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今日は早めに練習を切り上げた。
絵画教室の前に瑞野の自宅の方を覗いてみるつもりだ。
本当に具合が悪いなら心配だし、
やる気が無くなったなら早めに解放してやりたいし、
何よりも……
あいつの生意気な顔が見たい。
(……いやいや)
久次は譜面を鞄にしまいながら苦笑した。
違う。
彼が合唱コンクールに出るか出ないかで、自分たちの動きも180度変わってくる。だから早めにはっきりさせる必要があるのだ。
ただ、それだけだ。
「久次先生?」
振り返ると、生徒がまばらになった音楽室に、ポツンと中嶋が立っていた。
「今日は個人練習はしないんですか?」
瑞野が練習を休むようになってから、彼の伴奏につきっきりで練習していた。
”インテラパックス”と比べて、”流浪の民”は黒鍵の数が少ないし、アルペジオも単純だ。元々の技術が高い中嶋なら、テンポ=150にしてもなんなく弾きこなした。
「中嶋は良く指動いてるよ。あとは合唱との掛け合いだけだから、個人練習はもう大丈夫だ」
言うと彼は無表情にこちらを見つめた。
「そんな!俺、まだまだ自分のピアノに満足できなくて……。もっと教えてほしいです」
なぜか執拗に食い下がってくる。
「中嶋。俺もピアノは10年以上続けたが、そっちは専門じゃない。これ以上を求めるとなると、俺には役不足だ。自分の指導者に聞いた方がいい」
「だって俺の先生、クラシックばかりで、伴奏のことなんてわからないし……」
「それに夏休みの開校時間にも限界がある」
言うと彼は一瞬唇を結んだものの、息を吸い込み意を決したように言い放った。
「……え?」
思わず目を見開く。
「先生の家、ピアノないんですか?」
「いや、電子ぐらいならあるけども……」
「先生の家で練習させてください!」
「………」
久次は真剣な顔の中嶋を見つめた。
頬は真っ赤に染まり、譜面を抱きしめている両手は強く握られている。
「……中嶋。俺は生徒とプライベートを共有したりはしない」
言葉を慎重に選びながら言う。
「自宅に個人的に招くなんてことは出来ないよ」
言うと彼はわかりやすいほどに落胆し、肩を落とした。
少し可哀そうだが、こうでも言ってやらないと、無駄な勘違いをしかねない。
そうでなくても故意でないとは言え、二人きりの時間を持ちすぎた。少し距離を置かねば。
「……瑞野先輩は?」
「え?」
「瑞野先輩は個人練習続けるんですか?」
「あ、ああ。まあな」
彼の場合は歌もそうだがまず声の出し方からになるので、やってもやっても足りない。
しかもソロパートまで任せようとしているのだから、これまた無謀なことだ。
「しかしこのまま休み続けるならそれも無理だけどな」
鞄のチャックを締めて立ち上がる。
「ちょっと今からあいつに会いに行ってみようと思って」
「……自宅までですか?」
中嶋が目を丸くする。
「ああ」
「先生、さようならー」
最後の生徒たちが音楽室から出て行った。
重い防音ドアが閉まる。
それでも中嶋は久次を睨んだまま、動こうとしない。
「中嶋……?」
「この間、思ったんですけど」
彼は今まで見せたことのない攻撃的な目で久次を睨んだ。
「なんで瑞野先輩の家、知ってたんですか?」
しまった。
この間二人を送っていったとき、中嶋には家を聞いたくせに、瑞野はそのまま送り届けてしまった。
中嶋はさぞおかしいと思っただろう。
何と言おうか。
いっそのこと、絵画教室のことを彼にだけは……
「……”変な暇つぶし”って何ですか?」
「え?」
誤魔化す前にもっとまずい質問が来た。
「この間、瑞野先輩に意味深に言ってましたよね。変な暇つぶしって、先輩、何やってたんですか?」
「それは……」
言葉に詰まる。
「……彼の、プライベートなことだ」
言うと中嶋はふっと笑った。
「生徒とプライベートを共有しないんじゃなかったんですか?」
「…………」
正論すぎて何も言えない。
久次は俯き目を細めた。
「先生。もしかしてあの話、本当ですか?」
「……あの話って?」
久次はこちらをまっすぐに睨んでくる中嶋の黒みがかった瞳を見つめた。
中嶋は先日、訪ねてきた乙竹を第一音楽室に案内した。
その際にでも、彼から何か聞いたのだろう。
うんざりして眩暈がする。
なぜあの男はなぜ未だに自分に付きまとい、苦しめようとしてくるのか。
(……まるで何か俺がしでかすのを待っているようだ)
久次は大きく息を吐くと、改めて中嶋を見つめた。
「いいか、中嶋。俺は生徒に、教育以上のことはしたことがない。断じてだ。
誰に何を言われたかは知らないが、お前も信じるな」
「…………」
「相手が男であれ女であれ、俺が生徒と一線を越えることは、あり得ない。今までも、これからもだ」
「…………」
こちらを挑発的に睨んできた中嶋の眼が、急に曇る。
眉が下がり、口角が下がる。
「中嶋……?」
「………それでも……俺は……」
「…………」
瞬きと共に、目尻から涙が溢れた。
「…………」
中嶋の後ろにあるグランドピアノがぐにゃぐにゃと波打つ。
中嶋の姿が歪む。
『先生……』
あの声が……聞こえる。
『先生。好き……』
ダメだ。思い出しては……。
『……先生。俺じゃ……だめ?』
ダメだ。ダメだ……!!思い出すな!!
『俺も……』
ついに、もう一つの声が響いた。
◆◆◆◆
その名前が出た瞬間、目の前の第二音楽室は、たちまちあの狭くて湿っぽいピアノ室に変わった。
古いグランドピアノ。
カーテンが閉まっていて……。
久次は彼を抱き寄せ、その唇に夢中で吸い付いた。
背中に手を回し舌を挿し入れる。
「……せんせ……いっ……!」
もはやそれが誰の声がわからない。
僅かでも離れないように、
離さないように、
離されないように、
必死で彼を抱きしめる。
もう、彼を失うのは……。
その亡骸を抱きしめて泣くのは……。
絶対に嫌だ……!
◆◆◆◆
「………先生……?」
掠れた声が聞こえた。
「クジ先生……?」
クジ………?
久次は、中嶋を抱きしめたまま振り返った。
「……何やってんの」
そこには、
部活を休んだはずの瑞野が立っていた。