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◆◆◆◆
(……揺れてる?)
紫雨は目を開けた。
いつの間にか、寝転がっていたはずのシートは起こされそこに自分はシートベルトを締めて座らされていた。
陽が落ちた街に、ネオンが光っている。
「……え」
「起きましたか?」
運転席から林が振り返らないまま言う。
「……俺、何時間寝てた?」
「6時間くらいです」
「マジ?そんなに?」
「室井さんが、具合悪そうだからって、そのまま寝かせてやれって言っていたので、大丈夫です」
「大丈夫じゃねえだろ。………あー、やっちまったな」
言いながら髪の毛を掻きむしる紫雨を林はバックミラーでちらりと見て、また視線を前に戻した。
「あれ?てかこっち、展示場じゃなくない?」
「バッグは車から持ってきました。車は総合グラウンドに置いてあります。明日の朝、俺が送っていきます」
「明日の朝って。今送ってよ」
紫雨は運転席に向かって言った。
「寝たおかげで、だいぶスッキリしたからさ。運転でき―――」
「ダメです」
「は?」
「今日は、俺の家に泊まってもらいます」
「……何言ってんの?」
車は信号で停まった。
林が逆光の中ゆっくりと振り返る。
「あのマンションでは、誰が待ってるんですか。紫雨さん」
「…………」
「もうあなたをあそこへは帰せません」
「お前、何言って……」
信号が青に変わり、林は無言で視線を前方に戻した。
「…………」
紫雨は思い至って自分の身体を見下ろした。
綺麗に直してあるように見えて、ネクタイの結び目や、ワイシャツの入れ方に違和感がある。
「お前、もしかして。なんか……見た?」
きくと、林はハンドルを正しく両手で握りながらチラリとも振り返らずに答えた。
「見ました。全部」
「全部って……」
「あ、違うな。”後ろ”の方は確認してません」
「…………」
「先ほどは“前”を確認するだけで、キャパオーバーしました。でも家に着いたら後ろも確認させてもらいます」
「…………」
ハンドルを握っている指先が小刻みに震えている。
「林………」
「相手は岩瀬ですか?それともまた別の男ですか?」
「…………」
「誰であろうと、もう紫雨さんに触れさせません」
(手も指もそんなにプルプル震わせて言うセリフじゃねえだろ……!)
紫雨は通り過ぎるビルやマンションを見上げながらため息をついた。
―――もう少し。もう少しなのに。
最近、岩瀬の行為は性的志向から暴力志向に変わってきていた。
前は乱暴でありながらも、セックスに重点が置かれていたような気がするが、最近は紫雨を痛めつけ、時には挿入も射精もないまま終わる日も増えてきた。
サディストの考え方などわからないが、彼の紫雨に対する興味が薄れてきているように思う。
夢中になった玩具にだんだん飽きてつまらなくなり、違う遊びをしてみたくなり、それも飽きたらきっと――――。
自分はあの男から解放される。
「なぁ。何を勘違いしてんだか知らないけど、こういうプレイなんだよ。やりすぎたのは認めるけどさぁ」
できるだけふざけた口調で言うが、林は振り返らない。
「おい林。お前、上司の性癖にまで物申す権限あんのか?完全にプライベートだろうが」
「…………」
「仕事に支障を来したのは悪かったよ。でも大丈夫だから、俺をグラウンドまで送って。じゃなかったら、マンションに直接でもいいから」
「帰らないと怒られますか?その相手に」
林が振り返らずに言う。
「……怒られはしないけど、心配はされるかな」
(あー。言いたくねぇな)
紫雨はうんざりした。
(………嘘でも言いたくねぇ)
「一応、恋人なんでね」
ドン。
林が拳でハンドルを殴った。
「おい……」
「もう。黙っていてください。そして今夜は諦めてください。“恋人”にもそうお伝えください」
紫雨は靴を膝を折って、シートに足を立てた。
(やっかいなことになった。一番誤魔化せない相手に見つかった……)
バックミラーで見る限り、いつもの無表情と大差ない林の顔を見た。
(こいつだけは巻き込みたくないのに……)
家に入ると林は紫雨の手首を掴みながら、浴室に入った。
「おい……」
無言でパネルを操作すると『お湯張りを開始します』と電子音が聞こえ、すぐ横の浴槽がジョボボと低い音を出した。
林はまだ無言で紫雨の手首を引きながらリビングに出ると、二人掛けのソファに紫雨を座らせた。
「……痛」
思わず声が出ると、林はキッチン脇の引き出しを開けながらやっと口を開いた。
「痛かったのは腰ですか?股間ですか?それとも後ろですか?」
薬箱を取り出すと中を漁り出した。
「軟膏、でいいのかな」
「…………」
「脱いでください。紫雨さん」
「……やだよ」
「早く」
紫雨は林の顔を見上げた。
「お前、怖いよ。あいつよりずっと怖い」
「…………」
「何考えてるか、わかんないよ。俺にはお前が」
林は一瞬俯くと、紫雨を見下ろした。
「じゃあすべて、言葉でお伝えしたほうがいいですか?」
言いながら座っている紫雨の真正面に立つ。
「今、物凄く怒っています。そんな理不尽な暴力に一人で耐えているあなたにも、守っているつもりになってさっぱり守れていなかった自分にも、あなたにひどいことをしたその男にも……!」
林の胸が大きく上下した。
「……ムカついてムカついてムカついてムカついて!暴れ出しそうなのを!必死で今、堪えています!!」
真っ赤な顔中に皺が寄った林の顔を、紫雨は呆然と見上げた。
「どうせ岩瀬でしょう!?なんであんな男に好き勝手させているんですか?」
「…………」
「これがあんたの言う、“負けるが勝ち”ですか!!こんなのただの……。ただの負け犬じゃないか…!」
(……顔に神経通ってたんだな、こいつ…)
その顔は、伯母よりも、岩瀬よりも、誰よりも恐ろしかった。
林がこちらに近づく。
「っ」
紫雨は恐怖に目を瞑った。
しかし―――。
「紫雨さん」
林は先ほどの怒りをどう消化したのか、紫雨を優しく抱きしめた。
「世界一あなたのことが好きだと言ったじゃないですか」
「林……」
「俺を、頼ってよ……!」
紫雨はその優しい腕の中で目を瞑った。
(……お前だから巻き込みたくなかったんだよ。俺のことを唯一想ってくれた、お前だから……)
岩瀬はきっと、いや、必ず現れる。
そのとき、こいつに危害が加えられないように。
(こいつに甘えたらダメだ……)
先程までジョボジョボと聞こえていた音は、一定の水が入り聞こえなくなった。
紫雨は瞳を開け、林の整然と整った部屋を見つめた。