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「お前が神技の如き弓術の使い手というだけではなく、剣の腕も相当であることは認めてやるよ。全く大したもんだ」
「……」
夏侯淵の烈火の如き刺突を悉く蛇矛で防ぎながら、張飛はその虎髭に覆われたいかつい顔に不敵な笑みを浮かべた。
「だがやはりそれではこの張飛を倒すことは出来ん。お前は距離を取りながら矢を放つことに専念するべきであったのだ。かつて散々忌々しい思いをさせてくれたあの弓矢の技でな!失敗したな、夏侯淵!」
張飛は得物を仕留める確信を得た猛虎のように吠えると、その強剛極まりない一振りで夏侯淵の剣を弾き返す。
夏侯淵は危うく馬上から吹き飛ばされそうになったが、絶妙な身体操作で何とか体勢を整えた。
だがその隙に張飛は間合いを取った。剣では届かぬ、長柄武器である蛇矛の機能が最大限に発揮される間合いを。
「もう一度死ねい!逆賊曹操の股肱よ!」
怒号と共に蛇矛の名の通り蛇の如き曲がった刃が恐るべき速度で鋼鉄をも貫くであろう威力を秘めて襲い掛かる。
夏侯淵は剣でこれを直接防ぐのではなく、刃を寝かせて巧みに受け流した。真っ向受け止めていたら、刃は容易く砕け散っていたのは確実であった。
だが張飛は渾身の突きが流されても体勢を微塵も崩さない。張飛は単に巨人をも凌駕するやも知れぬ恐るべき剛力の持ち主と言うだけではなく、精妙な体捌きも会得しているようであった。
張飛の矛は蛇と言うよりも天より地に降る竜の如き勢いで立て続けに繰り出されたが、夏侯淵は辛うじて全ての攻撃を受け流した。
「……!!」
普段は鉄仮面のように微動だにしない夏侯淵の顔面の筋肉であるが、この時ばかりは流石にその表情は蒼白となって引きつり、滝のように汗が流れていた。
ここまで極度の精神の集中を要求されたのは、無論これが初めてである。ただ単に防禦の技が必要とされるだけではない。全ての攻撃を巧みに受け流さなければならないのである。ほんの少しでも精神の集中を欠き、矛の一撃を真っ向から受け止めれば、その瞬間剣が破壊されるのである。
(張飛め、これ程とは……!)
かつて後漢末の動乱に置いて幾度も戦場で見え、その一人で一万人の兵に匹敵すると軍師程昱に評された武勇の程はある程度見切ったものと思っていた。
だが己の最大の技である騎射の技で有利に戦えたかつての戦場と違い、こうして直接刃を交えると己の認識は甘かったのだと思い知らされた。
この恐るべき武勇は単純に暗黒の亡者として蘇ったからと考えるべきではない。張飛の暗黒の力は夏侯淵の光の力によって相殺されているからである。
やはりこの張飛の力の淵源は武の究極の領域に達し、剛の武の奥義を極めようとしているからなのだろう。
(殺られる……!)
夏侯淵の緻密で機敏な頭脳はあと十合で張飛の蛇矛で己の急所を貫かれることを正確に察知した。
夏侯淵は剣を張飛の顔面目掛けて投げつける。張飛は予想していなかった攻撃にほんの一瞬硬直したが、すぐに余裕の表情を浮かべながら左手ではねのけた。
すかさず夏侯淵は念をこらしてオーク兵を操作し、一斉に弓矢を放たせる。張飛は蛇矛を風車のように回してことごとく飛来する矢を弾き飛ばした。
その隙に夏侯淵は馬首を回らして、後方へ疾走した。騎射の技が存分に振るえる距離を取る為に。
「させんぞ、夏侯淵!」
そうはさせじと張飛は猛然と馬を駆って夏侯淵を追う。張飛は完全に確信を得たのだろう。刃を直接交えての闘争ならば、確実に因縁の敵の首を獲れると。
だが間合いを取られてその神技と称するしかない騎射の技を向けられると、いずれは己の額を射貫かれることになるであろうと。
張飛の猛き殺意と闘志に応えるように彼が乗る悍馬は疾風のように駆ける。夏侯淵は再びオーク兵を操作して矢を放とうとする。しかしそうするとどうしても集中力がもたず、馬を走らせる速度が落ちる。
その隙に張飛は一気に距離を詰めるであろう。
(どうする……!)
常は果断な夏侯淵であるが、流石にこの時ばかりは判断に迷った。
その時、一斉に放たれた矢が雨の如く張飛に降り注いだ。夏侯淵が操作する魏の武装のオーク兵の物ではない。
(勘助のオーク兵か)
張飛が再び蛇矛を振るって矢を防いでいる間に夏侯淵は一気に馬を走らせて距離を取った。そしてその鷹の眼をこらして張飛を襲う矢を凝視した。
(何と……・あの兵共の矢、わざと鏃を緩く巻いているのか。あれだと敵に矢が命中すれば、矢を抜いても鏃が残ってその後も苦痛が続くことになる。それに鏃そのものに大きな返しがついている。無理に引き抜こうとすればさらに大きな傷を与えることになるだろう)
夏侯淵は戦慄した。
(死者の軍勢相手ではあまり意味がないであろうが、勘助や典厩信繁、それに彼らの主君で今は敵の信玄はかつて地上で生きた兵相手にこのような残虐な手段を用いていたのか)
矢を抜いても鏃が体内に残った場合、その内に肉が腐って苦しみながら死に至ることになるだろう。
このような悪辣と言うしかない手段を用いて戦に臨めば敵のみならずその周囲の国々からも深く怨みを買い、忌み嫌われることになるのは必定である。
(だがそのような恨みや嫌悪をものともせずただ徹底的なまでに合理的に敵を殺傷し、戦に勝つこと方法を追求したという訳か。恐るべき戦への執念……)
そのような軍団を率いた将達が敵であると同時に味方にもいるのだ。
「夏侯淵殿!」
山本勘助道鬼が馬を走らせて近づいてきた。夏侯淵は異形の軍師の独眼に宿る光を見て、かつての魏の国をその智謀で支えた錚々たる軍師たちを思い出していた。
(あの目は荀彧でも程昱でも荀攸でもない。そうだ、若くして死んだ郭嘉に似ている。国も政もまるで眼中に無く、脳漿の一滴までもただ戦、軍略の為に絞り尽くそうという、そういう漢の眼だ)
夏侯淵は畏怖の念で胸中を満たしながら、宿敵の額を射貫くべく再び矢を放った。