◆◆◆◆
――――階段を上ってくる音がする。
紫雨は慌てて自分の身体を見下ろした。
パジャマだ。
これは中学校の時の記憶。
キイと高い音を立ててドアが開き、あの女が部屋に入ってきた。
紫雨が睨んでいると、その瞳に向かって人差し指を立てる。
紫雨が声を上げないとわかると、その布団を捲り、身体を上から下まで嘗めるように確認する。
ベッドが小さく軋む。
女が紫雨を跨いでベットに上ってきた。
手が紫雨の胸を撫でる。
その唇が紫雨の唇に迫ってくる。
ドン。
紫雨はその体を思い切り蹴り飛ばした。
女がベッドの下に吹っ飛ぶ。
『な……何するの………!』
女の顔が歪み、目が怒りで上下に開かれる。
紫雨はベッドから足を下ろし立ち上がると、女を見下ろした。
『てめえ口臭いんだよ!次俺にその臭い息吹きかけたらぶっ殺すからな!クソババア!!』
――紫雨は目を開けた。
例え夢の中と言えど、今まで一度も抵抗なんてできたことはなかった。
声を上げたことはなかった。
それなのに………。
「んん……」
隣を見ると、ガーゼの下が痛々しく腫れてきた林が枕に反対側の頬を押し付けながら眠っていた。
『大丈夫です!もう手は出しませんから!!』
数時間前、真っ赤な顔で首を振った彼を思い出す。
「え、別に出してもいいんだけど」
と素で言った紫雨にますます真っ赤になると、林は『もう出しませんっ』と頑なに拒否をし、寝入ってしまったのだった。
(あ、そっか。俺、こいつに何も気持ちを伝えてないんだ)
そこで初めて気づいた紫雨だったが、しばらくそのままにしておくのも楽しいかと、大人しく彼の隣で眠りについたのだった。
頬に触れないようにして、その髪の毛を撫でる。
若くて健康的な黒い髪の毛。
「やっぱりこの色の方が、お前には似合ってるよ」
またこうして触ることが出来て本当によかった。
「……んん……?」
林が小さく唸ってその瞼を開ける。
「紫雨さん……?眠れないんですか?」
「いや?」
紫雨はふっと笑いながらその瞳を見つめた。
「お前、明日の休み予定ある?」
「特別ないですけど……」
「じゃあさ。付き合ってよ」
「どこに?」
紫雨は口元を引き締めた。
「俺が殺したいほど憎んでる女のとこ」
「14歳からだから、17歳までのまあ3年間か?ほぼ毎晩、伯母から犯されたとまあ、そんな感じかな」
言いながら手を頭の上で組むと、紫雨はふうと息を吐いた。
こうして言葉にすると、不思議とものすごく小さなことに思えた。
「まあ俺は男だし?ババアは当然のごとく女だし?女が男を犯すのなんてさ、上に乗るくらいしかないじゃん?だから勝手にババアが乗ってきて、勝手に腰振って、満足して戻っていく、みたいなさ」
ものすごく滑稽なものに思えた。
「おかげで毎晩寝不足だったけどな」
笑いながら紫雨はリクライニングを少し倒して胸のあたりを撫でた。
たった数か月間なのに煙草を取り出す習慣がついてしまった事実に苦笑しながら、林に借りたジャケットを撫でた。
「まあでも、最後が最悪だったって言うか……」
紫雨は窓枠に肘を付いて、流れていく景色を眺めた。
「俺が高2の時さ。あのババア急に騒ぎ出したんだよ。『生理がこない』って」
「…………」
反応に困っている林に構わず紫雨は続けた。
「近くに住んでた親戚集めて騒ぎ立ててさ。どうしようどうしようって。普通の神経じゃないよな。妹もドン引きしてさ」
紫雨は当時を思い出して目を細めた。
「当然、『相手に心当たりでもあるのか』ってことになるじゃん。んであのババア、俺のこと見やがってさ」
紫雨は鼻で笑いながら足を組んだ。
「高校生と言えばさ。妊娠したら生理が止まるのなんてわかるじゃん?でも、女が50前後で閉経するなんて、当時の俺は知らなかったわけよ。そのときで伯母は57歳。妊娠するわけねえんだよな。でも俺、物凄く焦っちゃってさ」
今でも思い出す。
狼狽し泣き叫ぶ伯母の背中を抱きながら、手を握りながら、こちらを睨んでくる顔も知らない“親戚たち”。
『よくもまあ…』
『育ててもらった恩も忘れて……』
『だから言ったじゃん。親がいない子供は…』
『妹さんも、可哀そうに………』
紫雨は部屋に逃げた。
伯母が何百回も忍び込んだ部屋に逃げ込んで、伯母が何百回も自分を犯したベッドの上に突っ伏した。
「本当なの?」
当時妹は中学3年生で、高校受験を控えていた。
何と言えば彼女に与えるショックを最小限にできるかわからなかった。
しかし年頃になってからほとんど話さなくなってきた自分よりも、本当の母娘同然に仲良くしていた伯母の方が大切なのは、確かな気がした。
「なんだよお前まで。おっかないなぁ」
紫雨は起き上がり、涙目でこちらを見据える妹に笑いながら言った。
「だってあのババア、嫌だって言わねぇんだもん」
「その後俺は、伯母の兄である伯父に、高校を出たら家を出ていくという約束の元1年間育てられた。妹は伯母のところに残ったけど、全寮制の看護科がある高校に進んだ」
そこまで話すと、足を組みかえながら林を見上げた。
「え、何でお前泣いてんの?」
林は涙で滲む目を、左右の腕で交互に擦りながら、ハンドルを握りしめていた。
「その頃の紫雨さんに会って、助けてあげたい…」
「お前その頃、ランドセル背負った10歳の小学生だぞ…?」
紫雨はプププと笑った。
「いーんだよ、もう終わったことだ」
紫雨は前方を見ながら小さく息をついた。
「終わりにすることにしたんだ……」
「特別養護老人ホーム?」
林はそのピンク色の建物を見上げた。
「そ。伯母はさ、妊娠騒動辺りから認知症だったんだよ。若年性アルツハイマーってやつを発症しててさ。これまでは有料老人ホームにいたんだけど、半年前にここの特養に移ったんだと」
「それは誰から?」
「親戚の一人。そんでさ。笑っちゃうことに今、子宮に腫瘍があるんだと。世話になったんだからって俺にも金を払えとせびりに来たんだよ。そんときは一銭も払わねえって突っぱねたんだけどな」
言いながら紫雨は、今朝林から受け取ったそれを目の高さに掲げて見せた。
「この“はした金”を手切れ金としてあいつに入金する。それできれいさっぱり、あのババアとの縁を切ってやる」
「……………」
林は紫雨を不安そうに見つめた。
「これが、俺の“負けるが勝ち”だ」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!