孫堅が手にするのは二本の鉄鞭である。鞭と言ってもしなることはない鋼鉄製の棒で一定の間隔で竹の節のような突起物が付けられている。これによって打撃力が高まるのである。
剣や槍の様に折れることはなく、鎧の上からでも十分に致命的一撃を与えることが出来る。
まさに乱戦向きの武器であろう。
孫堅はこの武器を両手で二本同時に扱うのである。小柄ながらもずば抜けた膂力と器用さを兼ね備える孫堅ならではの武芸であった。
「こいつで二人同時に頭蓋を叩き割ってやるよ……」
余裕の笑みを浮かべながら両足のみで悍馬を巧みに操って二人の猛将の下に殺到しようとした孫堅の動きが止まった。
「おいおい……」
孫堅の顔が蒼白となり、唇が振るえる。かつて感じたことのない凄まじい怒りと狂気によって周囲の凍てつく空気がかき消され、暗黒の暴風が吹き荒れたからである。
「孫権、孫権、孫権……!」
「我らが怨敵、孫家の若造……!孫仲謀、そこにいたか!」
つい先ほどまでエインフェリアが操るオーク兵の猛攻に押され、動揺を露わにしていた関羽と張飛の様子が一変していた。
その双眸は憤怒と殺意の漆黒の業火で燃え滾り、明らかに人としての理性を失っているようであった。最早完全に人であることを脱し、さらに亡者であることすらも超え、暗黒の神族として顕現しようとしているのではないかと思われた。
二人の猛将から発散される凄まじい瘴気によってオーク兵は近づくことすら出来ないようである。
「俺は孫権じゃなくて、孫堅だっての。間違うんじゃねえよ、馬鹿野郎どもが……」
孫堅は全身を冷や汗で濡らしながらも必死に唇を動かして言葉を発した。おどけた軽口を叩かねば、心挫けて馬首を返して逃げだそうとする己を抑えることが出来そうになかったからである。
「この関羽を一兵卒同然に扱い、縛ったまま首を刎ねた屈辱忘れはせぬぞ!」
「我が配下であった張達・范彊がこの張飛の寝首を搔いたのは貴様が裏で手を引いていたのであろう。あの時の恨み、今こそ晴らしてくれる!」
関羽と張飛は怒号し、それぞれ得物を振るった。その超人的なまでの威力によって彼らを包囲していたオーク兵は泥で造られた人形のようにあっさりとはじけ飛んだ。
そして二人の狂戦士は猛然と馬を駆って怨敵の元へと向かった。
「!」
夏侯淵は関羽と張飛の動きをわずかでも牽制すべく二本の矢を同時に放つと同時に弓を捨て、剣を抜いて猛然と馬を駆った。
孫堅の武芸は相当な域に達しているのは一目で分かるが、やはり「万人の敵」と称された関羽と張飛に及ばないであろう。
しかもその二人に同時に斬りかかられたら、ひとたまりもあるまい。
夏侯淵の馬術は絶妙であり、まさに放たれた矢に等しい速度で駆け、一瞬にして因縁ある敵手の間合いに達した。
「張飛!」
夏侯淵は虎髭の豪将を鋭く叱咤し、刺突を放った。通常、漢土では両刃の武器を剣と呼んで刺突に用い、湾曲した片刃で斬撃に用いる物を刀と呼んで両者を明確に区別している。
怒りと怨念で完全に我を忘れていた張飛であったが、我が喉元に烈火の勢いで迫る白刃の気配によって戦士としての習性で理性を取り戻して間一髪で蛇矛の柄で防いだ。
「夏侯淵、やはり貴様か……!」
張飛は怒りと喜悦、そして懐かしさが入り混じった複雑な表情を浮かべた。かつて幾度も戦場で見えた好敵手。その首は怨敵に連なる者に劣らない価値があるであろう。
夏侯淵もそれと同種の表情を浮かべながら嵐のような刺突を連続で見舞った。
張飛は蛇矛を巧みに操って悉く防ぎながら、
「やるじゃねえか」
と不敵な笑みを浮かべた。
夏侯淵が後漢末、三国鼎立の大乱世にあって並ぶ者のいない神技の如き弓術の持ち主であることは嫌と言う程思い知らされていたが、剣技においても卓越した技を有していることをここに来て初めて知ったからである。
「孫仲謀……!」
古き敵と遭遇したことで理性を取り戻した義弟の存在のこともまるで眼中に無く、狂気に囚われたままの関羽は遂に己の怨敵と信じる存在の眼前に達した。
「我が刃で砕け散れい!その罪の報いを受けて地獄に落ちよ!」
関羽は断罪と呪詛の言葉を放ちながら赤い帽子へと青龍偃月刀を振り下ろした。
「ちっ……!!」
孫堅は二本の鉄鞭をかざしてこれを防ごうとした。だが関羽の一撃には渾身の怒りと怨念によって人智を遥かに超えた威力が込められていることを孫堅は天性の勘の良さで察知した。
もし関羽の一撃を防ごうとしたら鉄鞭そのものは耐えられるかも知れないが、己の両腕や背骨が持たないかもしれないと素早く計算した孫権は馬上で身を捻って躱した。
全身全霊を込めた一撃を躱されてわずかに体勢を崩した関羽の顔面を砕くべく、孫堅は右手の鉄鞭で横なぎの攻撃を送った。
だが関羽は恐るべき身体能力、神秘的武勇を発揮してあっさりとこれを防いだ。
孫堅は関羽に攻撃に転じさせない為に二本の鉄鞭で疾風のような連撃を繰り出したが、関羽は強剛を極めながらも正確無比な技でことごとく防いだ。
(あーあ、こりゃだめだ。万に一つも勝ち目はねえな……)
なおも連撃を繰り出しながらも孫堅は思い知らされていた。圧倒的な力量の差を。
孫堅も己の武勇には絶対の自信を持っていた。現に今まで一騎打ちで敗れたことは一度もなく、この二本の鉄鞭の変幻自在の技で幾人も名のある武将を討ち取ってきたのである。
だが関羽は明らかにこれまでの敵とはまるで次元が違っていた。関羽に比べれば、これまで孫堅が討ち取った敵など幼児に等しいと言ってよい。
(ありえねえ、本物の化物だ。俺の息子の仲謀が敵の曹操と通じて不意打ちするしかなかったってのもよく分かるぜ……)
この関羽を堂々たる武勇で討ち倒せる者はあの後漢末の時代には存在しまい。いや、数千年の中華の歴史においても存在しないのではあるまいか。
孫堅は己の両腕が痺れて動かすのがつらくなってきた。攻撃に回っているはずの己の腕の方が逆に関羽の防御の技によって骨肉に重い衝撃を受けているのである。
ありうべからざる事態であった。孫堅は攻勢を断念して呼吸を整えると同時に、敗北を覚悟した。
果たして関羽の両目の暗黒の光がさらにその濃度を増した。一刀で怨敵と信じる者を両断出来ると確信したのであろう。
だがそこに数体のオーク兵が槍を連ねて関羽に猛然と襲い掛かった。孫堅のオーク兵ではない。
孫堅は関羽と戦う為に全ての神経、精神力を注ぎ込まねばならなかったので、オーク兵を操作する余裕は無かったのである。
「邪魔をするな!」
激高した関羽の斬撃によって割砕かれたオーク兵の武装は孫堅配下の物ではない。孫子の兵法の奥義、風林火山の旗指物をなびかせたオーク兵は巧みに間合いを取りながら関羽を取り囲み、牽制する。
「典厩信繁だったか。助かったぜ」
孫堅は目前に迫った死からかろうじて逃れ、ほっと一息ついた。そして感嘆の声を上げた。
「それにしても見事にオーク兵を操るもんだぜ。ああも柔軟でいながら執拗に兵を動かされたら、流石の関羽もやりづらいだろうな。あそこまで正確無比にオーク兵を動かせるのは他のエインフェリアにはいないかもな」
孫堅は関羽を包囲するオーク兵の主であるサムライに視線を向けた。
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