彼は、最期の瞬間まで微笑んでいた。
石畳の広場に、興奮した 民衆がひしめき合う。飛び交う怒号。絡みつくような悪意。視線は十字に磔にされた少年に注がれていた。
少年は美しかった。
粗末な 服に裸足の足、痣だらけの肌で晒し者にされて尚、透き通る碧色の髪や、翡翠色の瞳や、微笑をたたえた唇には、清 廉な魅力があった。
誰もが、憎悪と侮蔑の言葉を吐 きながら、目を奪われてしまうほどに。
少年の足元に火がつけられ、風に巻き上げられて一気に燃え上がる。醜い歓声 が上がった。
少年は一度だけ、己の瞳と似た昏い 色の空を見つめ、ゆっくりと目を閉じた。
ジャラ…と、金属の触れ合う冷たい音を聞いた。
夢と現の狭間で、少年はぼんやりと思う。これは夢だろうか、と。
(それとも…死んだ、あと?)
木の棒で殴られ、石をぶつけられ、濁った悪 意にさらされて。そして、火に焼かれた。
悪夢のような記憶がわっと蘇り、少年は目を開け飛び起きた。
汗だくで、ドクドクと心臓が脈打つ。手を胸に押し当てて息 を吐いた。
(生き、てる?)
全身が軋むように痛み、あちこちに包帯が巻かれている。夢にしては感覚が 生々しいが、死後の世界とも思えない。
信じられない思いで辺りをぐるりと見渡す。
薄暗いが 、広々とした部屋だった。モスリンのカーテン、手足の長い絨毯、高価そうな 家具の数々。見覚えのない部屋に囲まれ、豪奢 な天蓋付きベッドで眠っていたようだ。
少年は軽くまばたきをして、困惑した。何がどう なっているのか。
ひとまず立ち 上がった時、ジャラリ と音がなった。
見れば、右足首に鉄の枷がはまり、そこから長い鎖が伸びてベッ ドにつながっている。
「お目覚めかよ、かアい い魔女 サン。気分はどうだ?」
一人きりだったは ずの部屋に、歌うような声が落ちた。ハッと顔を上げると、青年が忽然と立っていた。
少年の顔が引きつり、青ざめる。
「貴方は…」
「そんなに怯えた顔をされると傷つくなぁ」
美しい金髪に、纏うのは純白の神官服と、品のいい古風な香り。燃えるような赤い瞳が悪辣に煌めく。
ズキンとこめかみが痛み、少年の脳裏に思い出したくない光景が蘇る。
形だけの法廷。侮蔑と嘲笑と恐怖が埋め尽くす場で、ただ一人楽しげで、同じくらい退屈そうにしていた青年。
「…爆豪神官長。僕をここにつれてきたのは貴方ですか」
「へぇ。俺の名前、覚えてんだ?」
「どうして僕を生かしている。よりにもよって貴方が…」
「理由?ンなこたぁどーでも良いと思うけどなァ」
爆豪はケラケラ笑って、押し黙った少年の顎を掬い、囁いた。
「テメエを飼うにしたんだよ。罪深き魔女サン」
彼はちょっと器量がいいだけの、平凡な少年だった。朝から晩まで働いて、硬いベッドの中で一日を終える。そんな日々が続いていくはずだった。
だが、ある日突然、街で魔女狩りが始まった。
多くの人々が捕まり、裁かれ、火に 焼かれた。魔女などではない少年の友人が何人 も犠牲になった。
魔女とされることを恐れて偽りの告発をし、肉親同士すら貶め合う。
そしてとうとう、少年も魔女として裁かれ、火刑に処さ れることになった。
(そのはず なのに)
少年の髪を上機嫌で弄る金髪の神官長。彼は王都から派遣された、魔女裁判の裁判員だった。
少年の判決は全員一 致で魔女。爆豪も当然賛同し ていた。
にも関わらず、なぜ少年を助けたのか。そもそもどうやって?
混乱と恐怖に顔がこわばっていく。すると、爆豪は少年の手首を玩 具のようにつかみ、冷笑した。
「ずいぶん表情がかてえな。聖職者に飼われるのは魔女として屈辱ってか?」
「……僕は魔女じゃありません」
「いいや、魔女だね。我等が神の御心に背いた罪人だ。だって、俺がそう決めたんだからな」
傲慢な宣告に、少年はきゅっと唇を噛んだ。まるで、自分こそが神だとでもいう ようだ。
「僕が魔女なら、貴方の行いはおかし い。魔女の火刑を邪魔した人間は同罪。まして、神官長の貴方がやったことならただで済むはずがない」
「そうだな」
「それがいきなり、飼うだなんて。意味が分か らない」
「だろうな。でも、意味な んてなくていいだろ」
軽やかな笑い声が鼓膜を揺らす。爆豪の赤い瞳 が昏く光った。
「俺が気まぐれで助けたから、テメエは今も生きていられる。しかも、今までよりずっと上質な暮らしが約束されてんだ。衣食住が保証されて、働く必要もねえ。ま、俺が飽きるまで、だけどな」
怒りが弾け、カッと頭に血が昇る。手を強く振り払うと、鎖が悲鳴 を上げた。
「助けてくれてありがとう 、でも僕は貴方の玩具じゃない 。今すぐこの鎖を外して。そうしたら、神官長が魔女を助けたという事実は忘れてあげる」
「俺を脅してんのか?」
「そうだよ。立場が危ういのは貴方。一度死にかけた身だ、死んでも帰る よ」
「へぇ、どこに?」
ジャラ リ。
掠れた 吐息が、鎖の音に紛れて 消える。
『死んでも 帰るよ』————どこに?
(忘れて、た)
少年には、帰る場所も、行く当ても、何一つない。
「どこに帰 んだ? ハハッ、コイツ ァ傑作だ」
「やめて」
「テメエが生き て戻っても、居場所なんかとう にねえのになあ」
「やめて ッ!」
悲鳴を上げて、少年は両耳を塞ぎ蹲った。
ガタガタと体が震える。溢れ出した涙が頬を 伝う。
爆豪はにっこり笑って、告げた。
「テメエの家族が、テメ エを魔女だと告発したんだ。保 身のために、な」
ザ クリと、氷の刃が心臓に刺さった。傷口から漏れた血は流れる前に凍りついて、怒りも恐怖も奪っていく。
糸の切れた人形のように、少年はふらりと 倒れ込んだ。爆豪の腕の中へ。
爆豪は愚かな生き物を見る目で、啜り泣く少年の顔を覗き込む。憐れみと、嘲り。あとは、一滴の愛しさに似た何か。
「可哀想で死に損ないの魔女サン。俺が飼い殺してやるよ」
愛の告白のように甘く囁いて、少年の唇を 奪った。
それから、爆豪は毎日少年のもとを訪れた。
3回分の食事と、時々お茶菓子。それから、たくさんの洋服に宝飾品。飼い犬に高価なおもちゃを放るように、惜しげもなくやってくる。
けれど、自由は与えない。
少年は部屋から一歩も出る事が出来ず、爆豪以外の人間に会うこともない。外の情報が与えられることもない。
爆豪が飽きたら、少年は死ぬだろう。殺されるのか、放置されるのか。
けれど、少年は何も思わなかった。どうせなら早く殺してほしいとさえ思う。
行き止まりの自分。まるで生ける屍だ。
何度目のことか。音もなく扉が開いて、朝も夜もない部屋に爆豪が入って来た。
いつだって洗いたてのように真っ白な神官服。銀の盆を持ち、横になっている少年の隣に来て、座る。ギシリとベッドが軋んだ。
「食事の時間だ。おきろ」
眠ってはいない。けれど、あの日凍りついた心は、大部分が、そのまま砕けて消えてしまった。いっそ火に焼けたほうがよかったかもしれない。
「食べねえと死ぬぞ。手がかかんなあ」
溜息をつきながら少年を抱き起こす。鎖が鳴ると、爆豪は唇を緩めた。
白い手袋をはめた手で銀のスプーンを取り、少年の口に差し入れる。蜂蜜で果物を煮た味がした。
「いいか?俺は人形が欲しいわけじゃねえ。ちゃんと反応しねえと捨てんぞ」
「…」
「あ゙ー…つまんね」
少年は目を伏せ、口の中のものをこくりと飲み込む。すると、爆豪の機嫌もいくらか良くなった。
「まあ、いいか。俺が好きにすればいいだけの話だ」
爆豪は少年を膝の上に乗せ、碧色の髪を梳き始めた。時折引っ張り、時折掬って口づける。唇は少年の頬や首筋にも触れた。
満足すると、愛玩動物にするように頭を撫でながら、愚痴をこぼし始める。仕事が面倒臭いだとか、周りの人間が愚かで腹立つとか、毎日つまらないことばかりだ、とか。
話の合間に、思い出したように鎖をつまんでは、楽しげに鳴らす。
そうしていると、爆豪は普通の青年に見えた。
(分からない)
何が楽しくて、自分の世話など焼いているのだろう。笑いもなきもしない、されるがままの自分に構って、何の得になるのだろう。
家族にも見捨てられた、死に損ないの魔女に。
「……神官長」
久しぶりに出した声は、思ったよりも綺麗に出た。毎晩ハチミツ入りのホットミルクを飲まされたからか。
爆豪が鎖を取り落として、深紅の目で少年を凝視する。
「どうして、ぼくを生かしておくの」
自分でも驚くほど抑揚のない声だった。大根役者でもここまでひどいものはそういないだろう。
それを恥じる心も、もういない。
「僕に、何を求めてるの」
3拍分の沈黙。
深紅の瞳を反らし、爆豪は表情を消した。
「何も求めてねえ。気まぐれだ。今殺したっていいし、放置したっていい。どのみち、テメエはどこにも行けねえ」
刺々しく言い放ち、乱暴にドアを閉めて出ていった。
膝を抱えぼんやりしていた少年は、コツリという靴音がする方に目をやった。
久しぶりに見た爆豪の姿だった。数時間ぶりか、あるいは数日ぶりか、薄闇の中で夢と現の狭間を彷徨う少年には、正確な時間が分からない。
けれど。
(血の、匂い)
品のいい古風な匂いに混じって、微かに血臭が漂う。けれど、神官服は今日も真っ白で、滑らかな肌には傷一つない。
普段よりも優雅な足取りで近づいてくる爆豪を見つめ、少年は手を伸ばして、爆豪の髪に触れた。
ジャラ…と鎖が鳴った。
「ここ、切れてる」
柔らかな毛先に触れたのはほんの一瞬だけ。引っ込めようとした手を、爆豪が掴んだ。
「出久」
————初めて、少年の名前を呼んだ。
(名前、知ってたんだ)
だが、言葉が見つからないのか目を逸らす。掴まれた手をぼんやり見つめていると、爆豪は低い声で尋ねた。
「自分を売った家族を憎んでねえのか?」
虚ろな目を瞬いて、少年は少しの間、考え込んだ。
「憎く、ない」
「どうして」
どうして。……どうしてだろう。
少年は目を伏せて、少しの間考え込む。それから小声でそっと言った。
「魔女狩りは止まらない。僕が捕らえられなかったら、家族の誰かが選ばれたはず。だから、仕方ないんだ。……悲しかったけど」
最後に見た家族の顔は罪悪感に満ちていて、自分を見ようとしなかった。処刑される時も、誰も来てはくれなかった。
悲しいし、寂しかった。けれど、憎んではいない。心の大部分が欠け落ちた今では、余計に。
「…綺麗事だ。自己犠牲なんて笑わせる」
起こったような声に、少年は視線を上げる。
「テメエはこの世を呪ってもおかしくねえ。周りの人間すべてを憎むべきだ。…俺のことも。今さら善人ぶって何になる?」
真紅の瞳の中で昏い焰が揺れる。ひどく苛立っているようだった。
それと同時に、痛そうな顔にも見えた。
「憎まれたいの?」
「別に。ただ、……処刑される前に、テメエが笑ってたから」
「…見てたんだ」
悪意に満ちた視線と罵声。拷問を受けた身体は軋むようで、一呼吸ごとに苦痛に苛まれる。
あの時、確かに自分は微笑んだ。狂気からではない。
永遠に続くように思えた絶望から、やっと解放されるという安堵と、それから。
「空が、とても綺麗だったから」
爆豪が目を見開いた。
「燃え尽きて、あの空まで飛んでいける。そう、思ったから」
ジャラリと鎖が鳴る。
あの日、灰になって空へ飛んでいくはずだった少年は、今も地に足をつけたまま。鎖付きで。
爆豪は何も言わない。
見ると、苦痛に顔をゆがめ、わき腹のあたりを押さえていた。真っ白だった神官服に赤色が滲んでいく。
「ッ、もう効果が…」
「怪我、してる、?」
「テメエにゃ関係ねえ」
苛立たしげに吐き捨て、立ち上がって出口まで歩いてゆく。
先ほどの痛そうな顔はこれだったのかと少年は納得した。無理してここに来た理由は分からなかったが。
不意に、爆豪が扉の前で立ち止まって、ポツリと言った。
「テメエは本当に、泣きも、怒りも…笑いもしねえな」
少年はうつろな目を軽く瞬いて、首を傾げた。
「笑ってほしいの?」
「…さあな」
燃えた木の爆ぜるような音で少年は目を覚ました。
爆豪の出入りにのみ使われる扉が炎に包まれ、その向こう側は火の海だった。室内にも火は侵入し、手近な物から焼いてゆく。
これは夢か。それとも現実?
少年は足元の鎖を見た。重くて冷たい。どうやら現実のようだ。
しばらく爆豪の顔を見ていない。何をするでもなくぼんやりし続けて、気づけば火の手が迫っていた。それだけ。
(神官長はやっと僕に飽きたのか)
不思議と、炎は少しも熱く感じられなかった。恐怖も喜びもない。一度火刑から逃れた人間の最期としては、皮肉だけれど。
ガラリと音がして、少年はそちらを見た。
…目を疑った。
燃える戸口からふらりと入ってきたのは、爆豪だった。
ボロボロだった。髪の毛は焼けて背中にふりかかり、神官服は血と煤で汚れ、あちコチ裂けている。右腕は無くなっていた。
足を引きづり、よろけながら、少年の側に来る。彼が足を進めるたびに、絨毯に血が滴り落ちる。
残った左手で鎖を拾うと、血に濡れた唇を微かに緩めた。
「よオ、惨めな魔女サン。気分はどうだ?」
わざとらしいほど陽気な声。周りの炎も全身の傷も無視して、ケラケラ笑いながら言う。
「俺がテメエを飼ってることが職場にバレて、隠れ家に火をつけられたンだよ。ぁ゙、隠れ家ってのはここのことだ。ま、そろそろテメエにも飽きてきたところだ。神官長らしくサクッと魔女を殺して、俺は逃げる。テメエを生かしてやれるのはココまでだ。わりいな」
鎖から離した手を神官服の内側に突っ込み、ナイフを取り出した。それだけは傷一つなく、炎を浴びて赤々と煌めく。
少年は虚ろな翡翠色の瞳で刃を見返した。
「この期に及んで無視か?最後だぞ?俺はテメエを絶対に助けねえし、鎖も解かねえ。ココで殺されて終わり。何か恨み言の一つや二つあんだろ」
爆豪は笑っていた。けれど、肌はとっくに真っ青で、呼吸も荒い。爆豪のほうがよっぽど死人のようだった。
ジャラリ。
少年は立ち上がって、尚も陽気に喋る爆豪の口に自分の唇を重ねた。
鉄の味と氷のような冷たさ。血に交じって、微かにいつもの古風な香りが鼻先を掠める。
そっと離れると、爆豪は目を見開いて硬直している。
いつの間にか、彼の足には少年の鎖が絡まっていた。
「貴方は逃げられたのに、僕を殺すために戻ってきたんだ?」
ヒュッと息を呑む音が熱した空気に消える。
少年を死なせたいなら放置すれば良かったのだ。鎖でつながれた少年はどこにも行けない。もしこの枷が外れ、彼から逃れられたとしても、魔女とされた少年には帰る場所などない。
けれど、爆豪は帰ってきた。出久を殺すためだけに。
(僕を、火に焼かせないために)
心の大部分が欠け落ちた出久でも、それくらいはわかる。
青ざめた爆豪の頬に手を添えて、囁く。
「ありがとう、神官長。ずっと死にたかったけれど、貴方の気持ちは嬉しかった。……最後まで笑ってあげられなくて、ごめんなさい」
爆豪が口を開いて、喘ぐように息を吸った。震える唇をゆがめて、笑い声を上げる。ナイフを高々と振り上げた。
「バッカじゃねえの?危うく笑い死ぬところだったわ!ありがとうだのごめんなさいだの、虫酸が走る!俺はテメエを、踏み躙って嘲って玩具にして、殺すだけだ!俺は聖職者で、テメエは魔女だから、……テメエのことが嫌いだからっ…!」
真紅の瞳から溢れた雫が、蒼白の頬を滑って、出久の手に滴り落ちた。
誰からも見捨てられた魔女を拾って、わざわざ鎖に繋いで、世界と隔絶した場所に閉じ込めていた神官長。彼だけが、自分を思ってくれていた。どのような形だとしても。
「嫌いだよ。出久」
彼が少年の名前を呼んだのは、これで2度目だった。
「僕は、たぶん、貴方のことが好きになったよ」
————たった2度だった。
ナイフが振り下ろされた。
コメント
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号泣😢😢😢感動する話ですごい良かったです😢👍