春の陽が差し込む屋敷の窓辺。上等なベルベットのカーテンを揺らす風に、花の香りがほんのり混じっていた。
「いふ、今日の紅茶はダージリンかしら?」
窓辺に立つ初兎――名家・有栖家の一人娘は、気品と可憐さを併せ持つお嬢様。その隣に控えるのは、彼女付きの専属執事、いふ。整った顔立ちに冷静な瞳、だがその内側に秘められた想いを、初兎はまだ知らない。
「ええ、お嬢様。お気に召すと思いまして、少し長めに蒸らしてございます」
「ふふ、さすがね。いふの淹れる紅茶が一番好きよ」
彼女の無邪気な微笑みに、いふはわずかに目を伏せた。その笑顔を守るため、彼は執事としての務めを果たす。だが心の奥では、主人と執事という関係を越えて、彼女に惹かれている自分を止められずにいた。
「……お嬢様、あまりご無理なさらず。先日の舞踏会で体調を崩されたばかりです」
「もう、大丈夫よ。……それより、今日はお暇?」
「お嬢様のためなら、いつでも時間はございます」
「じゃあ、少しだけ……私と庭を歩いてくれる?」
その一言に、いふの心が揺れた。禁じられた恋心と、彼女の無邪気な言葉の狭間で、彼の胸は静かに、しかし確かに高鳴っていた――。
しかしその日、有栖家の屋敷に静けさが戻ることはなかった。
午後の紅茶の時間を過ぎても、お嬢様――初兎の姿がどこにも見当たらない。庭にも、温室にも、書斎にも。いふはただならぬ胸騒ぎを覚え、全使用人に命じて屋敷中を捜索させた。
――そして、届いた一通の手紙。
『お嬢様は預かった。返してほしくば、今夜十二時、港の倉庫街へ一人で来い。警察を呼べば、命はない。』
「……っ」
いふの手が、紙を握りしめる音が響いた。
平静を装っていた瞳に、燃えるような怒りが灯る。初兎に指一本でも触れた者がいたなら、決して許さない。それが例え、命を懸けることになっても。
――夜、港。
潮風が吹き荒れる中、いふは一人、指定された倉庫へと足を踏み入れた。黒のロングコートの下、護身用の短剣が静かに揺れる。
「来たか。ご苦労なこった、執事サンよ」
薄笑いを浮かべた男たちに囲まれる。そして、中央の柱に縛られた初兎が、青ざめた顔で声を上げた。
「いふ! 来ちゃ、だめ……!」
その声に、いふの心が締め付けられた。
「お嬢様――必ず、あなたをお守りします」
一瞬の静寂ののち、いふは迷いなく駆け出した。
執事であることを超えて。命を懸ける覚悟は、とうに決まっていた。
短剣を構え、次々と襲いかかる男たちをかわしていく。その動きはまるで、闇に舞う黒蝶のよう。無駄のない動きと研ぎ澄まされた気迫が、次第に男たちの顔に焦りを走らせた。
そしてようやく、初兎の前にたどり着いたそのとき――
「お嬢様、もう大丈夫です」
いふが縄を切り、倒れこむ彼女を優しく受け止めた。震える体を、自分の腕の中へと抱きしめる。
「……こわかった……でも、いふが来てくれるって、信じてた……」
「遅くなって申し訳ありません。ですが……もう、絶対に離しません」
その言葉には、主従を超えた、強く熱い想いが込められていた。
暗い倉庫の中、月明かりだけが二人を優しく照らしていた。
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