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福島駅からバスに乗り換え、コテージ倉玉に着くと、その前で沖藤が手を振っていた。
「沖藤先生―!!」
昨日合同練習を終えたばかりで、まだ彼の指導に対する興奮が冷めやらない生徒たちは、囲むように沖藤に駆け寄った。
「おお、よく来たね……」
沖藤は少し戸惑いながらも、事情を知らない生徒たちに不信感を持たせまいと、自然に振舞ってくれていた。
「宿の予約、助かりました」
久次が言うと、
「どうせ、盆を過ぎれば観光客が減るから、それを見込んで倉玉を狙ったんだろう?」
沖藤が目を細める。バレていた。
しかし大自然の中、温泉もあり、防音仕様の小ホールもあるこの施設は、心身ともに休めながら練習するには最適の場所だった。
「指導料、張るからな」
沖藤は久次を睨みながら耳打ちした。
「はい。言い値でお支払いします」
言うと沖藤は笑いながら久次の肩を叩いた。
「え、先生、東京に戻るの?」
杉本をはじめ、皆が口をあんぐりと開いた。
「ちょっと急遽決まったもんで、あっちに仕事を残してきてしまったんだよ。片付けたらまた来るから」
苦しい言いわけだったが、生徒たちは疑う由もなく、「いってらっしゃい」と手を振った。
皆に手を振りながら、「瑞野。ちょっと」
手招きをして彼を物陰に呼んだ。
「これ、洗面用具と、簡単な着替えな?」
言いながらドラックストアで手に入れた有り合わせの用具と下着、そして部屋着を渡す。
「ださっ」
瑞野が笑う。
久次はその大きな目を覗き込んで言った。
「俺が戻ってくるまで、この施設を出ないこと」
「わかってるよ」
「誰が来てもだ。いいな?」
「………」
瑞野はそんなこと予想もしなかったのか、一瞬顔が曇った。
「大丈夫だ。お前の母親には、万一のことを考えて別の宿の名前を言ってある。もし連れ戻しに来たとしても、否が応でもそこでワンクッション入る」
「そ……うなんだ……」
瑞野は俯いた。
「まず。このことは俺に任せて、お前は沖藤先生の指導の元、ちゃんと練習しろよ。成長してなかったらデコピンするからな」
言うと瑞野はやっといつもの表情に戻って頷いた。
「久次!」
ホテルに待機していたハイヤーに乗り込む直前で、声をかけられた。
振り返ると、沖藤が大きな腹を揺らしながらこちらに走ってきた。
「本当にすみません。迷惑かけます」
改めて頭を下げると沖藤はまだ息を弾ませながら顎を震わせながら首を振った。
「それより、一人で乗り込むつもりか?」
「…………」
まだ何も言っていないのに。幼少時代から自分を見てきた彼には全てお見通しらしい。
「大丈夫です。相手とはちょっとした知り合いなんです。何も僕にまで牙を剥くような阿呆な奴ではない。しかし……」
「しかし?」
「頭がいい分、一筋縄でもいかないのもまた事実」
目を細めると、沖藤は久次の方に、その丸い手を置いた。
「久次。俺は、ずっと後悔してきたんだ……」
「え?」
「あの夏、お前と彼を会わせたこと。お前を救えなかったこと」
「……彼を、でしょ」
久次は弱く笑いながら俯いた。
「!!」
その頬を両側からバチンと叩かれる。
「お前をだ!!」
「…………」
久次は、出会って17年間、初めて自分に対して怒った顔を見せた沖藤を見つめた。
「あの子は……」
沖藤が久次から目を離さずに言った。
「瑞野君は、彼に似てる……!!」
「…………」
久次は息を吸い込んだ。
「素直で、天真爛漫で、周りを振り回して、それでも一番大事なところは隠して笑っている」
「…………」
「繰り返すな!久次!!瑞野君は、あいつと違う!」
「……沖藤先生」
「頼れ!誰でもいい!もちろん私でもいい!頼れる人に頼って、使えるものは全部使え!」
そこまで言ったところで、彼の小さな瞳から涙が溢れ出てきた。
「私は、弟子を二度も失うなんて、耐えられない……!」
久次は、彼に抱き着いた。
整髪料の匂いが鼻をつく。
あれから10年。
いつの間にか、彼の背を追い越していた。