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重力に引かれ落ちていく中、いきなり二の腕を掴まれ、沈んでいっていた身体がどんどん上へと引き上げられ始めたのだ。
一体何が。まったく想定していない状況に驚いて目をしっかり開けると、目前には部屋を出ていく時にはまだ眠っていたはずのエドアルドの横顔があって。
「……っ、はぁっ!」
理解が追いつかない内に、頭が水面から上がる。すると本人の意思とは関係なくずっと酸素を求めていた肺が、急激に動き始めてセイはその反動で大きく咳き込んでしまった。
「ごほっ、ごほっ、ごほっっ……」
「っ、セイ……セイ、大丈夫ですかっ! しっかりして下さい!」
二度と水中に沈まないよう背中をしっかりと抱かれ、川縁へと押し上げられる。そうすると今度は頭上から二本の腕が伸びてきてセイの身体を完全に陸へと引き上げた。
「セイっ」
緊迫した声で名を呼びながら、横抱きにかかえてくれる。その時にふわりと鼻を擽ったのは、長年の付き合いですっかり覚えてしまった友人のコロンの香りだった。
「ヴィ……」
「無理に喋らなくていいから! ああ……何でこんな……」
水に冷えていない温かな指が、何度も頬を撫でる。その優しい体温はすっかり冷たくなってしまった身体にはありがたいものだったが、今のセイにとっては絶望でしかなかった。
「ふ……っ、ぅ、くっ……っ……」
「……セイ? どうしたの? 何故そんなに泣いて……苦しいのかい?」
「ど……し、……て……」
「え?」
「……して……しなせて……くれ……かったの?」
「セ……」
上からこちらを覗き込んでいたヴィートの顔が、驚愕に固まる。
「エド……失……くらいなら……しにたかった…………」
ヴィートに見つかってしまった以上、この計画は失敗だ。失意に涙が止まらない。
「ねが……ヴィー……エドをころさ……いで…………ぼくが、かわりに死ぬから……」
ただ、それでも最後まで諦めたくなくて、セイはまだまだ酸素が足りず呼吸すら整わない中で何度も何度も願った。
自分の命なんていらない。エドアルドが生きていれば、それだけでいい。懸命に訴えると、こちらを見つめていたヴィートがぐっと眉根を寄せ、辛そうな表情を浮かべて静かに言葉を落した。
「そんなに……エドアルドが好きなのか?」
「ヴィー……?」
「これまで築き上げたものや僕らの大切な思い出を、こんな簡単に捨てようとするなんて……君は本当に薄情な奴だよ」
文字だけ取れば文句に聞こえる言葉だが、こちらを見つめるヴィートの眦には、涙が溜まっていた。
絶対に怒鳴られると思ってた。勝手なことをした罰に、目の前でエドアルドを殺してやると、冷たく宣言されると思っていたのに、セイが目の当たりにしたのは、まったく予想外のことで。
驚きに、言葉が止まってしまった。
「どうして俺がセイの運命じゃないんだろうね……こんなにも君のことを愛してるっていうのに……」
言いながらヴィートは何度も愛おしそうにセイの頬を撫でる。それは穏やかだが、これまでで一番強く伝わってくる感情だった。
セイが好き。セイを愛している。ヴィートの身体中から気持ちが伝わってきて、自分はこんなにも友に愛されていたのだと、改めて思い知らされた。だけれども――――。
「ごめんね……ヴィー……」
セイには、その言葉しか返すことができなかった。今、ここでどんな台詞を並べようが、セイの気持ちが変わらない限り、ヴィートを傷つけるものにしかならない。ならば何も口にしないほうがいい。そのまま見つめていると、視線を落したヴィートが一つ深い溜息を吐いてから、微かな自嘲を浮かべた。
「……いいや……セイが謝る必要はないよ。これもすべて運命が……決めたことなんだから」
切なげな声色の返事に、自然と目が丸くなる。謝る必要がないとはどういう意味か。探るように凝視したところで、セイはいつの間にか友人を包む空気の色が変わっていたことに気づいた。
「さっき、何で俺が……なんて嘆いたけど、本当はずっと運命なんて関係ないって信じてた。セイに対する誰にも負けない愛があれば、天が定めた相手であっても負けることはないって……」
唇を噛み、何かを堪えるように震わせる。
「けど……セイがエドアルドのために自分の命まで捨てようとした姿を見て、俺の考えが甘かったことを思い知ったよ」
ぎゅっと閉じたヴィートの眦から、透明の雫が零れる。それはセイの濡れた身体から飛んだ飛沫か、はたまた彼の涙か。
「俺はセイを誰にも渡したくない。でも、君のためにスコッツォーリを潰せるのかと問われたら……正直、迷ってしまって即答できない」
スコッツォーリは父が、祖父が、そして先祖たちが長い間、己のすべてをかけて守ってきた歴史あるファミリーだ。その長い年月の中には欲しくても手に入れられなかったものや、涙を呑んで諦めたものもあっただろう。愛しているのに別れなければならなくなった相手だっていたはずだ。そんな先代たちの犠牲のうえで築かれた家を、愛や欲で安易に壊すことはできない。自分はそういう立場なのだと、ヴィートは告げる。
「それなのに君やエドアルドといったら、対のためならどんなものでも手放すことができる、なんていとも簡単に言ってしまうんだから……」
本当に嫌になるよ。顔を上げたヴィートに不平をぶつけられてしまったが、その表情からこちらを責める怒りは感じ取れなかった。
「エド……も……?」
「昨晩、君と似たようなことをエドアルドからも言われたよ。自分は潔く制裁を受け入れるから、セイとマイゼッティーファミリーのことを頼みたいって」
「え……?」
それは昨日、エドアルドに抱かれたセイが眠りに就いた後の話だという。
深夜、発砲騒ぎに紛れて姿を消したセイを探すヴィートの下へ、エドアルドから『セイは今、自分と一緒にいる』という一本の電話が入った。当然、怒りに支配されたヴィートは、脅すような言葉でエドアルドに迫ったそうだ。ファミリーを潰されたいのか、全員見せしめに惨殺してやろうか、と。
そんなヴィートに、エドアルドは冷静な言葉で取引を持ちかけたのだという。
「制裁……うけいれる……?」
「勿論、俺は断ろうとしたよ。どうせ電話の時点でもうセイは項を噛まれている。その状況でエドアルドを殺せば、君は番を失ったショックから次第に衰弱して死を迎えるだろう。つまり、どのみちエドアルドに奪われることになるんだからね。だから俺は、それじゃあ気が収まらないって言ったんだ。そうしたら、この男は何て返したと思う?」
「なん……て?」
問い尋ねると、ヴィートはすぐに人を小馬鹿にしたような調子で笑った。が、その呆れ顔の中には強い悔しさが混ざっている。
「…………セイの項は噛んでない。番にはなっていないから、まだ君のところに戻れるって言ったんだよ」