『ばいばい、じんぺーちゃん』
萩から送られてきたメールは、たった一文で、でも何を表しているのかがはっきりとわかる文だった。俺は急いで萩がいるであろう場所に駆けつけた。ドアを開けると、案の定、そこには萩がいた。フェンスに身を委ねていた萩は、俺に気が付くと、体勢を変えてフッと表情を変えた。萩の後ろには月があり、萩は月明かりに照らされていて、どんな表情をしているのか、汲み取ることができなかった。
俺と萩が初めて会った日、幼い頃、萩は俺の心のすべてを奪った。どこか儚げな雰囲気をしている萩は、悲しいような寂しそうな目をしていた。心臓の音がうるさくて、萩の声も、喋っているのに自分の声すらも耳に届かなかったのを今でも覚えている。萩の口が動くのが見えているのに、自分の口も動いているはずなのに、萩の声は俺に届かず、俺の声は萩に届かなくて、わけがわからず少し泣いたことも。でも、俺と萩なら、どんなに辛いことでも乗り越えられる気がした。普通に感じられる喜びや嬉しさも、萩とならたくさん見つけられる。そう思いながら、俺は萩の隣にいた。
楽しいことや悲しいこと、辛いことが立て続けに起こった。でも萩は、楽しいことがあっても笑っていなかった。萩が笑う顔を見たくて、一生懸命だった。萩の好きなこととか、興味を持っていそうなことをやってみたりしていた。それを萩に見せたとき、萩の表情は、今までで1番輝いていた。
「最近、元気無かっただろ?いつでも相談乗るからさ、少しは頼れよ。1人で抱え込むんじゃねぇ。」
「心配かけてごめんね。…相談、してもいい?」
「おう」
「…姉ちゃんが死んじゃったんだ。身内の死って初めてで、しかも姉弟だから、死んじゃった姉ちゃんをどう思うのが正解なのかわかんなくて。」
「千速が… そうか、それで元気がなかったんだな」
「ごめんねぇ、こんな重っ苦しい話で」
「いいよ、別に。…俺、兄弟いねーからわかんねぇけど、自分が思うことに正解なんてねえんじゃねーか?」
「…うーん、そんなもんなんかなぁ」
「それに、千速なら別になんも思わねーよ、萩が何を思おうと。だって、自分の大切な弟だろ?」
「…ありがと、じんぺーちゃん。ちょっと元気出た。きっと、姉ちゃんならこんなこと言っても笑って許してくれるかな。」
「思ったことは言った方が気が楽だぞ。」
「そうだよな。…姉ちゃん、死ぬの早すぎなんだよ。もっとババアになってから死ねっての!」
「すっきりしたろ?」
「うん、めっちゃすっきりした。ありがとね、じんぺーちゃん。やっぱ最高の親友だよ、じんぺーちゃんは。」
俺は立ち上がり、座っていた萩に手を差し伸べた。萩は俺の手を取り、自分のなかに秘めていたであろうことを話し始めた。
「ほんとは忘れたかったんだ、姉ちゃんが死んだなんてこと。1番の憧れで、身近な存在が急にいなくなって、動揺もしてた。でもさ、時間は過ぎてく一方で、それに姉ちゃんが死んだことには変わりないから。」
萩は少し震えながら言い終えた。気づけば俺は萩を抱き締めていた。13歳という年齢で大切な人を失う辛さ、悲しさを味わう人なんてそうそういない。そんな中でも萩は、「姉の死」という現実を受け入れた。なぜだか俺には、その悲しみが少しわかる気がする。大切な人を失う、辛さが。
「ちょっ、じんぺーちゃん?」
「これだけは言わして。」
「なに?」
「…よく頑張ったな。泣きたいときは泣け。それが千速のためになることもある。だから今、辛い気持ちを我慢してるんだったら、思う存分ここで泣け。」
俺がそう言うと、俺の肩に萩の涙が垂れた。俺は萩の背中をトントンと優しく叩いてから、頭を撫でてやった。
「そろそろ帰ろーぜ?お母さん心配すんぞ」
そう言うと、萩は目をこすってから鼻をすすり、少し枯れた声で「うん」と言った。
帰り道を歩いていると、まだ萩の鼻をすする音が聞こえた。
「しょうがねーな、コンビニでジュースでも奢ってやるよ。」
と言うと、萩は「ありがと」と短く言い、俺の制服の袖をそっと掴んだ。
とまあなんやかんやあり、高校も同じ学校へ進学した。それと同時に、萩に告白して付き合うことになった。クラスまで同じになり、内心喜んでいたけど、こんなに都合がいいことが立て続けに起こるとは、この先何かあるんじゃないか、と思っていた。
2学期、ある日の授業中、ふと萩の方へ目を向けると、萩は頬をうっすら赤く染め、どこかを見ていた。そんな萩を見て、俺は「やっぱ男同士はダメなんかなぁ…」と考えていた。その日の授業はまったく集中できず、ため息ばかりついていた。
その次の日も萩は昨日と同じだった。俺はそんな萩の顔が嫌いで、見たくなかった。俺に向けている顔ならまだしも、それをどこの誰だか知らない野郎に向けていることに、ひどく腹が立った。
萩を信じたい。萩は俺以外のやつに好意を向けない、と。でも、授業中のあの萩の顔を見ると、どうしても信じ続けることができなかった。このまま付き合い続けていれば、そんなことこれから何回、何十回だってあるだろう。その度に俺は腹を立てては1人で抱え込むのだろうか。
でも、俺たちならきっと分かり合える。今はそうだと信じるしかない。
「俺、ほんとに萩のこと好きなんかな。」
「…萩は、ほんとに俺のこと好きなんかな。」
「もうやだよ、じんぺーちゃん。俺、疲れたんだ。」
そう言って、萩は差し伸べられた俺の手を振り払った。俺だって、「もう嫌だ、疲れた」と言いたい。俺はうつむき、萩にまた迷惑をかけていることも知らずにそう思っていた。でも、時間は過ぎていくだけで、言おうとしていた言葉は全部萩には届かない。そして、ついに言ってしまった。
「もう、終わりにしよう」
そう言った瞬間、萩は今まで見たことのないような笑顔を、フェンスにもたれかかりながら俺に向けた。
俺は爆発物処理班としての活動、捜査一課での活動で切羽詰まっていた。そのときは、誰と話してもつまらなくて、何も感じることがなかった。でも、白昼夢の世界で屋上に立つ萩の笑顔を見た瞬間、現を抜かし、そして視界の中にいる萩が何よりも輝いて見えた。輝いて見える萩は、今までに見てきた、どんなに綺麗なものよりも美しかった。萩に見えないであろう俺が溢す涙は、萩が俺へと向ける笑顔に溶けていった。
俺は今さら、みんなに申し訳なく思っている。自分の勝手な事情でみんなを巻き込んで、みんなに不快な思いをさせて、それでも俺と話してくれる人がいて。そう考えていると、涙がとめどなく溢れてきた。そんな俺に、萩は手を差し伸べてくれた。
「じんぺーちゃん。疲れたんなら、もう休もう。あとはみんながなんとかやってくれるよ。」
萩が俺に手を差し伸べながら言うと、その瞬間、空に染み付いたように広がっていた暗い霧が晴れた。周りに広がる景色は、いつものように見る景色よりも一層綺麗だった。
俺は、今まで自分がしてきたことを忘れたかった。自分がそんなことをするなんて思っていもいなかった。どうしても忘れたくて、本当の自分を抑えていた。
もう頃合いだろう。
そう思い、俺は萩が差し伸べてくれている手を取った。萩に手を引かれ、そのまま体の力を抜いた。目を閉じ、少しして目を開くと、そこには夜明けを合図する太陽が、暗い空を明るく染めていた。明るい景色と、この世で1番綺麗な萩が重なる姿に見惚れていると、萩は口を開いた。その言葉を聞いて、俺はハッとした。
「そんなこと今言われたら、これから死ぬのが嫌になるじゃねえか」
「あっはは、ごめんごめん。でも、来世でも大丈夫だよ。俺たちは一生親友だからな。」
「…それもそうだな。」
やっぱり、俺は萩が大好きだ。萩も、俺のことを考えていてくれいたのが嬉しい。少し物騒だけど、このことが起こってよかった。心底そう感じている。俺たちは風に身を任せ、ついに地上へと鈍い音を立てて落ちた。俺たちは、客観的に見たら短い人生を自分たちの手で終わらせた。
どうか、来世でも、萩原研二というバカでアホで、でも無邪気で優しい男と一緒に、バカやっていけますように。
神様、もしいるなら、記憶が無くなってでもいいから、どうかそんな男と一緒にいさせてください。
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