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右京は額にかいた汗を、首から掛けたタオルで拭きとった。
熟成させた醤油の前身であるもろみを木の棒でかき混ぜる。
醤油の熟成には湿度と温度管理が必要不可欠で、醸造所はいつも30~33度に温度を保っているため、冬でも春でも関係なく汗が噴き出す。
雅江に教えてもらった通りにやってはいるのだが、どうも父の和俊が混ぜていた時と色もトロみも違うような気がする。
「………道は遠いな……」
右京は醸造所に飾ってある両親の写真を見上げた。
『賢吾、醤油づくりに一番大切なはなんだかわがっか?』
和俊の声が蘇る。
『笑い声だよ。麹は生きてっからよ』
「父ちゃん」
右京は写真を見上げ、震え下がりそうになる口角を無理やり上げた。
「みんなを笑顔にできる醤油を作れるように頑張っから。見守っててな!」
高校の入学式の際、右京が玄関で撮った写真の中の2人が、ニコッと笑った気がした。
「賢吾?」
醸造所を雅江が覗いた。
「何や、祖母ちゃん」
言うと、昔ながらの電話の子機が渡された。
「職安所から電話」
「……祖母ちゃん。ハローワークだって何回言えば覚えんなや」
呆れながら子機を受け取る。
「はい。右京です」
言うと、ハローワークの若い女性スタッフは緊張した様子で話し始めた。
『あ、う、右京さん。この間はハローワークに登録していただき、ありがとうございました』
「ああ、こちらこそ」
『実は、今こちらに、アルバイトに応募したいという方が来てまして』
「ああ、ホントですか」
右京はかけてあるカレンダーを見上げた。
先週募集をかけてもらったばかりなのに、やけに早い。
「できれば若くて体力のある男性がいいんですけど」
言うと、女性スタッフは明るい声で言った。
『まさに!って感じの方ですよ。今、履歴書を準備していただいていて……、あ、ちょっと?』
「?」
突然電話は切れた
「―――なんなんだ」
右京は首を傾げながらエプロンのポケットに子機を入れると、また木の棒を持ち、樽をかき混ぜ始めた。
「アルバイトか?」
雅江が覗き込む。
「うん。らしいんだけど、なんか切れた」
右京は笑った。
「またかけてくっべ、きっと」
「なんだべねー。今すぐ猫の手も借りたいってのに」
ブツブツ言いながら店の方に戻っていく雅江の姿を見ながら、右京は小さくため息をついた。
9月~3月までの半年間という入院期間を経て、精神科の医師からやっと退院の許可が出た。
その間、外部との連絡は禁止で、やっと退院したころには、卒業式も終わっていた。
右京は、入院中も電話を解約しないでいてくれた雅江から携帯電話を受け取ると、こちらからの返信ができなかったのにも関わらず励ましや報告の連絡をくれた諏訪や、永月に急いで返信した。
しかし―――。
蜂谷からの連絡は、たったの1件もなかった。
右京は息を吸い込みながら顔を上げた。
受験はうまく言っただろうか。
4月から始まったであろう大学はどこに入ったのだろうか。
どこであろうと、誰といようと、
願わくばあいつが―――
笑っていますように……。
格子窓から入ってくる淡い春の光を見ながら右京が手を止めたその時―――。
「う……わ!」
後ろから何か衝撃が来て、右京は危うく醤油の樽の中に落ちそうになった。
下腹をぐいと抱き寄せられ、寸でのところで耐えると、右京は後ろを振り返った。
「……蜂谷!?な、なんでお前がここにいる……!」
右京が目を見開くと、蜂谷はにやりと笑いながら見下ろした。
「バイトの面接」
「はあ?!」
「醤油のラベル張りと配達……だっけ?」
蜂谷は微笑みながら後ろからさらに強く右京を抱きしめた。
「俺を雇ってよ。社長」
「……!?お前、大学は?」
「入学したよ。館山大学」
「はあ?!」
右京はますます目を見開いた。
「お、親父さんは?!」
「東北への事業拡大のためだって言ったら、渋々」
蜂谷は微笑みながら右京を見つめた。
「美味しい醤油屋さんの醤油やめんつゆ使えるように、料亭や旅館をオープンさせようと思って」
「―――!」
「だから経済学部商業学科に入ったんだ」
「―――そんな……」
右京は口をハクハクと動かし、言葉にならない言葉を、声にならない声で発した。
「……右京」
蜂谷は右京をくるりと自分の方に向かせると、真正面から彼を見つめた。
「俺は、お前とは違う気持ちだ」
「―――」
『蜂谷……。俺はお前が、好きだ』
あの日、山形新幹線を待つホームで、彼に放った言葉を思い出す。
「……わ、わざわざ振りに来たのかよ」
言いながら醤油の樽を見下ろす。
「違くて」
蜂谷は笑いながら右京の肩を掴んだ。
「俺は、お前が生きてる世界でも、隣に一緒にいられないのは嫌だ。生きる道が違うなんて、耐えられない」
「――蜂谷」
「右京。好きだよ。俺もお前のことが、好きだ」
ふわっと蜂谷が右京を抱きしめる。
「―――ムカつく……」
右京が蜂谷の白いタートルネックのセーターに顔を預けながら言う。
「なんかお前、良い匂いする……」
「ふは……」
蜂谷は、右京の黒い髪の毛に顎を埋めながら笑った。
「お前はなんか、麹くさい」
「――のやろう」
2人は笑いながら抱き合った。
「ちょっとお。見せつけるのやめてもらっていいー?」
間延びした声が醸造所に反響し、右京は慌てて振り返った。
「な、永月……?」
「やっほー」
永月はウインクをしながら笑った。
「なんでお前……」
「言ったでしょー?モンテ入るって!」
もう一人、窮屈そうにドアをくぐって入ってくる。
「もともと館山大学狙ってたのは俺なんだからな」
「諏訪……?」
彼は照れくさそうにため息をついた。
2人の手前、慌てて離れようとするが、蜂谷の腕の力は緩まない。抱き締めたまま二人を睨んだ。
「モブはモブらしく、雪に埋もれてろよ」
蜂谷が吐き捨てるように言う。
「うっさい。最上川に沈めんぞ」
永月が中指を立てる。
「2人まとめて蔵王のお釜に突き飛ばすか?」
諏訪が二人を交互に睨み落とす。
「ふっ」
右京は堪えられなくなり吹き出した。
「あはははは!!」
他の3人もつられて吹き出す。
笑い声が響く醸造所で、熟成した醤油が、コポッと小さく音を立てた。
【完】