「お初お目にかかります。橘様、今回はご息女との縁談をおゆるしくださり、誠にありがとうございます。」
知成は橘当主の前で、ぴしんと背を伸ばし、上等な畳の上で、乱れたところ一つもない格好で座っている。だが、橘当主はつんと冷たい態度を取られ、知成は少し腹が立っていた。
「……婚姻は決まったも同然だ。わざわざ挨拶などわずらわしい」
(……小僧……貴様らに割く時間などない。所詮、庶民上がりの若僧が)
そんな心の声までが聞こえてきたのなら、カチンときれてしまっても、割に合うだろう、そんなことをぐちぐち考えながら、知成はにこりと微笑んだ。
しばらくの間、沈黙が続き、使用人の女がお嬢様をお連れします……と口をついて出た為、橘当主はようやく口を開き、「わたしは忙しい。愚女に会って呉れ給え」と鼻で笑う様にしておっしゃったから、今度こそ知成はカチンときてしまいそうだった。もちろん、 グッと堪えはしたが。
「また、お伺いいたします」
「……好きにするが良い」
「今後とも、末永くお願い申し上げます」
橘当主は何も云わず、去っていってしまった。知成はそろそろ堪忍袋の緒が切れそうだった。
だか、この結婚を上手く使えば、商売は上手く回る可能性が高い。けして逃したくない大物だ。だから、あの当主の態度など、気にならないくらいの不利益だ、そうに違いない、と言い聞かせる。だけれど、内心腹が立っていた為、知成の顔はだんだんと口元がピクピクしてしてしまう。
「失礼しますよ」
そんな声が襖を挟んで聞こえ、知成はいけないいけないと頬を緩め整え、凛々しい表情を保つ。カラカラと開かれた襖の先には、程よく年を取った老女と、俯いている少女が立っていた。
「お待たせいたしました、娘の京佳京佳です」
少女が俯いていた顔を上げ、知成をじっと見る。綺麗な艶のある黒く長い髪、丸く大きな目に、あどけなさの香る眉、すっと綺麗に真っ直ぐ伸びた鼻に、赤い紅の乗った潤んだ唇の美しい少女だった。
「……白河、知成と申します」
老女が笑う。知成も笑う。少女は口を開かなかった。
(あら、結構かっこいい子じゃない。想像よりずっと良い男。この子にはもったいないわね)
そんな老女の声が聞こえてくる。知成は聞こえなかったふりをして、「ご息女との縁談、誠にありがとうございます」と当主にも言ったことを繰り返し言った。
「いいえ、こちらもこの度はありがとうございました、娘も白河様の様な素敵な方に娶ってもらえて幸福ですよ」
「そんなそんな、身に余るお言葉ですよ。」
「まあ。……こんなめでたい日なのにごめんなさいね、うちの人、いつも忙しくてああだから、気になさらないでね」
「お気遣いありがとうございます。私も橘様の様なお方になれます様、日々精進せねばならぬと思っておりますよ」
老女と少女が腰を下ろし、他愛のない話を進めていっているのだが、なぜ、少女の声ばかりが聞こえないのだ。聞こえるのは老女の声ばかり。なぜ、少女の本音が聞こえないのだ。どう思っているのか、見知らぬ男に嫁ぐことをどう思っているかが聞こえなければ、何もできないじゃないか。何も動けないじゃないか。
人間関係というものは、人間の慾深い本音が聞こえるから成り立っている。むしろ、知成は声を聴かずに人間関係を築くことは、ラクダが人の鼻の穴を通るほど困難なことなのだ。聴くという行為でしか、やり方を全く知らないのだ。そんな知成だから、非常にまごついた。どう話しかければ良いのかすらもわからなかった。
そして結局、最後の最後まで話せず、老女の気遣いで、少女、橘京佳に門前まで送ってもらうことになった。このまま一言も話さず、別れるのはなんだか申し訳なく、知成は一人悶々と考えていた。
「あの、ありがとうございます。わざわざ送ってくれて」
京佳は首をもげていってしまいそうな程、ぶんぶん振った。知成はきゅっと口内の唾を飲み込んだ後、
「あの、京佳さん、せっかく、僕たち、夫婦になるんだ。だから、あなたのことを少しでも良い、教えてほしい。何でもいい。好きな食べ物でも、色でも、なんだって良いんだ。とにかく、僕はあなたのことが知りたい。なんだって良いんだ、だから……」
勢いで言ってみたものの、無性に恥かしくなって、そして京佳の反応は薄いもので、知成はいたたまれなくなって、胸元の懐中に忍ばせておいたかんざしの包みを手に取った。
「これ、あなたに。あなたの好みに合うかはわからないけれど、どうか受け取ってほしい」
京佳は一瞬驚いた顔をした。だがすぐに首をぶんぶん横に振り、かんざしの受け取りを拒んだ。知成はえっと驚いた声を隠すことができなかった。
「え、えっと、それでも、受け取ってください、あなたを思って、買ったんだ」
知成は半ば強引に京佳の手に包みを握らせ、また嫁ぐことが完全に決まったら、と言い残して橘の敷地から離れていった。だから、知成は知らなかったのだ。京佳がかんざしの入った包みを嬉しそうに大切なものを扱う様に優しく抱きしめたことを、知る由もなかったのだ。
コメント
8件
はわ……京佳ちゃん可愛い……!!! そしてどう足掻こうが国語の教科書を見るより羊右様の作品を見た方が勉強出来る気がする……! 難しい単語ばっかりでも読むのが苦にならないってやっっば……!! えっと、そして知成の思考とかよりも最後ら辺の京佳ちゃんの可愛さでもう全部ぶっ飛びました。 はい!!!最高です!!!!!!
緑川さん、申し訳ありません。誠に勝手ながら、しばしの間コメントを控えさせていただこうかと思います。理由としては、最近、ありがたいことながら、多忙な毎日を過ごさせていただいているのですが、私は体力がないもので、どうにも疲れてしまいまして……感想を伝えたい気持ちは 山々なのですが、どうもコメントする気力が沸かなくて…それで、生活が落ち着くまでコメントを控えさせていただこうかなと思いました。