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「どうした」
宮内の低く響く声が、陽子を15年前から引き戻した。
15年の月日を感じさせない端正な顔がこちらをちらりと見てから、グラスに目を戻し、それを傾けた。
どういう口の構造になっているのだろうか。
ハイボールを一口で三分の一以上飲むと、宮内はこちらに向き直った。
「何か考え事か」
「考え事ってほどじゃ」
はるか昔の情事を思い出していたなんて、口が裂けても言えない。
陽子は弱く微笑んだ。
「最近、何か物思いにふけていることが多いんじゃないか」
何でもないような口調で言ってくる。
総務課長も、本部の人間も、隣の席の斎藤でさえ、気づかない変化を、この男はずばりと言い当ててくる。
(いやいや、違う違う)
陽子は心の中で首を振った。
(これがこの男の手なんだってば)
「女はいつでも、何かに悩んでいる生き物なんですよ?ご存知のくせに」
余裕ぶって言いながら、すっかり氷が溶けて薄くなったハイボールを陽子も傾ける。
「確かに、女はいつも何かしらに悩んでいるのかもしれないが」
宮内はグラスを置いた。
「それを普段は人に見せないお前が悩んで見えるんだから、ただ事じゃないんだろうと思って」
「ーーーー」
(だから飲みに誘ったんだ、とでも言うつもり?)
結婚してから初めて、正面から彼を見る。
こっちだって15年、ただ生きてきたわけじゃない。
強かになったし、小賢しくなったし、狡くなった。
もともと狡かったこの男が、15年で変わらないわけはない。
ーーー騙されるな。
「疲れが顔に出るようになっちゃ、女もおしまいですね」
言いながら自嘲気味に笑う。
年を言い訳にするなんて、なんて悲しいかわし方だろう。でも今の陽子には、それ以外に切るカードが思いつかなかった。
「お酒も弱くなっちゃいました。身体が酔わないうちに、胃袋のほうがいっぱいになっちゃうんです。こんなふうになるなら、若いうちにたくさん飲んで置けばよかったな」
しかし、自分だけが追い詰められているのもつまらない。
意地悪心が湧き、宮内を上目遣いに見つめる。
「……麻里子さんくらいの時にはいくらでも飲めたのに」
ピクリと瞼と眉毛の間あたりが反応するのを陽子は見逃さなかった。
(ーーーほらね。やっぱり)
心の中で笑う。
結婚式を直前に控え、幸せの絶頂に見える、結城麻里子と宮内は、何かしらの関係があった。
そしてきっとそのことは、誰も知らない。
(見ているのは自分だけだと、思わないでよね)
途端に目を逸らし俯いた宮内の頭頂部を見ながら、陽子は心の中で毒づいた。
結局、今宵の勘定はわからなかった。
入店前か、それとも化粧室に入ったときだろうか。
とにかく靴を履いて出る宮内に、店員たちはただ満面の笑みで頭を下げただけだった。
一歩店の外に出ると、秋の終わりを感じさせる冷たく埃っぽい風が、陽子の長い髪を撫でた。
もうすぐ黒田市に冬が来る。
雪が街を覆う。
人々は着こんで肩を寄せ合い、そして誰かが待つ温かい家に帰る。
感傷に浸りそうになる自分を戒めるように腕時計を見る。
まだ10時前だ。
高校受験を控えている、娘の郁は何をしているだろう。
今日は父親と親子水入らず、口うるさい母親がいないのをいいことに、受験勉強をサボって一緒にテレビでも見ているだろうか。
「この後はーーー」
薄いトレンチコートを羽織った宮内が振り返る。
「どうする」
てっきり選択肢などはないと思っていた陽子は一瞬、「え」と素の声が出てしまった。
今まで、いや、イベントの時から、映画に出てくる美しい女優の如く気取っていた自分が、一瞬で壊れてしまうような間抜けな声。
しかし宮内は笑いもせずまっすぐにこちらを見ている。
(ーーー帰るに決まってるでしょう。明日は月曜日なのに)
うっかり昔のことを思い出してしまったから、だろうか。
選択肢の主導権を、陽子に投げかけた宮内に動揺して、なかなか言葉が出てこない。
(早く起きて、朝ごはんも、郁の弁当も作らないといけないし。そうだ。町内会のゴミ捨て場の掃除当番にもなってるし、それにーーー)
もしこの男と、今、何かあったら。
それはーーー。
ーーー不倫じゃないか。
そんな最低なことしない。
いくら昔、関係があったからって。
いくらその妻がいけ好かない女だからって。
いくら自分の夫が、浮気をしていたからといって―――。
そんなことが許される理由にはならない。
「もちろん帰るわ。明日、早いし」
先ほど零れた声を取り繕うように、必要以上に気取った声を出す。
「わかった」
宮内は言うが早いか、走っていたタクシーを手で停めた。
「青松まで」
運転手に言いながら、さっとタクシー代を渡している。
そんなことが流れるようにできるあたり、やはり15年前とは変わったのだと、少し胸が痛くなる。
「ごちそうさま」
微笑むと、宮内も微笑んだ。
「ああ、じゃあな」
宮内を連れ去るような、一陣の冷たい風が通り抜けた。
コートがその風に靡くさまを見たら、急に寂しくなった。
「待って」
気づいたら、呼び止めていた。
「どうした」
宮内が振り返る。
いくら物腰がスマートになったとは言え、着ているコートの桁が変わったとは言え、ちっとも老けこんで見えない男を見つめる。
彼が少しでも年を感じさせていたら。
一つでも「おじさんになったわね」と笑えるところがあったなら。
「方向一緒だから、乗って行けば?」
もっとはっきり、誘えるかもしれないのに。
「俺は、飲み足りないからもう少し飲んでいくよ」
宮内は微笑み手を上げると、街明かりの方に歩き始めた。
カツン カツン カツン カツン。
靴音が遠ざかっていく。
そういえば―――。
(あの人が私を引き留めてくれたことなんて、一度もなかったな)
陽子は小さく息をつくと、やけに煙草臭いタクシーに乗り込んだ。