事務所に戻ると、なんだか空気が違っていた。
営業のメンバーが各々の仕事をしながらも、こちらの気配を伺っている。
(……なんだ?)
事務所を見回すが、もうとっくに帰ってしまったのか、篠崎の姿はなかった。
(ま、いっか。どうせ後で会えるし)
台所に向かい盆を手にする。
「紫雨リーダー、コーヒー出していただき、ありがとうございました!」
お礼を言ってカップを下げるために展示場に行こうとすると、
「それで?新谷君、アポは取れたの?」
紫雨が背中に語り掛けてきた。
「あ、えっと、一応……」
「何のアポ?」
「構造見学の……」
紫雨は盛大にため息をついた。
「明日、その客に断りの電話を入れろ」
「……な!」
由樹は思わず盆を落とした。
「なんでですか?」
言うと紫雨は由樹を見て言った。
「なんで?わかんない?あの夫婦には、セゾンの家は無理だからだよ」
「そんなの……」
「わかんないか?夫婦合算収入で借り入れもギリギリなのに、土地もない。奨学金も払わなければいけない。そんな中、親の資金援助もない。
安定した役所職員でも、教師でも、行員でも警察でも自衛隊でもない。しかも妻は正職員ですらない。建つわけないでしょ?」
「でも……」
「でもじゃない。建たない。建つはずがない」
紫雨は顎を上げた。
「どうすんの。構造見学でセゾンにますます惚れこんじゃったら。どんなに建てたくても金がなきゃ建てらんないんだよ」
「そうですけど……」
「客が自分達の収入で建てられる安いメーカーに決めた時、“やっぱりセゾンが良かった”って泣く2人を見て、“そうですよね…”って一緒に泣いてやんのか、君は」
「俺は………」
「現実問題、建たない客にいくらすすめても、いくらアポをとっても、何にもならない。客を悲しませるだけだ」
紫雨は由樹を見下ろして言い放った。
「“今は見せられるちょうどいい現場がなかったので、また後日にしましょう”明日そう連絡しろ。それで日を置いて彼らが冷静になってから、資金の話をもう一度して、納得して諦めてもらえ」
「……はい」
由樹は落とした盆を拾って紫雨を見た。
「いい?新谷君。”建てられない客に断ってやる”のも、俺たちの大事な仕事だよ」
「はい」
正論だ。
由樹は紫雨に頭を下げてから、逃げ込むように展示場に入っていった。
「……まあ、新人がぶち当たる壁ではありますね。金のない客ほど、なぜかアポは取れやすいですから」
飯川が笑いながら紫雨を見上げた。
「あ、でもこれでアポは0件じゃないですか?」
言いながら壁時計を見上げる。もう6時を回っている。クローズの時間だ。
「罰ゲームって、やっぱり、あれですか?」
飯川は林と紫雨を交互に見て笑った。
「林の時も大変だったよな」
言うと、林はパソコンから目線を上げずに言った。
「思い出させないでください」
紫雨は軽く息をついて首を回した。
「でも新谷君、頑張ったからなー。めきめき成長している姿をみると、応援シタクナルヨネ」
「……その棒読みな感じ、やめてもらっていいですか」
飯川が笑う。
「じゃあ、罰ゲームもやめるんですか?」
言うと紫雨は自分の席に座りながら飯川を睨み上げた。
「当たり前だろ!」
その顔に飯川が硬直し、真顔になる。
「罰ゲームは……」
紫雨は十分に間を取ってから、口の端をにやりと上げた。
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