東京駅についてすぐに彼に電話を掛けた。
日中は美術館の事務の仕事をしていると聞いていたため、すぐに繋がらないだろうと踏んでいたが、意外にも彼はすぐに応答した。
しかしそれは、母親から事前に連絡を受けていたからだと、美術館内のレストランで向かい合った彼の挑戦的な顔を見た瞬間に気づいた。
一気にこちらも臨戦態勢に入りながら、久次は谷原を睨んだ。
「漣君を拉致同然に福島に連れていったそうですね?」
開口一番、谷原は言った。
そのように彼に伝えた母親の精神状態を想う。
昨日の電話では何でもないような声を出していたくせに。
やはり普通の神経ではない。
「瑞野に、全部聞きました」
久次は一瞬も谷原から目を離さないまま言った。
「……全部?何を?」
谷原がただでさえ細い目をもっと細めながら言った
「あなたが彼に売春を斡旋していたことを、です」
「僕が?」
彼は鼻から抜けるような笑いと共に言った。
「なぜ僕がそんなことを?」
「絵画教室の賃貸料を餌に、彼を脅迫していたと聞きましたが?」
言うと、谷原は一瞬目を見開いたあと、ケラケラと笑い出した。
「絵画教室の賃貸料?あなたは何の話をしているんですか?」
「…………?」
「私はあそこを、タダで借りているんですよ?」
(……やられた)
久次は胸の中で舌打ちをした。
もちろん谷原が言っていることは嘘だ。
そうでなければ、瑞野の母親が谷原の言いなりになる理由がない。
瑞野の母親は確かに金をもらっている。
しかしそこに正式な契約を結んでいないとすれば、
口座などを介さずに直接金を授受していたとすれば、
(……証拠はない)
そして彼が胸を張ってそう言うからには、おそらくその証拠はない。
状況的には、谷原からの収入がなければ、瑞野が彼に従う理由がない。
「瑞野は、自分の身体を売る際、彼らはあなたに特別指導料として金を払っていたと言いました。瑞野はもちろん、彼らの顔を覚えています。訴えれば、社会的地位にも影響が出る。中にはこちらの要求に従い、証言してくれる人が出てくるはずだ」
「ククク」
谷原は笑った。
「ハメ撮りでもしてる人がいれば話は別でしょうが。そんな証拠もないことに怯えるような頭の悪い人間は、私の絵画教室にはいませんよ」
久次は今度は彼に聞こえるように舌打ちをした。
一筋縄どころではない。
彼はいつこのような状況になってもいいように、綿密に準備していたのだ。
そうするだけの価値が、瑞野にはあった。
そうするだけの金が、谷原に入っていた。
「養子縁組については、どう説明します」
久次の言葉に、谷原は少し首を傾げた。
「どうって?」
「養子縁組で瑞野をその男に受け渡したら、瑞野家に金を入れると約束したそうですね。それこそ、人身売買そのものじゃないですか」
言うと、
「何ですか?その話は。漣君から聞いたんですか?」
谷原は笑った。
「確かに後継ぎを探していた方がいたので、紹介はしました。彼はいくつもの会社を経営する社長さんだが、お気の毒に、子供には恵まれませんでね。
養子縁組をした後も漣君は高校に通うことができるし、大学まで面倒見るということでね。
もちろん漣君とお母さんの親子関係も断絶されるわけはない。今まで通りいつでも会っていいし、なんなら旅行なんかに出かけてもいいし、双方が望むなら、いつか一緒に住んでもいいとまで言っている。
漣君のお母さんにその話をしたら、二つ返事でお願いしますということで、成立した話なんですよ」
谷原は清潔なレースのテーブルクロスの上で、余裕たっぷりにゆっくりと指を組んだ。
「漣君にはまだそこまでの話をしていなかったから、誤解させたかもしれない。でも最後まで聞いたらきっと、喜んでくれるんじゃないかな?」
「…………」
だめだ。
谷原を責め立てるだけの材料が―――。
追い詰めるだけの根拠が―――。
まだ足りない。
「わかっていただけましたか?久次先生」
谷原は勝ち誇った笑みを浮かべながら、メニュー表を手にした。
「さあ、腹が減りましたね。ランチはもう食べましたか?実はここは焼きカレーがちょっとした評判で……」
久次は席を立った。
「おや、もう行かれるんですか?」
谷原が彼を見上げないまま鼻で笑った。
「残念」
久次は奥歯を噛みしめながら美術館を後にした。
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