「瑞野……?」
はっと我に返った時には遅かった。
腕の中の中嶋は真っ赤な顔で、こちらを見上げてるし、瑞野は一歩、二歩と後退を始めていた。
取り返しのつかないことをしたと青ざめる暇もなく、瑞野は踵を返すと、廊下を走り始めた。
「ま……待て!!瑞野!!」
追いかけようとした腰に中嶋が抱きつき、体勢を崩して二人で倒れこんだ。
「先生……。行かないで……!」
そうだ。
今は中嶋への謝罪と弁解が先だ。
しかし……。
久次は閉じようとしている扉の向こうで遠ざかっていく足音を聞き、額を床につけた。
何だ今の……。
何だよ!今の……!!
中嶋とクジ先生ってデキてたのか?
全部俺の勘違いで、もともと二人は付き合っていて、俺がただ当て馬にされただけなのか?
『……指導者と生徒はしばしば恋愛関係に陥りやすい。これは一般的によくあることだからな』
何がしばしばだ……。
何が一般的によくあることだ……!!
(涼しい顔しやがって……!自分がガッツリ生徒と関係持ってんじゃねえか!)
いくら走っても足が止まらなかった。
上履きのまま学校を飛び出し、駅まで走った。
とても家に帰る気にはならず、偶然ホームに停まっていた反対方向の電車に飛び乗った。
つり革を両手で掴み、グググと力を入れる。
自分の手の甲に、緑色の血管が浮き立つ。
(……エロクジ!クソクジ!!)
顔が燃えるほどの怒りを覚えた。
(なんだよ、あいつ、やっぱりそういう奴じゃないか!人には偉そうなことを言っといて!)
あれが手なのか?!
生徒に期待したふりをして心に取り込み、気安く頭を撫でて、腹を触り、喉を撫でて、
生徒にベタベタ触って反応を楽しんでは、やがて一線を越えて手籠めにする。
他の生徒を当て馬にして楽しんだり、味見がてらその当て馬にも手を出す。
そうやって楽しんでいるのか?
(……なんだあいつ!最低じゃん!)
そんなんじゃ、絵画教室のあいつらと、大して変わりないじゃないか……!
家についたのは、夜の8時を過ぎた頃だった。
玄関から入ると、台所から母親が出てきた。
「漣?こんな時間まで何してたの。何度も電話したのよ?」
「…………」
母親がいることに安堵する。
母親がいる日には“仕事”を入れていない。
「ちょっとね」
漣は靴を脱いだ。
そこで初めて上履きを履いたまま帰ってきたことに気が付いた。
「こんなに遅く……!」
珍しく小言を言い始めた母親に見られないように上履きをシューズクロークに押し込んだ。
「ずっと、先生が待っているのよ?」
「……え?」
漣は振り返った。
「先生……?」
「あなたの部屋でお待ちよ。ちゃんと謝りなさい」
「…………」
漣は階段を見上げた。
(この先に……クジ先生がいる……?)
「ふっ」
笑いがこみ上げてきた。
そりゃあそうか。
あんな現場を見られたんだ。
生徒の間に言いふらされたんじゃ、彼の教師生命に関わる。
わざわざ口止めに来たのだろう。
いや、来たというよりも今日は絵画教室だったはずだ。
終わってから立ち寄ってみた、というところか。
家にさえくれば会えると思ったのか。
会いさえすれば、説得できると思ったのか。
(舐められたもんだな……)
こうなったら、とことん……
笑って脅して追い込んでやる……!
勢いよくドアを開けた。
「……やあ」
「!!」
漣は口を開けた。
「遅かったね。漣君」
そう言いながらベッドから立ち上がると、
口の端を吊り上げて谷原は笑った。