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どうせなら天賀谷市を抜けて県境も越えて、地獄の淵まで連れ出してほしいのに、男は自分を天賀谷展示場がギリギリ見えるほど近い、古い喫茶店に押し込んだ。
「どうせなら高級ホテルのロビーとかにしろよ」
吐き捨てるように言うと、
「おい。俺と店に失礼だろうが」
と男は苦笑いをした。
注文したブレンドコーヒーが運ばれてくると、灰皿が目の前に置かれた。
「めずらし。いまだに喫煙OKなとこなんてあるんだ」
言うと、男は笑いながら胸ポケットから1本取り出して火をつけた。
「まあこういう店は世の流れから10年くらい遅れてるからな」
「……どっちが失礼なんだよ」
睨むと、男はテーブルに頬杖をついて笑った。
「お前、素がダダ漏れだぞ。俺に敬語使わなかったことなんてこの8年間で初めてだな」
痛いところを突かれて、紫雨はテーブルから身体を離し仰け反った。
「相当余裕がないと見える。なんかショックなことでもあったか?同期のよしみで聞いてやってもいいぞ」
楽しそうに言うと、篠崎は白い煙を紫雨に向かって吐き出した。
◇◇◇◇◇
「……んで、全部林に騙されてたと」
早口でまくし立てるように一気に話した紫雨の話を聞き終わり、篠崎はネクタイを緩めた。
「ナメられたもんすよ」
言いながら紫雨もつられてネクタイを緩める。さながら居酒屋でビールを飲んでいるような気分だ。
「俺のことが嫌いでムカついてんなら、こんな手の込んだことしなくても、他にいくらだって追い出す方法なんてあんのに」
紫雨は自分も煙草に火をつけると、それを天井からぶら下がっているレトロなペンダントランプに向かって吹き付けた。
「確かに、下手に訴えられるよりも心身ともにダメージはありましたね。病院行き一歩手前でしたから。人工肛門なんてなったら笑えないすよ」
言うと篠崎は頬杖をつきながら、学校で嫌なことがあった小学生の息子の話を聞くように、半分呆れ半分笑いながら聞いている。
「300万円もまんまと使われましたしね。まあいいすけど。あいつにやったはした金すから。でもその金で手打ちにする条件で渡したのに手打ちにするどころかこんなえげつない復讐劇に使うなんて。性格悪いすよマジで」
言いながらテーブルに腕を伸ばし、どんどん滑って潰れていく。
篠崎はますます笑いながらその姿を見ていた。
「あーもう。俺……俺さぁ、篠崎さん」
酔っ払いさながらの醜態をさらしながら紫雨は煙草だけちゃんと灰が落ちないように持ちながら、テーブルに突っ伏した。
「死にたい」
「こら」
篠崎がすかさず突っ込みを入れる。
「死ぬのは勝手だけどな。あとから林に直接聞いてみてからにしろよ」
「何をすか」
「本当の気持ちを、だよ」
「もう、聞いたすよ」
拗ねたように言いながらスーツの腕で顔を擦っている紫雨を、篠崎は眉間に皺を寄せながら覗き込んだ。
「おい。泣くなよ?」
「……誰に言ってんすか」
紫雨は擦りすぎて赤くなった顔を上げた。
その顔を見て、篠崎は苦笑しながら灰皿に灰を弾き、窓の外を見た。
そして小さく息を吐くと、またテーブルに肘を付き、紫雨を覗き込んだ。
「なんか、一時とはいえあまりにお前が哀れだから、一つだけ教えてやるよ」
「……何すか」
「お前、腰に打撲痕があるんだって?」
「……は?」
「服で隠してる部分、全部怪我だらけなんだろ。特になんだっけ?パンツの中?」
「…………」
「さらにベルトがゆるゆるになるほど痩せたのか?」
「……何すか、急に」
「これ全部、林が教えてくれたんだよ。お前が来た日の夜に」
「…………」
紫雨は思わず顔を上げた。
急に態度が変わり、身体をいたわりだした篠崎。
自炊はしないと言っていたのに3食甲斐甲斐しく用意しだした新谷。
「ついでに、『紫雨さんは今傷心中なので、あまり目の前でイチャつかないでください』って釘まで刺されてよ」
『紫雨さん。平気ですか?……辛くないかなって』
紫雨は篠崎の顔を見つめて、唇を開いた。
「な?最後にアイツの言い分くらい聞いてやれ」
(ナニソレ)
紫雨は体勢を直すと、もう一本煙草に火をつけた。
明らかに何かを知っているような篠崎を睨むが、彼はそれ以上教えるつもりはないらしく窓の外を眺めた。
「それにしても、お前と一緒に煙草を吸う日が来るとはな」
言いながら長い脚を組んでいる。
「お前、吸わなかったんじゃなかった?」
唇にそれを咥えると、脇に白い煙を吐いた。
「前は吸ってたんですよ。就職してから辞めたんです」
「へえ?」
紫雨は鼻で笑った。
「当時好きだった男に『煙草似合わない』って言われたんでね」
「……それはそれは、健気な話で」
言いながら篠崎は灰皿に灰を落とした。
(この人は……)
紫雨は目を細めた。
(……ん?)
自分の記憶に何か引っかかるものがあった。
そう言えば、自分も最近、誰かに何かを“似合わない”と言った。
そうだ。
林だ。
明るい色に髪を染めてきたあいつに、「似合わない」と笑ったのだった。
紫雨が笑った次の日、なんともない顔で黒く染め直してきた林の顔を思い出す。
あの時はあいつがなぜその色に染めてきたか、分からなかった。怒ったわけでもないのにどうして自分の一言で染め直してきたのかわからなかった。
あの色は――。
自分が嫌っている、この髪の色だったのに――。
「でも俺は」
篠崎が突然口を開いた。
「今、お前とこうして一緒に煙草が吸えて、嬉しいよ」
「え?」
「『似合わない』って感想は変わんねえけどな」
「…………」
その笑顔が、
友人に向けるような温かな笑顔が、
紫雨の8年間の日々に終止符を打ってくれた。
「ふっ。今思い出したくせに。よく言う……!」
紫雨は口元を綻ばせると、8年間好きだった相手に、初めて素直な笑顔を見せた。
篠崎の電話が鳴った。
『篠崎さん!大丈夫でしたか?』
「新谷?……大丈夫だよ。捕獲した」
自分のことを言われているのがわかるのだろう。
紫雨は苦笑しながら、煙草を灰皿に押し付けた。
『林さんの方はどうなったんでしょう。連絡来ましたか?』
篠崎は窓の外を見つめた。
「まだみたいだな。ああ、意外と時間がかかってるよな……」
篠崎は煙草を咥え、電話口に集中した。
「でもまあ………大丈夫だろ。みんないるんだし。あいつらに任せておけば――――」
篠崎の口から煙草が落ちた。
「あ………」
『……篠崎さん?どうしました?』
新谷の声が響く。
「……あんの野郎!こんな目の前で堂々と消えやがった!」
つい数秒前まで目の前にいたはずの男は、跡形もなく消え去っていた。
『え?マズいすよ!鉢合わせしちゃったら!!』
「わかってる!」
篠崎は立ち上がった。
(……クソ!どんだけ気配消すの上手いんだよ!)
レジに千円札をおくと、篠崎は車を置いたまま、天賀谷展示場に向けて走り出した。