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翌朝、紫雨は秋山に事情を全て話した。
彼は眉間に皺を寄せたまま聞いていたが、やがて紫雨が話し終わると、紫雨と林の顔を交互に見ながらため息をついた。
「全て正直に話してくれてありがとう。だけどそれを聞いても尚、すぐに警察に相談すべきだという僕の見解は変わらない。
今すぐ病院に行き診断書を取って、警察に駆け込み被害届を出すべき案件だ。でも君はそうはしたくないと。なぜ?」
紫雨は林の前で言いたくはなかったが、それも正直に答えた。
「ここ数ヶ月成り行きとはいえ同棲していた事実があり、身体の関係もありました。その間私は監禁されていたわけでもなく、通常通り勤務していましたし、痴情の縺れだと言われれば、その通りにしか見えないので。
だから冷却期間と言うか、関係を解消してから時間をおき、それでもなお執拗に追いかけまわされるようであれば、改めて警察に被害届を提出したいと思います」
「—————」
林が大きく息を吸ってゆっくり吐き出した。
「その冷却期間はどうやって置く?林君のアパートに厄介になるかい?それとも僕のマンションでもいいんだよ。とはいっても出張が多いから、君を守れる自信はないが……」
「いえ、ウィークリーマンションでも借りようと思います。プライベートなことなので、会社にはこれ以上甘えられません」
言うと秋山は珍しく目を吊り上げた。
「会社には迷惑を……と言うが、君ね。展示場にその男が現れたり、林君を巻き込んでいる時点で、すでに会社に迷惑はかかっているんだよ?」
「————」
紫雨は頭を垂れた。
「おっしゃる通りです。申し訳ありません」
「だから、こうなったらとことん会社に甘えなさい」
「?」
「いいこと思いついた」
秋山はそう言うと、にんまりと笑った。
「明日の地盤調査何時からだ?」
「お客様立ち合いは8時半です」
「じゃあ、雪かきは何時からする?」
「7時半で、間に合いますかね」
「スコップ積んであるか?」
「はい、地盤調査車両に」
「4本?」
「え?あ、3本です」
「馬鹿、こいつにもやらせろよ」
「………えー嫌ですよ。俺、雪かきなんて経験ないっすもん」
篠崎は後部座席に座っている紫雨を睨んだ。
「お前さあ、2週間それでも給料発生してんだから馬車馬のように働けよ」
助手席の新谷も振り返る。
「紫雨さん、防水手袋と耳まで隠れる帽子と積雪用の長靴持ってます?ないなら買わなきゃ」
「マジでやらせる気?鬼かよ。俺、怪我人よ?」
紫雨はアウディのシートに頭を沈めながら、外の雪景色を見つめた。
秋山が提案してきたのは、天賀谷市から一旦離れることだった。
仕事が出来て理解があってなおかつ信頼できる誰かの目が常にある場所。
それは――――。
(はー、何が悲しくて…)
紫雨はため息をついた。
(好きだった奴とその恋人が住む家に転がり込まなきゃいけないんだか…)
マンションに着くと、新谷が準備してくれていた冬用のパジャマやらタオルやら寝具を次々にリビングに置いていった。
「洗濯は俺がするので、遠慮なく洗濯機にぶち込んでくださいね。朝飯はパンくらいなら準備しますけど、他は適当に!冷蔵庫も好きなように使ってください」
そんな事務的な話の間にもころころと表情が変わる新谷を見ていると、心に温もりが戻ってきたような気がした。
「それと秋山さんからの命令で、夜遊びは禁止。休日も俺たちと過ごしてください。通勤は俺か篠崎さんの車に同乗してください。っていっても俺も展示場に車置きっぱなしで篠崎さんの車に乗せてもらっているので、それに一緒に乗りましょう」
紫雨は話を聞きながら、スーツを脱ぎ始めた篠崎を横目で見た。
「篠崎さん、厄介になります」
言うと、
「本当だよ。お前さぁ」
篠崎は盛大なため息を吐きながら紫雨を見下ろした。
「もっと前に言えただろ。同じ展示場の奴らに言いにくかったら、俺にでも新谷にでもさぁ」
「————」
「抱え込むなよ。ただでさえ、お前はわかりにくいんだから」
「————」
わかりにくい?そうだよな、俺、わかりにくいよな。
それなのに――――。
いつもアイツは。
いつも林だけは、俺に誤魔化されてくれないんだよな……。
「じゃあ、俺先に風呂入ってくる」
言いながら篠崎がシャツのボタンを外す。
「あ、タオル。まだ干したままだった。後から持っていきます」
新谷が慌ててその背中に向かって言う。
「ねえ、新谷」
言うと彼はこちらを振り返った。
「いつもみたいに二人で入ってもいいんだぜ?」
「っ。なんでそれをっ……!」
「え、マジかよ。ドン引きなんですけど……」
紫雨は笑った。
「……入りませんよっ」
新谷は紫雨を睨むと、タオルを抱えて脱衣場に消えていった。
「おもれー」
紫雨はまだ腹を震わせ笑いながらソファに凭れかかった。
「……ん?」
自分の胸辺りを触ってみる。
「……はは。マジか」
――篠崎と新谷の入浴シーンを想像しても、全く痛みが走らなかった。
林は無人の紫雨の席を見た。
「林。帰ろうぜ。紫雨さんがいないときくらい」
飯川が時計を見ながらいそいそと荷物をまとめ始めた。
「お前、いつも紫雨さんに気を使って、早く帰れなかったんだろ?」
言いながらこちらを見る。
(……そうか。そう見えるか。いつも紫雨さんが帰るのに合わせて帰っていたから)
無人のその席を再度見つめる。
篠崎の元へ預けると秋山が提案した時、紫雨は思ったほど反応をしなかった。逆に林の方が大声を出してしまったくらいだ。
大丈夫だろうか。
あんなに篠崎のことが好きなのに。
新谷と一緒に過ごす彼の姿を見て、辛くないだろうか―――。
「じゃあ、俺帰るから」
飯川が出ていく。
「お疲れ様です」
「遅くならないようにな」
いつの間にか支度を終えた室井も出ていく。
林は椅子に凭れてすっかり暗くなった外を見上げた。
曇りガラスではっきりとは見えないが、白い影がちらついている。
三重樹脂サッシで出来た重い窓を開けた。
やはり、雪が降り出した。
(こっちで降ってるなら、あっちはもっと降ってるだろうな……)
黒い空から舞い降りてくる無数の雪を見上げる。
と、デスクに置いてあった携帯電話が鳴り出した。
表示を見ると、【新谷由樹】と出ていた。
(まさか紫雨さんに何か……!!)
「林です」
慌てて出ると、
『……ああ、お疲れ』
電話口からは紫雨の声が響いてきた。
「……お疲れ様です」
『充電器置いてきちゃって。新谷の携帯借りた』
「そうなんですか?明日でよければ届けますけど」
『……バーカ。どこでも買えるよ』
胃袋の裏から熱くなってくる。
朝会ったばかりなのに、もうこんなに寂しい。苦しい。
声を聴くだけでこんなに――――。
林は上がってきそうな涙をこらえ、椅子に座った。
『展示場は?変わりない?』
「ないですよ何も。打ち合わせも設計長がしてくれてましたし、問題はないです」
『明後日の現場だけ、頼むな』
「時庭での上棟ですよね。大丈夫です。俺が写真撮ってきます」
『悪いな。ホント』
「いえ」
『…………』
「紫雨さん」
『んー?』
「平気ですか?」
『何が?』
「辛く、ないかなって……」
言うと、紫雨はしばらく黙った後、笑った。
『全然?』
その笑い声を聞いていたら、ますます胸が熱くなってきた。
会いたい。
会ってその笑顔が本物か確かめたい。
もし偽物だったなら。
抱きしめて。
きつく抱きしめて――――。
「俺が……」
『んー?』
勢いでとんでもないことを言おうとした口を塞いだ。
「な、何でもないです。そっちは寒いでしょうから、風邪ひかないでくださいね」
『お、おう』
「じゃ、じゃあ……!」
そそくさと言うと慌てて電話を切ってしまった。
(上司より先に話を切り上げて通話を切る部下がどこにいる……!)
林は携帯電話を握りしめながらデスクに突っ伏した。
「……っ」
(いや、こんなことしている場合じゃない。すぐに準備に取りかからなければ!)
むくりと起き上がると、本をデスクに置いていく。
「DVその被害と判例」
「交際相手の暴力について」
「身内からの性暴力」
速読は得意だ。次々に目を走らせていった。
「うーん……」
やはり紫雨が言う通り、無理矢理と言えど同棲していた事実があること、いつでも逃げ出せたのに逃げ出さなかった状況にあること、さらには診察を受けておらず診断書もないこと。これらの材料で犯罪を立証するのは難しい。
被害届が受理されたところで、逮捕まで結びつけることは至難の業だ。
厳重注意で終わってしまえば、怒り狂った岩瀬が仕返しにくる可能性が高い。
「…………」
やっぱりあの方法しかない。
林は自分の顔を両手で擦った。
そして誰も映っていない展示場のモニターを見上げた。