「待って。……あのさ」
仰向けになろうとした私の腕を、保科くんが掴む。
「ん?」
「……」
「保科くん……?」
しばらく枕を見つめていた保科くんが、意を決したように呟いた。
「矢野さんのこと……これから2人のときは名前で呼んでいいか?」
(名前……)
「ずっと……そうしたくて。それから、俺のことも名前で」
――「呼んでほしい」と小さく聞こえた。
(保科くん……)
急なお願いに、ドキドキと恥ずかしさが蘇る。
だけど真剣な彼の目を見たら無理とは言えず、頷いていた。
「うん……わかった」
嬉しさと緊張の混ざった微笑を浮かべた保科くんが、唇を動かす。
「じゃあ……か――奏衣(かなえ)」
「……裕人(ひろと)くん」
「っ!」
(~~! は、恥ずかしい……!)
相手の名前をただ口にしただけなのに、それはとても特別な響きを帯びていた。
「……」
「……」
お互い顔をゆでだこみたいにして見つめ合うこと、数秒。
恥ずかしさに耐えきれなくなって、
「も、もう寝よっか」
と、私はぐるんと裕人くんに背を向けた。
(ああ、顔が熱い……!)
1人で頬をペチペチ叩いていると、背後で裕人くんが身じろぎする気配がする。
「……そっち向いたままで?」
つまらなそうな声と一緒に、後ろから長い腕が伸びてきて私の体を優しく包んだ。
「できれば、眠るならこっち向いてほしいんだけど……」
やんわり抱き寄せられると、少しだけ体が緊張する。
だけど私は逃げたりせず、その腕の中に収まって、自分の顔にまた熱が集まるのを感じていた。
「わ……私、今絶対変な顔してるから見せられないよ」
「くっ……奏衣はどんな顔してても可愛いと思う。こっち向いてよ」
(う……。さっきから、そのお願いする声ズルい)
甘えを含む声に、私はどうしても抗えない。
(さっきまで一緒に恥ずかしがってたのに……)
「裕人くん、キャラ変わってない……?」
「そうか?……まあ確かに、名前呼べたからちょっと吹っ切れたかも」
くすりと柔らかい微笑が届く。
途端に男性っぽさがにじみ出る裕人くんにドキドキが一層増していきながら、私は体の向きをもとに戻した。
どこを見ていいかわからなくて彼の胸の辺りで視線をさまよわせていると、不意に顎の下に指が添えられ、顔の角度を変えられる。
裕人くんの、とても大切なものを愛おしむような目が私を見下ろしていた。
その熱と甘さに、体温が自然と上昇する。
腰に回った手のひらが、2人の距離をゼロにするように体をくっつけた。
(あ……)
徐々に裕人くんの顔が下りてきて、私は静かに目を閉じた。
「ん……」
弾力のある唇が私のそれを優しく押して、離れていく。
そして私の耳のそばに移動すると、軽くキスを落とした。
「……っ」
驚いた私がかすかに喉を鳴らしてしまうと、その場で裕人くんは微笑し、艶っぽい吐息混じりに囁いた。
とろけるような声で。
「……おやすみ、奏衣」
「お、おやすみなさい……裕人くん」
返事をして、瞼を下ろす。
初めはドキドキしていた裕人くんの腕の中は、だんだん居心地がよくなってきて……。
私も彼の体に手を回して、お互いを離さないように眠りについた。
翌朝。
頭の上を何かが動いているような、撫でられているような感覚がして目を覚ました。
「んー……」
「あ、起きた?」
優しい陽の光を目に取り入れながら、聞こえてきた声を誰だろうと考える。
えっと、確か……。
(あ! そうだ。私、昨日保科く――裕人くんと一緒に……)
一気に思考が覚醒する。
腕が裕人くんの体に巻き付いたままなことに気がついて、慌てて外して自分の胸に引き寄せた。
「お、おはよう。……ごめん、私のせいで動けなかったよね?」
「おはよう。気にしなくていいよ。俺は、朝から俺にしがみついて寝てる奏衣が見られてラッキーだったから」
(な……!)
起きて早々、顔が爆発しそうになる。
(朝から、さりげなく照れること言わないで……!)
動揺している私を見て、裕人くんはふっと顔を綻ばせた。
至近距離で見せられるその微笑に、
“好き”と囁かれているような気がして、朝から忙しなく動く心臓が、よけいにドキドキしてしまう。
きっと私の顔は赤いはず。
でも裕人くんから目が逸らせなくて見つめていると、彼が左手で私の前髪を避けた。
そしてあたたかい眼差しのまま、私の露わになった額に口付ける。
(わ……!)
ちゅ、と音を立てて離れていく唇。
はっきりとキスの感触が残る額を、私はびっくりして手で押さえた。
「ひ、裕人くん……!?」
「くくっ……。じゃあ俺はそろそろ支度するけど……まだ早いし、ゆっくり寝てていいよ」
余裕そうに目を細めて一度だけ私の頭をポンとすると、裕人くんは颯爽とベッドを降りて身支度を始めた。
(なんだか、昨日から裕人くんにドキドキさせられてばっかりだな……)
だけど、嫌じゃない。
驚きもするし恥ずかしいけど、くすぐったくてふわふわするこの気持ちは、嬉しさだ。
新しいシャツを着るたくましい背中に視線を送りながら、こっそり「好き」と思った。
「待って、私も起きるよ。支度、手伝わせて」
「いいのか? ありがとう」
ベッドから抜け出して、私も裕人くんがユージーン王として一日を始める準備を手伝うことにする。
彼の用意が整うころには、お互いもうユージーン王とリタに気持ちが切り替わっていた。
支度が終わると、ユージーン王の部屋を一緒に出て、私の部屋の前まで彼をお見送りすることに。
「では、今日も一日ご無理なさらず公務を頑張ってくださいね」
「ああ。あなたもな。昼食はともに取ろう」
(このやりとりも、夫婦っぽく感じるなぁ。前と変わらないはずなのに)
不思議だな、と思いながら、私の部屋の前でユージーン王と別れようとしたとき、
同じ階の反対側の奥にある、王妃付侍女用の部屋からティルダが出てくるのが見えた。
いつもと同じ生真面目な表情で私たちのもとへやってくると、ティルダはお辞儀をする。
「おはようございます。ユージーン王、リタ王妃」
「ああ」
「おはよう、ティルダ」
ティルダも来たし、そろそろユージーン王も行かないといけない。
今度こそユージーン王を見送ろうとしたら……。
バタンと、またティルダの部屋の扉が閉まる音がして、誰かが出てきた。
ん? と目を凝らすと、悠々と歩いてくるのはイルバートさんだった。
(えっ? イルバートさんが、どうしてティルダの部屋から……?)
ユージーン王も怪訝そうに、廊下の向こうからこっちに向かってくる人物を見つめている。
「……」
振り向いたティルダは、一瞬で顔を青くした。
「やあ。おはようございます。ユージーン王、リタちゃん。いい朝だね」
当のイルバートさんは、妙に機嫌がよさそうに手を振りながら近づいてきた。
「イルバートさん……お、おはようございます。えっと……こんな朝早くからどうかされたんですか?その、ティルダの部屋から出てきたように見えたのですが……」
「ああ……。実はね、昨夜、ティルダと2人きりで燃えるような親密な夜を過ごしたんだけれどね。朝起きて、2人の今後について大事な話をしようとしたら、置いて行かれてしまってさ~。急いで追いかけてきたところなんだ」
にっこりと微笑みながら、親しげにティルダの肩に腕をかけた。
「ねえ、ティルダ?」
(ええ!?ティルダの部屋で過ごした……!?しかも燃えるようなって……)
2人って、そういう関係だったの!?
だけどティルダはイルバートさんの腕を払って、きっぱりと否定する。
「リタ王妃。誤解しないでくださいますか?イルバート様がおっしゃったようなことは、何もございません。イルバート様も、朝から変な妄想はおやめください」
「ふふ、ティルダ。そんなに照れなくても」
「照れておりません!」
小さく怒るティルダの頬はほんのりピンク色で……100パーセント何もなかったわけではなさそうに見える。
「……イルバート。ティルダを困らせるようなことはするな」
「困らせてなんていませんよ。それにこれは僕のプライベートの話ですから。それより、ユージーン王こそ昨晩はどうだったんですか?聞かせてほしいなぁ~。だってリタちゃんと……」
(ちょ……!)
こっちに矛先を向けられた……!
「イルバート……!」
イルバートさんをたしなめようとしたユージーン王が、逆にからかわれ始めてしまう。
「リタ王妃。聞いていただけますか?本当に誤解なのです。その、これには深い事情がありまして」
ティルダもティルダで必死に私に弁明を続けている。
「ぷ……ふふっ」
この賑やかさがなんだかおかしくて、楽しくて、胸があたたかくなって、私は気づけば笑っていた。
「どうした、リタ嬢」
「何かおかしいことでもあった?」
「リタ王妃?」
突然笑い出した私を心配して、3人が一斉に顔を向けてくれることに嬉しくなりながら、笑顔で答える。
「ふふ……いえ、なんでもありません」
朝の日差しが全員に降り注ぐ、この光景をとても愛おしく思った。
(ああ……これが私の新しい日常になっていくんだな)
裕人くんとこれから過ごしていく――この異世界の。
――END――