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展示場に入ってきた2人を見て、由樹はほっと胸を撫で下ろした。
由樹や千晶のような若い夫婦が手を握り合って、こちらよりも何倍も緊張した様子できょろきょろと見まわしていた。
「いらっしゃいませ」
声を掛けると、2人はビクッと身体を硬直させて由樹を見上げた。
「み、見てもいいんですか?」
頬をピンク色に染めた若い夫が言う。
「もちろんです。どうぞ」
「あ……じゃあ……あ!!」
靴を脱ごうとして上がり框に躓き、彼は派手に転んだ。
「ちょっとぉ、大丈夫?」
短めのボブ頭をなびかせながら、若い妻がケラケラ笑って引っ張り起こす。
「ご、ごめんなさい」
夫は上がり框を何度も確認する。
「傷ついてないですよね?大丈夫ですよね?」
由樹は思わず吹き出した。
「大丈夫ですよ。それより、お客様、お怪我はありませんでしたか?」
言うと、夫は直立不動になり「ないです!!」と叫んだ。
その丸い鼻からツーッと赤い血が垂れる。
「ちょお!!鼻血!はなぢい!!」
慌てて妻がハンドバックからティッシュを取り出す。
それを見て、由樹はもう一度笑った。
一通り展示場の1階を回ったところで、2階のリビングに紫雨がお茶をセッティングしてくれた。
「ありがとうございます」
寝室に置いてある耐震構造のブースで何やら話している夫婦に気づかれないように言うと、紫雨は耳に口を寄せてきた。
「若い客はとにかく資金だから。そこだけちゃんと聞きだして」
「あ、はい……?」
分かったようなわからないような曖昧な返事を返すと、紫雨は踵を返し、若い夫婦に爽やかな笑顔で言った。
「せっかくなので、一杯飲んでいってくださいねー」
砕けたものの言い方に、夫婦も気が抜けたようで笑顔でお礼を言っている。
2人はリビングのソファの上に座った。
その指にはシルバーの揃いのリングが光っている。
(俺も、千晶と結婚したら、こんな感じになるのかな)
由樹は口元に笑みをたたえ、紫雨が自分用にも準備してくれたコーヒーを一口啜った。
『家作りはいつごろと、考えていらっしゃいますか?』
切り出した新谷を、2階のリビングに設置されているカメラをつないでモニターで眺める。篠崎と紫雨、林に飯川もその後ろから画面を見上げる。
『そうですね。今の賃貸マンションの家賃が結構高くて』
夫の方が頭を掻く。
『それならもう建てちゃおうかっていう話に。ね?』
言いながら妻の方を見つめている。
『今の賃貸も高いですからね』
(わかったような口を…。賃貸マンションの相場なんて知らねえくせに)
眉間に皺を寄せながら頷く新谷を見て、篠崎は鼻から息を抜いた。
『ちなみに月いくらくらいかかってますか?』
(あ、でも金のことを直で質問できるのはえらいな。普通、具体的にいくらかってのは、気が引けて新人は聞きにくいもんなのに)
少し感心しながら見上げる。
『今で……5万8千円?』
2人が顔を見合わせる。
(5万8千円。たいして高くない)
篠崎の眉間にわずかによった皺を敏感に察知した紫雨は、こちらを見て微笑んだ。
「何か隠し玉がない限り、難しいですね」
それには答えずに、3人のモニターを見つめる。
『実は奨学金の返済もあって』
夫の方が頭を掻く。
『あ、そうなんですか。大変ですね。実は私も払ってる最中なんですよ』
新谷が大きく頷く。
『え、マジですか』
夫の方の顔がパッと明るくなる。
『こんなすごいところでお勤めのお兄さんも頑張ってるなら、やっぱり頑張らなきゃな』
2人は顔を見合わせる。
『すごいところなんかじゃないですよ』
新谷は笑う。
『ちなみにご主人様はどちらにお勤めですか?』
「……くっ」
飯川から笑いが漏れる。
「すげえ。ストレートに聞ける営業、初めて見た」
篠崎はため息をつく。
確かに『どこにお勤めですか?』なんて客の収入を探るようなセリフ、普通の営業なら言えない。
『今日はお休みですか?』
『ご主人様が身体しっかりしてますね、自衛隊の方ですか?』
なんてとこから少しずつ職業を聞きだすのが常識だ。
しかし……
『ディーラーです。アオキの営業しています』
夫はなんなく答えた。
(いーんだよ。客が不快に思ってなきゃいい。不快にさせずに聞くことができるなら。短時間で人間関係を構築する技術が新谷にはあるんだ。それがなんでこいつは、わかんないかな)
そのとき、凛とした声が事務所に響き渡った。
篠崎の隣に立っていた紫雨が飯川を睨む。
「職業は聞き出せればいいんだ。聞けないお前が、ストレートに聞く勇気と技量がある新谷君を笑うな」
言われた飯川は罰が悪そうに、口角と視線を下げた。
「す、すみません」
飯川から視線をモニターに戻す紫雨の顔を盗み見る。
(こいつ、意外とまともなことも言うんだな……)
喜ばしいことのはずが、なんだか複雑な気持ちで篠崎はまた視線をモニターに戻した。
『もしかして、奥様もですか?』
画面の中では新谷が妻を覗き込んだ。
『え、なんでわかるんですか?』
妻が両手を口に当てている。
『同じ店で受付してます。パートですけど』
『あー、やっぱり。なんかディーラーの受付の子ってかわいくて優しくて、奥様にぴったりだと思って』
端からセリフだけ聞いてみると、軟派で軽い言葉に聞こえるのだが、そこは新谷が醸し出す嫌味のない雰囲気がそうさせるのだろう。
ただの誉め言葉として、夫婦には気持ちよく浸透していくのが見ていてわかる。
(こいつのコミュニケーション能力も相当だよな)
そしてきっとそれは、彼の性格の良さもさることながら、彼が本能的に、女性に対して欲を感じていないという部分にもある気がする。
つまり、生まれながらにして、男性客に本能的な嫉妬させないという特質を持っているのだ。
(夫婦同時に営業を掛けなきゃいけない住宅業界にとって、ゲイっていうのは利点かもな)
妙に納得して、隣に立つ紫雨に目を戻す。
(そういう意味ではこいつも同じか……)
「……隠し玉がないと無理ですね」
紫雨はモニターを見ながら言った。
「ディーラーの営業。パートの受付嬢。合算収入は高く見積もって600~700万。借入可能額は4000万。最長35年でローン組んで、ボーナス払いを入れても月々8~9万にはなる。
月5万8千円で悲鳴を上げている夫婦がそこまで払えるとも思えない。これ、親の資金援助や、土地持ちじゃなければ、完全アウトケースです」
「……ああ。そうだな」
2人は揃って画面を見上げた。
『家を建てることに、ご両親は賛成されていますか?』
新谷も同じことを思ったらしく、2人に聞いた。
『賛成も反対も、ねえ?』
夫の方が困ったような顔で妻を見つめる。
『……何か?』
新谷が丸い目をさらに丸くして二人を交互に見る。
『……実は私たち、結婚するのすごく反対されてて、その。駆け落ち同然で一緒になった経緯があって……』
「あーあ。親からの援助もなし」
紫雨が脇で呟く。
『なぜ反対されたんですか?』
新谷が身を乗り出す。
「そこ、掘り下げなくていいから」
紫雨が笑う。
『えっと、その』
言いにくそうな妻に代わって夫が答える。
『実は妻は良いところのお嬢様で、結婚相手もそれ相応の生まれの人間じゃないとダメだっていうことで』
画面の中の新谷の顔が凍り付く。
『俺みたいなそこら辺のフランチャイズのディーラーの、しかも成績もよくなくていつクビになるかもわからないような馬の骨、ダメだって』
『そんな時に私が妊娠して……』
妻が申し訳なさそうに顔を伏せる。
『違うよ。俺が、その、悪かったというか……』
「なんだなんだ?昼ドラ的展開だなあ」
紫雨がため息をつく。
『お子さんがいらっしゃるんですか』
他に客はいないのに、新谷が声を潜める。
『はい。実はもう6ヶ月で』
全員妻の腹に視線を走らせる。
『そうだったんですね!すみません、妊婦さんを展示場内連れまわしたりして!』
新谷が頭を下げる。
『大丈夫です。受付の仕事で立ってるのには慣れてるんで』
妻が笑うと、新谷は下げた頭を起こして言った。
『ご懐妊、おめでとうございます!!』
ぷっと紫雨が吹き出す。
「6ヶ月の妊婦に言うセリフじゃねえわな」
(……こいつも新谷の凄さには気づいてねえんだな)
篠崎はモニターを見ながら思った。
『……あ、ありがとうございます』
妻の目がどんどん潤んでくる。
『ごめんなさい』
その目から涙が零れ落ちる。
『だ、大丈夫ですか?どうしました?』
新谷が慌ててテーブルの上にあったティッシュ箱を渡す。
『なんか……今まで必死で……その』
彼女はティッシュから顔を上げると、新谷を見つめた。
『“おめでとう”ってあんまり言われてこなかったから……その、うれ、しくて……』
その顔がまたティッシュに沈んでいく。
新たな命を宿している小さな身体を、夫が優しく包み込む。
『……本当は、友達にも親戚にも、もちろん家族にも、“おめでとう”の言葉で溢れている時期なんですよね。なのに、俺のせいで……辛い目に合わせてるんで……』
夫が新谷をまっすぐに見つめる。
『だから俺、妻と、子供を守れる強い家が欲しくて。
耐震性で選ぶならセゾンだってネットに載っていたので。地盤の良い土地を探して、その上にセゾンの家を建てたいんです』
(……ダメだ)
篠崎は口の中で呟いた。
この夫婦には、セゾンでの家を建てられない。建てる資金がない。
気持ちだけいくらあっても、金がなければ家は建てられない。
だが……。
新谷はその夫の手を握った。
『建てましょう!ご主人様が頑張って働いている間、奥様とお子様を守ってくれる家を!!』
『はい!!』
夫が手を握り返す。
『なんか、対応してくれたのが、新谷さんでよかったね』
妻も涙を拭きながら頷いている。
『耐震性を見るなら、やっぱり構造を見ていただくのが一番だと思います。柱の太さや、多さ、筋交いの太さもぜひ、お2人に見ていただきたいです』
新谷が提案すると、
『ぜひ見せてください!』
夫がくいつき、3人で卓上カレンダーを見て日程を決めだした。
「あーあ」
紫雨がため息とともに言葉を漏らす。
「アポとっちゃったよ」
言いながらモニターを消し、自分のデスクに凭れながら篠崎を見上げる。
「どう思いますか?篠崎さん」
聞かれて篠崎も小さく息をついた。
「あの夫婦に家は建てられない」
「同感です」
紫雨は被せ気味で同意してきた。
「建てられない限り、アポをとってもしょうがない」
「同感です」
紫雨は頷くとポケットに手を入れて立ち上がった。
「じゃあ、そう指導します。いいですね」
「ああ」
篠崎は真っ黒になったモニターを見た。
展示場からはすっかり打ち解けた3人の笑い声が事務所まで漏れてきた。