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すぐに冷やしたのが功を奏したのか、火傷は水泡と化したあと、少しずつへこんでほとんど見えなくなった。
由樹は、一応巻いていた簡易的な包帯を取ると、天賀谷展示場を見上げた。
朝陽を浴びて、太陽光パネルが一面に載った屋根が光っている。
グレーの外壁タイルは、光触媒で、雨で自動的に綺麗になるという、セゾンのオリジナル商品だ。
樹脂サッシに包まれた三重ガラスが、青空を映して光っている。
由樹は夏休みの朝、ラジオ体操をしたときの、湿っぽくて気持ちいい空気を思いだしながら、深呼吸をした。
天賀谷展示場と、時庭展示場は、違う。
篠崎マネージャーと、紫雨リーダーも、違う。
それでも、来場するお客様は、お客様だ。
応対する自分もまた、自分だ。
そこに違いなんてない。
「……よしっ」
気合を入れて一歩を踏み出す。
(今日は人の数に圧倒されるんじゃなくて、ちゃんと出会えたお客様と向かい合おう)
一歩、また一歩と展示場に近づくたびに、やる気と自信がみなぎってきた。
(お客様の家作りへの夢を聞いて、一緒に幸せを作るんだ!)
由樹は一段飛ばしで外階段を駆けあがると、
「おはようございます!」
事務所のドアを開け放った。
◇◇◇◇◇◇
「……俺に何か報告は?新谷君」
夕日の差し込む事務所で、薄いグレーのスーツを着こなした紫雨が林の席に座って、頬杖をつきながらこちらを覗き込んでくる。
(この人も無駄に距離が近いな。さすがにドキドキはしないけど)
「明日、また頑張ります」
由樹のデスクに置かれた3枚のアンケート用紙を見て、紫雨は目を細めた。
「まあ、アンケートをもらえたのと、3組全部、着座できたのは評価してあげてもいいけど」
言いながらその中の1枚を手に取って目の前に吊り下げてみる。
「番地、書いてないけどー?」
「えっ!?」
慌ててその紙を受け取ってみる。本当だ。町名までしか書かれていない。
「これでどうやって追客すんのー?どこにイベント案内のDM送るのー?」
紫雨は呆れながら由樹を睨んだ。
「新谷君さあ、アンケート書いてもらって、その場でそれ確認しないの?」
「あ、えっと。はい。お礼を言って、それで……」
「終わり?」
「……はい」
紫雨は盛大にため息をついた。
向かい側の席では秋山がこちらには興味がなさそうにパソコンに何かを打ち込んでいる。
「いーや。客役ね、君」
「え?」
「よーい、スタート」
紫雨がパチンと手を叩くと、営業たちが顔を上げて彼の顔を見た。
「アンケート書いていただきまして、ありがとうございます!」
紫雨が急に由樹に向けたことのないような爽やかな笑顔になる。
「……あ。時庭ってあそこですか?南立中学校があるところですよね?」
確かに時庭展示場の裏には、中学校がある。
「あ、はい…」
思わず相槌を打つと、紫雨は由樹を覗き込んできた。
「あの校庭の裏に、小さなお好み焼き屋、ありますよね?」
そう言えば渡辺がそこでお土産に買ってきてくれたことがあった。
「いやー、私、小さい頃、父親と一緒によく行きましたよ。素朴な味がいいんですよね!」
紫雨が微笑む。
(へえ。この人にもそんな可愛い時代があったんだな)
「今でもたまに、父親にお土産に買っていきますよ。今度は私がね」
(しかも家族と仲いいんだ。意外……)
由樹の顔が自然と綻んだところで、紫雨はまた手をパンと叩いた。
「はい、どうだった?」
「……え?」
夢から覚めたように目をぱちくりと瞬きを繰り返す由樹を、紫雨はさっきの顔に戻って睨んだ。
「会話、広がるでしょ?地元ネタは!」
「えっと……はい」
「地元を褒められて、嫌な人なんていないんだから」
言いながら首をコキコキと回している。
「……もしかして、さっきの話、作り話ですか?」
「いや?」
紫雨は口の端を上げて笑った。
「一応食べたことあるよ。話題作りのためにね。クソマズかったけど」
「…………」
『ここのお好み焼き、旨いよねー』
渡辺の笑顔が頭を掠める。
「営業は、客の懐にもぐりこんだもの勝ちなんだから、家以外の話題こそ本気出さないと」
紫雨は由樹を覗き込んだ。
「俺たちが売るのは家だけじゃない。自分も売らなきゃいけないんだよ。新谷君?」
紫雨は人差し指を立てた。
「中年に受けるのは両親ネタ。若者に受けるのは出身学校ネタ。万人に受けるのは地元ネタ。これ、常識ね。野球と相撲と政治はダメ。地雷が転がってるから」
言いながら立ち上がると、紫雨は傍らで座れなくて困っていた林に席を譲った。
「まあ、約束は約束だから。明日は頑張ってね?」
紫雨は意味深に笑うと、自分の席に戻っていった。
「約束って」
秋山がディスプレイから目を離さないまま囁いた。
「何?新谷君」
「…………」
由樹は迷った。
ここで「罰ゲーム」のことまで言ってしまっては「チクられた」と紫雨の機嫌を損ねるのは火を見るよりも明らかだ。
秋山に対するアピールかもしれないが、一応、時間を割いて「自分の売り方」を伝授してくれた紫雨の面目を潰すのも気が引けた。
「明日、絶対アポを取るって、リーダーと約束したんです」
言うと、秋山はちらりと視線をこちらに向けた後、「そう」と短く呟いてまたキーボードを打ち込み始めた。
(……そうだ。アポさえとればいいんだ、アポさえ!)
由樹は、先週は1枚もゲットできなかったアンケート用紙を見つめた。
(明日は行ける。お客様の家作り……いや、幸せ作りの第一歩を踏み出すんだ!)
由樹は唇を噛みしめると小さく頷き、両手を握った。