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紫雨は見慣れた天賀谷展示場までの道をひた走った。
いつもはキャデラックに乗って風のように通り過ぎる風景がやけに遅く感じる。
それでも地面に顔が付くのではないかと思うほど前方に身体を倒し、手を千切れるほどに前後に振り、今日買ったばかりの革靴に穴が開くほどアスファルトを蹴った。
篠崎は先ほどからずっと天賀谷展示場の方を気にしていた。
あそこで、何かが起ころうとしている。
いや、もうすでに起こっている?
林の電話が、紫雨がそこにいることを知っていての芝居だとしたら―――。
紫雨を天賀谷展示場から離れさせるための嘘だとしたら―――。
きっとアイツが来ている。
自分を離れさせ、きっと林は迎え撃とうとしている。
スポーツも何もやってこなかったような細い身体で、
自分なんかのために大泣きしたような脆い精神力で、
あんな男と対峙したら―――。
(馬鹿野郎!!俺はお前なんかに守ってもらうほどやわじゃねえんだよ!)
カランカラン。
遠く離れた喫茶店のドアベルの音が聞こえた気がした。
紫雨は民家の塀によじ登ると、そこから飛び降り庭を駆け抜けた。
「この!どら猫が!」
遠く後ろから声が聞こえたが、無視した。
この辺りには、紫雨が手掛けた家が何軒も建っている。敷地や隣家のことなら家主よりも知っているくらいだ。
紫雨は家と家の間を抜け、庭を突っ切り塀を乗り越えて直線距離で天賀谷展示場に走っていった。
天賀谷ハウジングプラザの駐車場に出た。
紫雨は速度を緩めないまま、セゾンエスペースの展示場に駆け寄った。
3段ある外階段を一気に飛び上がると、事務所のドアを引っ張り開けた。
「うわっ!」
途端に後ろから衝撃を受け、紫雨は上がり框に盛大に胸をぶつけながら前に倒れ込んだ。
誰かが上から乗ってくる。
息ができない。
両腕を押さえつけられる。
両足も掴まれる。
(…………一人じゃ…ない?)
紫雨は同じく押さえつけられた首に渾身の力を込めて振り返った。
「……何してんすか…」
紫雨は自分の上に乗る大先輩たちを見上げて口を開けた。
「いや、紫雨君がこっちに来たら力づくで押さえつけろと篠崎君から電話が……」
老輩が紫雨を抑えつけながら笑う。
「ほら紫雨マネージャー。大人しくして」
脚側にいる男も苦笑いをする。
「てかあんたら、なんでそんな恰好をしてるんですか」
紫雨は首を精一杯回して、彼らを見た。
いつもの着古した背広ではなく、作業着を着てどこで買ったのか、揃いの紺色のキャップまで被っている。
まるで――引っ越し業者のような………?
『はあ?ふざけんなよ?』
紫雨は慌てて視線を上げた。
ラックの上に置いてあるモニターから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『俺たちは同棲している恋人なんだよ!』
「岩瀬……!あいつ………!!」
紫雨は押さえつけられている手をほどこうと暴れた。
『ふざけているのはあなたでしょう』
手前にわずかに見えていた頭が前に進み出る。
カメラにはっきり映ったその後頭部は、紫雨に笑われて必要以上に暗く染めてきたその髪の毛は、間違いなく林だった。
「離せ!!……離せって!!」
紫雨は暴れたが、老輩と言えど、自分より体重が重い男3人に押さえつけられて動けない。
「大人しくしろ、紫雨」
モニターのリモコンを持っている室井が静かに言った。
「林!!」
叫ぶが、セゾンエスペースが誇る防音ドアでは声は届かない。
『あなたがやっていたことは、恐喝と強姦だ!!』
それでも林の声はモニターを通してはっきり聞こえてくる。
『何だと、このガキ!!』
岩瀬が林の襟元を掴み上げる。
黙ってモニターを眺めていた室井が受話器に手を掛ける。
「………何してんだよ!!クソジジイども!!助けろ!!林を助けろよ!!」
声の限り叫ぶと、室井は紫雨を見下ろした。
「まだわかんないのか、マネージャー。林はお前を助けようとしてるんだよ」
「は?」
『おい、何逃げようとしてんだよ。今更おじけづいたのか?』
林が少し身を捻ったことで、モニターには対面している二人の横顔が映し出された。
『こうやって近づいてみると、ちゃんとわかりましたか?ひまわりじゃなくて、桜でしょう?』
林は静かに言った。
『どうして俺たちが、この金色のバッチをつけることができるか、分かりますか?』
『ああ?』
『セゾンエスペースのバッチは本来ピンク色で、この金色の桜をつけることが許されている店舗は、年間目標を達成している一部の店舗だけなんですよ。
それをなぜ、嘱託社員が多く、俺みたいなペナルティスタッフがいる店舗の人間がつけていられるか、分かりますか?』
『何を訳のわからないことを………』
『紫雨さんが……紫雨さんが、頑張って受注をたくさん取ってくれたからですよ!だから今年も俺たちはこの金色のバッチをつけることができるんだ……!」
林は男の手を握りながら睨み上げた。
『あの人は、紫雨さんは……!お前のようなゴミみたいな人間が、汚い手で触っていい人間じゃないんだよ!!わかったら地獄の果てに消え失せろ!このクソ野郎が!!』
岩瀬の拳が握られた。
襟元を捻り上げ、林のつま先が軽く浮かんだ。
その拳が彼の頬めがけて打ち付けられた。
「林!!!」
ブーブーブーブーブーブーブーブー
紫雨が叫ぶのと同時に、展示場に防犯ブザーが鳴り響き始めた。
『防犯システム作動。警備会社に連絡します。繰り返します。防犯システム作動。警備会社に連絡します』
室井は受話器を取り上げた。
「もしもし。警察ですか。天賀谷ハウジングプラザのセゾンエスペースに暴君が乗り込み、うちの職員に暴行を働きました。今すぐ来てください」
「……は?」
紫雨は初めから仕組んでいたかの如く、スラスラとその台詞を口にする元上司を見上げると、再びモニターを見上げた。
岩瀬はブザーの音に慌てて林を突き飛ばすように転がし自動ドアに駆け寄るが、電源が落ちたドアはロックされ開かない。
『岩瀬さん。全て展示場のカメラに撮られ、情報は本部に随時リアルタイムで録画されています。もう逃げられません』
『くっそ!!』
岩瀬は林を突き飛ばすと、リビングの方に走っていった。
「こっちか?」
モニターを見上げていた室井がリモコンを合わせる。
岩瀬はリビングの出窓に飛び上がり、開けようとロックを外した。
しかし窓は開かない。
『なんだよこれ!!』
イラついて叫ぶ岩瀬の後ろから飯川が笑う。
『セゾンが誇る、二重ロックシステムです。さあここで問題です。もう一つのロックはどこでしょう?』
岩瀬が悔しそうに振り返る。
『クソが!ふざけやがって!!』
飯川を突き飛ばすと、ダイニングテーブルからチェアを抜取り、それを腰窓に思い切りぶつける。
しかしそれは窓ガラスにひびこそ入れたが、割れはしない。
『はは。防犯ガラスなんで』
飯川が笑う。
『あの卑屈で性格の悪い紫雨さんが、自信をもって進める家ですよ?半端な商品なわけないでしょ』
『………っ!』
岩瀬はチェアを持ったまま飯川を突き飛ばし、リビングから出ていった。
「正面玄関に戻っていくぞ……?林が危ない……!」
紫雨は口を開けてモニターを見ていた3人を振り落とすと、両手をフローリングにつき飛び上がるように立ち上がった。
「あ、おい紫雨!!」
前のめりになりながら事務所内を抜け、展示場の入り口を体当たりをしながら開けた。
「林!!」
紫雨が叫んだのと、何か大きな打撃音がしたのは同時だった。
(――うそだろ……!!林……!!)
心はこんなに焦っているのに、身体が前に進まない。
『いい加減にしてくださいよ!』
そう言えば。
紫雨が新谷にちょっかいを出そうとしたとき、林が叫んだことがあった。
『あんたには、俺がいるでしょうが!!』
顔を真っ赤にして握った拳を震わせて……。
あの時に、あいつの気持ちに、少しでも気づいてやれば……。
『……好きです。紫雨さん。俺、本気で……』
林……。
『………世界で一番、あなたのことが……』
林……!
『好きです……!』
「林!!」
紫雨の目に飛び込んできたのは、ダイニングチェアで自動ドアのガラスを割った岩瀬の後ろ姿と、鼻血を出しながらその腰にしがみ付いた林だった。
「林!そんな男、どうでもいいから、離れろ!」
言いながら紫雨も玄関に駆け寄る。
「ダメです!こいつ岩瀬なんて名前じゃないんです。偽名で正体わかんないんです!ここで逃げられたら……!」
林は岩瀬にがっちり抱き着きながら言った。
岩瀬が抱き着いた林の顔に肘打ちをくらわせる。
「うグッ」
「離せって!!」
紫雨は林の後ろから抱き着き、その体を引っ剥がした。
「いーんだよ!!いいの!!こんなことしなくて!お前が!お前が傷つくことなんてないんだよ!」
「……ダメです!あの男がいる限り紫雨さんは!」
鼻血を出し、頬も目も腫れた林が外階段を飛び降りていく岩瀬を追おうとする。
「……いいから」
紫雨は上がり框から飛び降りた。
「自分のケツは自分で拭うっつの……!!」
紫雨は走り出した。
ハウジングプラザの遊歩道を岩瀬と紫雨が走る。
「くそっ」
背が高く手足の長い岩瀬はぐんぐんつき離していく。
「追い付けない……っ!」
その姿が管理棟を曲がった。
「逃げられる……!」
ドタン。
「ん?!」
曲がったと思った岩瀬が吹っ飛んできた。
「は?」
「え?」
後ろを追いかけていた紫雨と、その後ろを追いかけてきた林は、尻餅をついた岩瀬を見て思わず足を止めた。
岩瀬が仰向けに倒れたまま、口を大きく開けて見上げていた。
そのままじりじりと後退している。
その目の先には、彼がいた。
「やっぱりお前か。鎌田」
篠崎が男を見下ろす。
「カマタ?」
紫雨が口を開ける。
「!!あの大学生か?!」
そこにいたのは、4年間ですっかり様変わりしたあの大学生だった。
篠崎は男に近づくと男を睨み落とした。
「林から前歯が金色だったって聞いてまさかとは思ったんだよな」
言いながら倒れている男を掴み起こす。
「前歯を折っただけじゃ足りなかったか?」
「っ!」
男が顎を震わせながら篠崎を見上げる。
駆けつけた老輩たちと、室井、飯川が男と篠崎を囲んだ。
紫雨はふっと笑った。
「はは……。怖え人……」
言うと体の力が抜け、紫雨はその場に座り込んだ。
その横に林も座り込む。
「……疲れた」
紫雨が林を睨む。
「俺もです」
二人は同時に笑った。
「走らせんな。若くねえんだからよ」
言いながら紫雨は林に寄りかかった。
「煙草のせいですよ。辞めた方がいいんじゃないですか?」
林は自分の肩に頭を乗せる紫雨を見下ろした。
「………似合わないですよ」
紫雨は表情のない林を睨み、舌打ちをした。
ハウジングプラザに3台のパトカーが相次いで入ってくる。
紫雨はそれを見つめると、安堵のため息をつきながら目を瞑った。
「……つまり要約すると、5日前お前と室井さんが弁護士さながらの恰好をして、あいつに7日後の強制退去通告の内容証明を渡しに行ったと。
そしてその7日を待たずに、今日、老輩3人衆が引っ越し業者を装い、俺の部屋に来て家具を持ち出そうとし、拒否するあの男に、『そういうことでしたら、紫雨さんと林さんにサインをいただいているんで、そちらに話してもらっていいですか?』とここの場所を教える。
んで展示場のすべての窓を二重ロックにしてから、殴りこんできたあいつを迎え撃ち、カメラのある玄関で見えやすい位置にまであいつを誘導しながら挑発し、一発貰った時点で室井が警察に通報。
防犯システムを飯川が作動させ、同時に自動ドアの電源を切る。
袋の中のネズミ状態にして、警察の到着を待つ。
これが作戦の全てか?」
紫雨が一気に言うと、林は聞きながらずっと小刻みに頷いていた頭を上げた。
「はい、大体は……」
「馬鹿野郎!」
すかさず紫雨はその風呂上がりの頭をスパンと叩いた。
「この作戦、どう見ても危険すぎるだろうがっ!特にお前が!!」
「…………」
林は叩かれた頭をさすりながら紫雨を上目遣いで見た。
「だってこうするより他になかったんですよ。紫雨さんとアイツにはズブズブの数ヶ月があって……」
「ズブズブって言うなよっ!」
「とにかく犯罪として立証するのが難しく……それだったら誰にも文句を言わせない状況で新たに暴行事件で逮捕してもらった方が間違いないなって思ったので」
紫雨はため息をつきながら林の部屋を見渡した。
先日並んで弁当を食べたローテーブルには乗り切らないほどの法律やら、裁判の本が積んである。
その中の一冊を手に取って紫雨は林を見つめた。
「なに?これ」
「……できるだけ、痛いのは嫌だなって……」
それは『誰でもできる護身術』という本だった。
「んで?成果は?」
紫雨は林のガーゼとテープが貼られている顔を睨んだ。
「鼻血と、頬骨にヒビだけで済みました」
「………馬鹿」
紫雨は、長く息をつくと、またその項垂れた頭を軽くたたき、そのまま抱き寄せた。
あれから駆けつけた警察により、岩瀬―――もとい鎌田雄二は逮捕された。
4年前、セゾンエスペース時庭展示場のマネージャーだった篠崎と、天賀谷展示場リーダーだった紫雨に目をつけ、“建築の勉強のため”との名目で通っていたが、あろうことか篠崎に手を出そうとしたことで返り討ちにあい、前歯を無くす結果になったらしい。
その後は篠崎の手前、数年息を潜めていたが、数ヶ月前にいわゆるゲイバーで紫雨の姿を発見し声をかけたところ、紫雨がさっぱり自分を覚えていなかったので近づいた、とのことだった。
林は病院に行き診断書を取った後、警察の事情聴取を受け被害届を提出し、解放されたのは夜の8時過ぎだった。
篠崎はというと「お前、明日は休みだからいいけど、明後日は地盤調査入ってんだから、絶対乗って戻って来いよ」
と釘を刺して八尾首市に帰っていった。
「紫雨さん……」
肩に押し付けた林の口から、その声が自分の体の中に溶けていく。
「無事で、よかった」
紫雨は目を瞑り小さく息を吐いた後、
「俺の台詞だっつの……」
こちらも林の身体に溶けるように言った。