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それは、合唱コンクールの課題曲であるBELIEVEの練習をしていたときだった。
久次の提案で左右に揺れながら、流れるような旋律と、ハーモニーを身体に染みつかせようとしていた。
音楽室のドアは防音で、柔らかいパッキンに覆われているため、開く音はしない。
しかし自分たちが何百回と繰り返している歌の最中ならそれがわかる。
扉が開くことによって、音の響き方、反響の仕方が変わる。
皆は誰からともなく出入口を振り返った。
「…………」
漣は目を見開いた。
それは恰幅の良い男性で、真夏なのに高そうなスーツをきちんと上着まで着こなしていた。
一瞬、一度しか会ったことのない客、若林かと思った。
たった一度、自分に名刺を渡して、家族のことを軽く聞くだけで帰っていった男。
しかし、彼は微笑み、漣ではなく久次に手を上げた。
「沖藤(おきとう)先生……!」
久次が指揮棒を下ろし、その男に駆け寄った。
「いつこちらに来られたんですか?」
「はは。ついさっきだよ」
男は笑いながら久次を抱き寄せるとその肩をポンポンと叩いた。
「…………」
すっぽりと包まれてしまった久次の身体が、ひどく小さく見える。
漣は口を開け茫然としながら、ハグされる久次を見つめていた。
「……あれ、誰?」
杉本がアルトのパートリーダーに話しかけている。
「さあ?」
久次が抱きしめられたまま慌てて、生徒たちを振り返った。
「ごめん!ちょっと練習を続けてくれ。杉本!指揮を頼む!」
杉本が答える前に、久次とその男は扉から出て行った。
締まる直前、廊下からは、再会を喜ぶ二人の高い笑い声が響いた。
◇◇◇◇◇
「というわけで、俺の幼少時代からの声楽の講師、沖藤先生だ」
久次の紹介に沖藤は皆を見回してにっこりと微笑んだ。
「今は福島で複数の合唱団の講師として活躍なさっている。数々の団体をNコンの社会人の部で優勝に導いた敏腕講師でもいらっしゃる。……こんなところでいいですか?華々しいご経歴の紹介は」
久次が笑いながら彼を覗き込むと、
「そう言う生意気なところは全く変わらなんな、お前は」
沖藤は目を細めて久次を睨んだ。
生徒たちも、いつもは見せない久次の子供っぽい表情に、顔を綻ばせる。
「…………」
漣は改めて沖藤を見つめた。
よく見れば、若林よりも相当年配だ。60代か、もしかしたら70代かもしれない。
真っ白に染まった髪を七三に分けて額の汗をハンカチで拭っている。
「実は3日後、県民体育館で、Nコンに向けた合同練習があり、臨時講師として招かれているそうだ。
実は今年は、赤坂芸術大学の美展の日と被っていて、俺がそちらの手伝いに駆り出されているため断る予定でいたんだが、沖藤先生が講師を務めるというなら話は別だ。
俺は参加できないが、自分たちで集合して、他の学校のみんなとBELIEVEを大合唱してみるって言うのはどうだろう。
20人で歌うのと、200人で歌うのは、迫力が全然違うぞ」
「ええ……!やってみたい……!」
部員から拍手が上がる。
「3日後だから。8月20日だな」
久次がカレンダーをチェックし、油性ペンで丸を付ける。
「まずは譜面を読み解くところから始めるから、皆さん、必ず楽譜とペンを持ってきてくださいね」
沖藤は、太い人差し指を立てながら言った。
「あとは水分。水筒に水を入れてきてください。お茶でもいいですが、糖分が含まれているのは避けて」
……8月20日か。
漣はカレンダーを見つめた。
……参加してみたかったな……。
書き込み終わった久次の、長い指が止まった。
「…………?」
久次はゆっくりと振り返った。
「…………」
その目は真っ直ぐに漣を見ている。
(……何?)
漣は瞬きを繰り返しながら彼を見つめた。
(もしかして。なんか知ってんの……?)
◆◆◆◆◆
練習が終わると、沖藤の周りには自然と生徒たちが集まった。
「先生はテノールですか?バリトンですか?」
杉本が聞いている。
「僕はどちらもできます」
言い切った彼に、謎の歓声が上がる。
「でも最近はテノールの上の音と、バリトンの下の音が出なくなりました。年ですね」
デカい腹を震わせて笑う沖藤に、さっそく好感を持った生徒たちが続けざまに質問をする
「久次先生はどんな生徒でしたかー?」
「可愛かった?」
「練習は真面目にしてましたかー?」
矢継ぎ早に飛び交う質問に沖藤が苦笑しながら、それでも一生懸命に答えている。
「ああ、生意気だったよー。“先生!それは違うと思いまーす!”小学3年生のくせに口答えしてねー」
「ええ、意外―!」
生徒たちが笑っている。
その喧騒の中、一人バックを抱え帰ろうとした漣は、久次に腕を掴まれた。
「瑞野」
「何?クジ先生?」
どこか切羽詰まった顔をした久次を見上げる。
「あ、いや……」
久次は沖藤を眺めた後、こちらを見下ろした。
「……お前も、沖藤先生の合同練習参加するか?」
彼はどこか探るような目でこちらを覗き込んでくる。
「あ、えっと……」
漣はまずいと思いつつどもった。
「実はちょっとその日は予定があっ……」
「まさかデッサンモデルじゃないよな」
久次はこちらが言い終わる前に口を開いた。
息が詰まる。
(やっぱり、知ってたんだ……)
絵画教室にもデッサン会のパンフレットは貼ってあった。
それを見て、ピンと来たのだろうか。
「お前、前に言ったよな」
声を潜めて久次が顔を寄せる。
「デッサンモデルをしてたら変な奴らから誘われたって」
「…………」
漣は久次を見つめた。
「するなよ。二度と」
「……しないって」
漣はふっと笑った。
「俺があまりに動くからさ、モデルはクビになったのー。結構金が良かったから、続けたかったんだけどなー。やっぱりプロに頼むってさ」
詰まった息が出た途端に、堰を切ったようにいくらでも繕いの言葉が出てきた。
「デッサン、先生も行くの?って無理か。美展の手伝いだってさっき言ってたもんね」
「……ああ」
そこでやっと久次は納得したのか目を逸らした。
「それに俺は、もう絵画教室を卒業したんだ」
「え、それは初耳」
漣は笑った。
そうか。もともと夏休みだけという約束だった。
夏休みももうじき終わり、来週から新学期が始まる。
(もうクジ先生と学校以外の場所で会うことはないのか……)
それなら……
もっと話せばよかった。
教室が終わるたびに久次を捕まえて、
もっともっといろんなことを。
切なさがこみ上げてきて、俯く漣をよそに、久次は傍らにあった鞄をガサゴソと漁りだした。
「これ、やるよ」
「え?」
紙袋を渡される。
やけに重い箱が入っている。
「……なに?これ」
「家に帰ってから開けろ」
「え……」
「久次!」
生徒たちの質問にいよいよ押しつぶされそうになっている沖藤が、久次にヘルプを求めた。
久次はもう一度漣を見て微笑むと、その輪の中に加わった。
はやる心を抑えつつ、漣は紙袋を抱きしめながら電車に乗った。
一つ一つの駅の間がやけに長く感じた。
揺れがやけに激しく感じた。
電車から降り、小走りで家路についた。
いつもはうんざりしながら抜ける森も、全く苦にならなかった。
ただ、急ぐ足が心よりも少しだけ遅くて、酷くもどかしかった。
自宅に入り、リビングにも冷蔵庫にも寄らずに、真っ直ぐに2階の自室に上がった。
ベッドの上に紙袋を置き、自分も飛び乗った。
夢中で包装紙を解く。
「―――やっぱり……」
そこには、数日前、久次から見せてもらった絵が入っていた。
ワインボトルの水彩画。
黄色く書いたはずの陰は、エメラルドグリーンのボトルの色でよく見えなかった。
しかしそこには……。
抜けるような青空が映っていた。
「…………」
ボトルに文字が書いてある。
数日前はなかったはずだ。
【Ren. Believe in Future.】
未来を、信じろ。
「…………っ」
額に入った水彩画が歪んでいく。
未来。
そんなの俺にあるのか、クジ先生。
抜けるような青空が、涙で滲んでいく。
「……!………ッ!!」
漣は拳でマットレスを殴り、布団に顔を擦りつけた。
たとえば君が 傷ついて
くじけそうに なった時は
かならず僕が そばにいて
ささえてあげるよ その肩を
世界中の 希望のせて
この地球は まわってる
いま未来の 扉を開けるとき
悲しみや 苦しみが
いつの日か 喜びに変わるだろう
I believe in future 信じてる
もしも誰かが 君のそばで
泣きだしそうに なった時は
だまって腕を とりながら
いっしょに歩いて くれるよね
世界中の やさしさで
この地球をつつみたい
いま素直な 気持ちになれるなら
憧れや 愛しさが
大空に 弾けてひかるだろう
I believe in future 信じてる
いま未来の扉を開けるとき
I believe in future 信じてる
BELIEVE 作詞・作曲:杉本竜一