「元気さん、私また……」
「出すぞ!」
「出して! 中に出して!」
「まさか危険日?」
「大丈夫! 元気さんとの子どもなら喜んで産むよ!」
「冗談じゃねえ!」
元気はチッと舌打ちして性器を引き抜いた。詩音さんを乱暴に仰向けにさせると、口の中に性器を押し込んで射精した。そのまま元気はどこかにいなくなり、口もとから精液を垂らしながら横たわる詩音さんの裸体だけが動画に映り続けた。愛してると言って! 詩音さんは無言だったが、心の中ではまだそう叫び続けている。僕にはそんな表情に見えた。
詩音さんは愛されたかっただけなのに、その気持ちを逆手に取られて、彼女は愛の代償にめくるめくような圧倒的な性的快楽を与えられて、それに溺れた。
彼らが与えてやれなかった愛を、僕は君に捧げたい。そんな僕を彼らは笑うだろう。性欲処理用のおもちゃを愛するなんて!
でもね、彼女は毎日こんなふうに僕に言ってくれるんだ。
「君と出会わなければ私はきっと死ぬまで一人ぼっちだった」
「結婚してもらえた上に、子どもまで産ませてもらえたなんて! この恩は一生忘れないよ」
「お願いだから一日でいいから私より長生きしてね。私は君なしで上手に生きていく自信がないんだ」
こんなうれしいことを言ってくれる素敵な人が、心も体も裸になって僕の目の前にいるんだから、欲情しないわけがない。君たちがいくら彼女の体を汚しても、心までは汚せなかった。つまり僕の勝ちだ!
詩音さんが僕の股間に顔をうずめて、愛おしそうに勃起したペニスを口と手で愛撫している。
「詩音さん」
「はい」
「初めてのときみたいにしてみたいです」
「分かった」
仰向けに横たわる僕にまたがって膝立ちになり、詩音さんは徐々に腰を落としていく。あのときと違って詩音さんはまったくじらさずに僕らは一つになった。繋がった状態で詩音さんが前後左右に小刻みに動く。痺れるような快感が僕を襲う。
「あのとき、詩音さんはどんなことを考えてたんですか」
「秘密」
「教えて下さい」
「きっと怒られるから」
「絶対に怒りません」
「かつて私がそうされたように、今度は私が大智君をセックスの虜にしてやろうって思ってた。ごめんなさい」
流星たちとのセックスの記憶から、セックスとは性的快楽を与える引き換えに一方がもう一方を支配するための道具だと思い込んでいたのだろう。
「だ、大智君はどんなことを考えてたの?」
「これで詩音さんとの結婚が近づいたかなって思いました」
「結婚って……。それは生まれて初めてセックスして気持ちが舞い上がってただけなんじゃないの?」
「それはないですね。詩音さんと交際したいって告白した時点で、詩音さんと結婚できたらいいなあってもう意識してましたから。まあ告白からセックスまで三時間くらいしか時間がかかってないから、その場の勢いがまったくなかったかと言われれば嘘になりますけどね」
「でもうれしいな。最初から私を遊び相手じゃなくて、真剣に交際する相手として見てくれてたんだね」
「詩音さんは違ったんですか?」
「私は誰も本気で好きにならないって決めていた。だってどんなに誰かを好きになったって、私の過去を知ったら離れていくに決まってるんだから。だから君と交際を始めたときも、本気で好きになってあとで傷つくくらいならセフレみたいな関係の方が気楽でいいかなって正直思ってた。それなのに君と二回目のセックスをした直後、捨てないでって君にすがって泣いてしまった。本気で君を好きになってしまったんだなって呆然となったのを覚えてる」
「詩音さん、こんな僕を本気で好きになってくれてありがとうございます」
「大智君、それは私の方のセリフだよ。君がいなければ私は――。ああっ!」
僕が動き始めてまもなく、詩音さんは絶頂に達した。力が抜けたように動かなくなった詩音さんを、さらに下からリズミカルに突き上げる。
「大智君、愛してる! 大智君、愛してるって言って!」
「詩音、愛してる!」
「うれしい! ああっ!」
最初の絶頂から五分も経たないうちに、詩音さんは二回目の絶頂に達した。それからまもなく僕も射精した。膣から溢れた精液が僕の腹に垂れてくる。避妊はしない。詩音さんとはそろそろ二人目を作ろうかと話していたところだ。
「大智君、大好き」
詩音さんがはあはあと肩で息をしながら、体を倒してキスしてきた。性器が繋がったまま舌も絡め合う。
もう愛のないセックスはしたくないと詩音さんは言った。そんなのは僕も同じだ。僕は動画で見たような温かみのないセックスをしたいとはこれっぽっちも思わない。僕は詩音さんと、僕らが望むようなセックスをするだけだ。これまでも、そしてこれからもずっと――
寝る間際、セックスの頻度をどうするかという件を話し合った。結局、毎日はさすがにつらいので、週五回ということで詩音さんには納得してもらった。
そして夏休み――
家族サービスはいらないと言われても、僕自身が詩音さんと広道をどこかに連れていってやりたくて仕方ない。結婚式を挙げなかった僕らは新婚旅行で北海道に行った。詩音さんと旅行したのは本当にその一回だけだ。
どこなら詩音さんが喜んでくれるかなと考えていると、ちょうどSNSのメッセージの着信があり、僕に唯一メッセージを送ってくれる相手である詩音さんなら目の前にいるのに、おかしいなと思ったら、二年前に嵐のように現れて僕らの前からいなくなった彼女からだった。
過去数年間に渡り小山田圭吾に奴隷にされていたと週刊誌のサイトで告発した人物は彼女だろう。今さら僕に言い寄ってきたり、詩音さんに突っかかってきたりする心配はあるまいと思って、メッセージを読んでみた。
大智君、お久しぶりです。
詩音さんとのご結婚、また広道ちゃんのご誕生おめでとうございます。
ご結婚は二年前、ご誕生は去年のことで、本来ならその時点で大智君のお宅を訪問して、挨拶しなければいけなかったのですが、そのときはまだお二人に会う勇気が私の方にありませんでした。
小山田の言いなりになって私がお二人にしてしまった狼藉の数々を思い出すと、今でもこの世から消えてしまいたいという気持ちになります。
そんな私も昨年四月に子の親となり、また新潟市の教採に合格し今年の四月から小学校の正規の教員として勤務しています。さらに、私には小山田圭吾という男の奴隷にされていた過去があり、彼との子を産んで育てているということを理解した上で、私に交際を申し込んでくれた人がいて、私は彼と秋に結婚することになりました。
私がお二人にした数々の過ちについて彼に話すと、いつまで謝罪せず逃げ回るつもりなんだ? と叱責されました。勝手なのは重々承知していますが、私が謝罪する機会を与えてはもらえないでしょうか。その日時に合わせて、大智君の自宅を訪問したいと思います。
もし訪問を許されるなら、娘の智音と婚約者の小野蓮さんも同行したいのですが。小野さんも新潟市内の小学校の教員です。彼は大学を退学する前の詩音さんと関係があったそうなので、それを詩音さんが気にされるなら私と娘だけで訪問したいと思います。
長文、失礼しました。お返事お待ちしています。
正直、ずれてるな。というのが読み終わっての最初の感想。勝呂さんが僕らにした過ちとは、きっと小山田との子どもを僕に育てさせようとしたことだろうけど、詩音さんという婚約者のいた僕がその話に乗る可能性はもともと0だった。だからわざわざ遠くから謝りに来なくていいというのが僕の本音だ。(彼女の実家がうちの近くだから、僕の家に謝りに来るのはそのついでだろうけど)
僕にキスしたり、詩音さんの過去の淫行を僕にバラしたり、婚約者の詩音さんから僕を略奪するために必死にいろいろやってたけど、彼女が必死になるほど冷めていく僕がいた。頭のおかしい人にからまれて、いちいち謝罪を求める者はいない。当時の僕はそんな目で彼女を見ていた。
彼女が謝罪するならそのことじゃないはずだ。中学のとき、小山田の奴隷にされている身で、小山田にひどいいじめを受けている僕を助けようとしたことこそ、彼女が真っ先に謝罪すべきことだ。
彼女に淡い恋心さえ抱いていた僕は、彼女の方から小山田にセックスをせがみ、小山田の性欲のままに彼女の性器が蹂躙されている場面を、小山田に見せられて絶望して自殺を図った。謝るならそっちだろう。まあ、彼女と小山田の性行為を小山田が僕に見せつけたことを、どうやら彼女は知らなかったみたいだけどね……
いじめられてる僕もかわいそうだったけど、小山田に奴隷にされて好きなようにセックスさせている彼女はもっとかわいそうだった。かわいそうな人を救いたいという気持ちで、彼女が小山田の呪縛から解放されるように、彼女が小山田との子を身ごもっていることを彼女の親の前で暴露させた。彼女の親に責任を取るように求められた小山田の怒りが僕の方に向かってくることを期待して。
小山田は僕の期待どおりの反応を示し、最後に僕は小山田を完膚なきままにたたきつぶし、さらに彼女の子どもを父親として認知させる、という彼がもっとも嫌がる方法で七年前のいじめの復讐を果たした。
十二人もの高校生と淫行していたという詩音さんの秘密を僕に暴露したときの勝ち誇ったような笑顔も、不意打ちで僕にキスしてホテルに行こうと誘ったときの気が触れたようないやらしい顔もまだよく覚えている。
頭に来たというより頭がおかしいと思った。ほんの二年前、あんなに頭がおかしかった彼女が、今は小学校の正規の教員? そっちの方が驚きだ。絶対に詩音さんに会わせない方がいいなとそのとき思った。
だって、詩音さんは淫行うんぬん関係なく、大学中退で教員免許がないから、どうしても教職につけない。今は専業主婦で満足してくれているけど、教員になるという夢を絶たれたことを激しく悔やむ日がきっといつか来るだろう。
勝呂唯が二年間でどれくらいまともな人間に生まれ変わったか知らないけど、免許さえあれば詩音さんだって小学生たちに信頼されるいい先生になれたはずだ。
ということで決定! 生き生きと教師生活を送る勝呂唯の姿を詩音さんに見せたくないから、別に怒ってなんていないから今さら謝りにこなくていいよと返事することにしよう。
もちろんそれとは別に、勝呂唯が詩音さんと会うべきではないもっと根本的な理由もあるわけだけどね……
「詩音さん、ちょうど今、勝呂唯さんからメッセージが届いたんですけど、要件はだいたい分かりますよね?」
「二年前のことを謝りたいってこと?」
「そう。そんなに会いたい相手でもないし、別に今さら謝ってくれなくていいよって返事するつもりです。黙って返事するのもなんだから、一応詩音さんにも断っておこうと思って」
「分かった。大智君の好きにすればいいよ。唯さん、新潟に住んでるって美琴さんから聞いたけど」
「うん。向こうで結婚相手も見つけたって。詩音さんの学生の頃の知り合いらしいよ。小野蓮さんっていう人」
「小野先輩!」
急に大声を出したから、詩音さんが座る上にちょこんと座っていた広道までびっくりして泣き出した。その反応、ただの先輩ではないとバラしてるのと同じなんですけど……
小野? そういえばどこかで聞いたことがあるような……。もしかして詩音さんが沙羅さんに語って、近くで僕も聞いていた二十歳の頃の打ち明け話の最後の方に出てきた人? 詩音さんが大学を辞めることを決めて新潟市外の実家に逃げ出す前の晩に詩音さんを抱いた男のことを小野先輩と呼んでいたような……
「もしかして十三人目の彼氏?」
「小野先輩とは一度だけで……」
勝呂唯からのメッセージに、小野蓮が詩音さんと関係があったと書いてあったけど、そういう〈関係〉だったのか? くそっ!
「そういえば言ってたね。流星たち十二人はあなたが小野さんと交際するのは認めながら、セックスすることは認めなかったんでしたっけ?」
詩音さんは申し訳なさそうにうなずいた。広道は詩音さんの胸に抱かれているうちに泣きやんで静かになった。
「最後に一度だけセックスさせてあげたのは、申し訳ないという気持ちからでしたっけ?」
「私は小野先輩の心をひどく傷つけました。もともと私とつきあっていた十二人の中には、私が小野先輩と会うのを快く思わない人もいて、わざわざ小野先輩と会う直前に私とセックスして、私の服に精液をかけて臭いをつけて私を困らせるようなこともされて……。制汗スプレーでごまかしたつもりだったけど、全然ごまかせてなくて、そういう臭いをさせてたってことは、僕と会う直前に男とそういうことをしてたってことなの? ってあとで責められたときは、正直に謝るしかなかったです」
え? 男とセックスした直後にほかの男とデート? しかも精液の臭いをぷんぷんさせながら?
詩音さん、それは人としてやってはいけないことなんじゃないですか? 小野蓮の心も傷ついたかもしれないけど、それを聞いた僕の心もひどく傷ついたんですけど!
そういうことを聞かされると、土下座して謝ってきた流星たち十二人を簡単に許したのも間違いだったのかと思えてくる。ちょうどそのときスタンガンを持ってたんだから、もう少しそれを活躍させてやればよかったか……
「それで詩音さんは元カレの小野さんと会いたいんですか?」
「大智君が会うなというなら会いません」
会いたいと言ってるのと同じなんだけど! 会わせないで恨まれるのも嫌だから会わせることにした。もちろん小野蓮と会わせる直前に僕とセックスさせて彼女の衣服に精液をかけまくる、なんて嫌がらせをしたいわけじゃない。
僕が詩音さんにとってただの十四人目の男ではないことを、小野蓮にも、そして僕の妻である詩音さん本人にも改めて思い知らせてやらなければならないと思ったからだ。
勝呂唯からのメッセージに次のように返信した。あなたの謝罪は不要、ただ詩音さんがあなたの婚約者の小野蓮さんと話したがっているので、小野さんとだけなら会う用意があります。
八月某日、小野蓮はこちらの指定した通りの時間に訪ねてきた。詩音さんが出迎えて客間に連れてきた。広道は母に見てもらっている。
背の高い真面目そうな男だった。服装も開襟シャツにスラックスという勤務時のような出で立ち。小学生とわいわいやるより白衣を着て高校で理科の実験でもしてる方が向いてるように見えた。
「はじめまして、小野蓮と申します。ご主人の中学の同級生の勝呂唯の婚約者です。これはつまらないものですが、みなさんで……」
手提げ袋を渡された。中身は日本酒と和菓子のようだ。
というか、小野蓮の関心があからさまに僕にはない。ちゃぶ台を挟んで僕ら夫婦の前に座るなり、詩音さんの方ばかりじっと見ている。詩音さんも同じ。八年ぶりの再会か。僕がいなければ、さぞや会話が弾んだことだろう。
思い出したように、小野蓮が手紙を差し出してきた。
「勝呂唯から預かってきました。時間があるときに読んでもらいたいと」
「内容は?」
「僕は見てませんがお詫びだと思います」
「仲直りしたいと?」
「そうだと思います」
僕は手紙の封も切らず、びりびりに引き裂いてそのまま足元のゴミ箱に捨てた。
「何をしてるんですか?」
小野蓮の肩が震えている。婚約者の勝呂唯を侮辱されたとでも思ってるのだろう。詩音さんも目を丸くしている。
「詩音さんのご主人がこんな横暴な男だとは思わなかったです」
「僕が横暴な男だったらどうだっていうんですか? 妻を奪っていきますか?」
「それは……」
小野蓮が詩音さんの顔を見た。詩音さんが連れて行ってと叫んだら、連れて出ていくと決意したような表情をしている。僕はやれやれと出来の悪い生徒が質問してきたときのようにゆっくり丁寧に分かりやすく説明してやった。
「あなたの婚約者を悪く言いたくはないんですが、勝呂唯さんは二年前、僕と妻が婚約中のとき、妻から僕を略奪して、僕を自分と結婚させ、僕を彼女のお腹の中にいた子どもの父親にさせようと、無理やり僕にキスしたり、妻が二十歳の頃に十二人の高校生と毎日取っ替え引っ替えでセックスしていたと僕に暴露したりした。詩音さん、正直に言ってみて下さい。僕に勝呂さんと仲良くしてほしいですか?」
「できればあんまり……」
「最後まで言って下さい」
「仲良くしてほしくないです」
「だから手紙を破ったんです。僕自身は勝呂さんの謝罪を受け入れてもいいと思っていますが、僕は夫として妻の嫌がる女性と仲良くするわけにはいかないんです」
小野蓮は僕から目をそらすように俯いた。
「さきほどは〈横暴な男〉などと言ってしまい申し訳ありませんでした」
「そこじゃないでしょう?」
「えっ」
「あなたが謝るべきなのはそこじゃないでしょうと言ってるんです」
「すいません。ご主人のおっしゃる意味が……」
「分かりませんか? 詩音さんが勝呂さんと会いたくないのと同じように、僕だってあなたと会いたくないわけですよ。さっきあなたは僕の中学の同級生の勝呂唯さんの婚約者だと自己紹介しましたけど、違うでしょう? あなたはここに詩音さんの元カレとして、あなたの思い出の人である詩音さんと会うために来たんですよね?」
「ご、ごめんなさい! 私、大智君の気持ちを全然……」
そう頭を下げたのは詩音さんだった。
「小野先輩と会いたいかと大智君に聞かれたとき、会いたくないと答えるべきでした」
「僕はあなたたち二人に肉体関係があったことを知ってます。一回だけだそうですが、回数の問題ではないです。たった一回でも自分の妻とそういうことをした人物が僕の家の中まで来て僕と妻の目の前にいるということ自体が不愉快でたまらないんですが、これは僕の心が狭いからなんでしょうかね?」
「申し訳ありません!」
小野蓮がようやく自分の非を認め、その場で土下座した。これでかつて詩音さんとセックスした男は全員僕の前で土下座したことになるな。全然うれしくはないが。
「あなたも教師なんだから、子どもには相手の身になって考えようって指導してますよね。あなたは婚約者の勝呂さんも裏切ってるんですよ。だって勝呂さんが元カレに会いに行きたいと言ったら、あなたは絶対に許可しませんよね。それなのに、自分が元カノに会いに行くのはいいんですか? 勝手ですね。それで本題ですけど、勝呂さんの元カレが勝呂さんに会いたいと言ってきたら、あなたは会わせますか? ちょっと考えたら分かりそうなものですけどね」
詩音さんまで土下座を始めようとしたのを慌てて止めた。
「あなたは土下座なんかしなくていいです」
「でも……」
「あなたにはあなたにしかできない謝り方がありますから。今夜は朝まで寝かさないので覚悟しておいて下さい」
「はい!」
詩音さんはお仕置きを受ける立場とは思えない明るい返事を、満面の笑顔で返してみせた。