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上がり框に靴のまま右足を上げた男を林はホールから見下ろした。
「そうそう。お前だ。まんまと騙しやがって、このクソ野郎」
男は口の端を歪めて林を睨んだ。
「私がですか?失礼ですが、いつあなたを騙しまし―――」
「すっとぼけるんじゃねえよ!」
90坪の展示場の隅々に響き渡る声で叫びながら、男は唾を飛ばした。
「弁護士のふりをしてきただろうが!!この間!!」
「弁護士?身に覚えがありませんが」
林は震える膝の裏に力を入れながら精一杯笑った。
「“代理人”と申し上げただけですけど?」
話は5日前に遡る。
黒いスーツを選び、わざと襟元のバッチが目立つようにした。
髪の毛を流し眼鏡をかけることで、実年齢よりも上に見えるように工夫も施した。
拍が付くように、同じバッチをつけた室井に同席も頼んだ。
部屋番号を押すと、意外にも男はすぐにエントランスのドアを開けた。
林と室井は終始無言でエレベーターを上がると、紫雨の部屋まで口を開くことなく向かった。
部屋の前のインターフォンを押すと、男が出てきた。
「岩瀬さん、ですか?」
「誰だ」
男が林と室井を睨む。
林も男を真正面から睨んだ。
身長は篠崎と同じかもう少し小さいだろうか。しかしその体は横に広く百キロ近くあるかもしれない。
色が黒く、だらしなく開いた口からは金色の歯が覗いている。
(こんな野獣のような男が紫雨さんを――)
虫唾が走るとはこのことだろうか。
林は全身に立つ鳥肌に堪えながら拳を握ると、彼を見据え口を開いた。
「私は紫雨秀樹さんの代理人を務めております林と申します。こちらは室井です」
「はあ?」
「今日はあなたにこちらの内容証明をお持ちしました」
林は鞄から、内容証明を一通取り出した。
「退去命令?」
男が眉間に皺を寄せながら林を睨み上げる。
「こちらは紫雨秀樹さんが契約している賃貸物件です。一週間以内の退去を要求します」
「……紫雨は?」
男は林と室井を交互に睨みながら言った。
「今は安全な場所に保護しています。それしか言えません」
「……もし退去しなかったら?」
林は口の端を釣り上げた。
「法的手段に出るまでです。私有地に強行的に居座り続ける行為は、刑法130条『不退去罪』に相当する立派な犯罪ですので。また紫雨さんは民事でも争う姿勢も示唆しています」
「けっ。笑わせる」
男は本当に下卑た笑いを浮かべながら、林を見下ろした。
「あのな、弁護士先生は知らないと思うけど、俺たちは“同意の上“の関係だったんだよ。だからあいつ、ひどいことされても逃げなかっただろ?そーいうプレイが好きなの。わかる?若い弁護士さんだからわかんないかな」
そう笑いながら、奥に立っている室井を見る。
「こっちも枯れてるからわかんなそう」
「それ以上の侮辱は結構です。それでは確かにお渡しました。なお内容証明ですので、破り捨てようが隠そうが知らぬ存ぜぬはまかり通りません。一週間後、強制退去となりますのでよろしくお願い致します」
言うと林は男に一礼し、元来た道を戻り始めた。
「なあ、弁護士さん」
男は笑いながらその後ろ姿に叫んだ。
「あいつにその内容証明とやらで伝えてくれよ。一週間以内に戻ってきたら許してやる。でも戻ってこなかったら――――」
林は振り返った。
「わかるよな?って」
林は踵を返すとまた歩き出した。
握った拳から細く血の筋が流れた。
「代理人だの、内容証明だの、金色のバッチまでつけて。あれで騙してないっていうつもりか!」
男が叫ぶ。
「内容証明は弁護士じゃなくても取れますし、事実、彼の言葉を代弁した代理人ですし、金色のバッチというのは……これですか?」
林はポケットから親指の爪程度の大きさのバッチを取り出した。
「こちらはセゾンエスペースの社員バッチです。弁護士のバッチはひまわりの花がモチーフですけど、セゾンエスペースは桜なんですよ。気づきませんでしたか?」
林は薄く笑うとそれをこれ見よがしに襟元に付けて、男を睨んだ。
「以上のことを踏まえて。何かご用ですか?ええと。岩瀬さん?」
男は林を睨みながら言った。
「今日、引っ越し業者が来た」
「ええ、紫雨さんの荷物を引き取りに。それが何か?」
「そいつらがペラペラ教えてくれたんだよ。お前も紫雨もこの展示場にいるって。さきほど契約を結び金をもらってきたって。だから来た。紫雨を出せ」
この男の悍ましい唇から、想い人の名前が連呼されることに、頭皮に鳥肌が立つ。
しかし林はぐっと奥歯を噛みしめ、男を見つめた。
「紫雨さんはここにはいませんし、もうあなたにも会いませんよ」
「ああ?」
「もうあの人を好き勝手にはさせません」
林は言い切ると男に一歩近づいた。
「確かに私は弁護士ではありません。警察でもありません。しかしあなたから紫雨さんを守ることくらいできる。絶対にあなたには渡さない…!」
「はあ?ふざけんなよ?俺たちは同棲してる恋人なんだよ!」
林はもう一歩近づいた。
「ふざけているのはあなたでしょう!あんな無理矢理な関係を結んで、あんなに紫雨さんを痛めつけて!どこが恋人だって言うんですか!あなたがやっていたことは、恐喝と強姦だ!」
「なんだと、てめえ。わかったような口を……!」
男も框に靴ごと上がり、林に一歩近づく。
それでも林は一歩も引かずに男を睨み上げた。
(まだだ。まだ、耐えろ!)
後ろから冷静な自分が助言をする。
(……俺たちで紫雨さんをこいつから引き離すんだ―――!)