午後に来た客は、30代の夫婦だった。
渡辺は打ち合わせで不在だ。
事務所で自分のデスクに腕組みをしながら座っていた篠崎が、由樹に顎でしゃくり、由樹は気合い十分、事務所から飛び出した。
「展示場、見せていただいてもいいですか?」
眼鏡の奥の丸い目が由樹を見つめる。
「はい、もちろんです。どうぞ」
言いながらスリッパを2つ並べる。
「……スリッパ、どうもっ!」
変な間が開く。
(ん?なんだ??)
違和感を覚え、夫人を見ると、彼女はまだ首も据わっていないような赤ん坊を抱っこし、こちらと目も合わせようとしない。
(???)
由樹は少し面食らいながら夫婦を招き入れた。
主人は「あー、なるほど。ふんふん」と言いながらリビングに入っていく。
妻もきょろきょろ見るわけでもなくただ主人についていく。
(うう。スピードが速い)
由樹は慌てて2人の後を追いかけた。
「わあ、広いですね」
LDKを見て、主人が少し大げさとも思える声を出した。
「そうですね。面積も広いですが、天井が高いので、そう感じるのかもしれませんね」
世間話の中で、さらっとセゾンの特徴も掲示する。これも篠崎から習った技だった。
「ね。265cmでしたっけ」
「あ、はい、その通りです」
「このタイプはセゾンFですよね。床はダークオールド。建具はブラウンオールド」
「!」
由樹は狐につままれたような気になった。
(……これは……)
「いや、驚かせたならすみません。でも、僕たちもうネットでいろいろ見て、セゾンさんに決めてるんです」
「え……」
「すでに県内の三つの銀行さんで、住宅ローンの仮審査も済んでいます」
言いながら仮審査の用紙まで定時して見せる。
指導の中で篠崎が言っていた。
「家というのは、3つの条件が全て揃わないと決まらない。1つは土地、次に金、最後にやる気だ」
(ぜ、全部揃ってる)
由樹はすでに後光が差して見えるこの若い夫婦を見つめた。
(もしかして、これって初受注?!)
由樹の体に熱い血液とアドレナリンが回り始めた。
主人はおもむろに手提げの中から、紙を取り出すと、一気に話し出した。
「うちは両親から分筆してもらった土地の形が特殊なので、建てられる間取りが限られています。これが一年前から僕が考えた間取りです。これと一寸たりとも狂わせずに、38坪、Sタイプで建てていただきたい」
「…………」
間取りを見る限り、導線が良くない。窓も偏っていて、外観も悪そうだ。ここは相談の余地があるが、設計士の腕の見せ所であるはずだ。
まずは広さと支払い方法がある程度決まっているなら契約を……。
「僕たちには4ヶ月前に赤ちゃんが生まれたばかりなんですけど」
夫が少しだけ照れくさそうに頭を掻く。
「実はすでにもう一人、お腹に宿ってまして……」
由樹が振り返ると、夫人はお愛想程度に由樹に笑顔を向けた。
「それはそれは。おめでとうございます」
頭を下げると、二人は顔を見合わせた。
「それで、できれば、2人目が生まれる前に引き渡しとか、は可能でしょうか。予定は8ヶ月後とかなんですけど…」
由樹は頭の中で計算し出した。
本来であれば、間取り、電気配線、インテリア全ての打ち合わせに3ヶ月、材料加工に2ヶ月、基礎着工に1ヶ月、引き渡しまで3ヶ月の計9カ月は最低でもかかる。
しかし今回の場合は、分筆した土地ということで、建物の解体もなく、間取りの打ち合わせもある程度スムーズだと考えれば、間に合わなくは…ない。
「可能だと思いますよ。ただし、本当に今の今すぐ、契約すれば、ですけれども」
言うと二人は顔を見合わせた。
由樹は胸ポケットから、1枚目となる名刺を取り出した。
と、そのとき、主人がその手を制した。
「じゃあ、店長さんを呼んでいただいていいですか?」
「……店長…。あ、マネージャーのことですか?」
「あ、ここではそう言う呼び方をされるんですか?とりあえずこの展示場で、一番偉い営業さんとお話がしたい」
「……えっと」
由樹が困惑していると、主人はにこやかに由樹に向かって言い放った。
「僕たち、家を買うなら、経験も実力もある店長さんから買おうって決めてたんで」
その眼鏡の奥の瞳は、笑っていなかった。
打ち合わせルームに入った夫婦から笑い声が聞こえてくる。
由樹にはつんけんしていた夫人も、相手が篠崎となると、ニコニコと微笑んでいる。
「まあ、正論だよね」
由樹は無人の事務所でモニターを睨みながら呟いた。
「俺が客でも、そうするわ」
言いながらデスクに頬杖をつく。
“俺が客なら、俺から買う”
(これって相当難しいことなんじゃ……)
デスクに突っ伏したところで―――。
自動ドアの開閉を告げるチャイムが鳴った。
慌てて顔を上げ、篠崎のデスクにあったリモコンで玄関に表示を合わせた、その瞬間。
「ひいいい!!」
由樹はモニターを見て悲鳴を上げた。
そこには顔に影のかかった髪の長い女が、ちょうどカメラのある天井を、まっすぐ見上げるように棒立ちで立っていた。
渡辺は打ち合わせ、篠崎も商談に入ってしまった。
もう一度モニターを見つめる。
痩せこけた頬、青い顔色。
長袖にロングスカート。長い髪を束ねもせずに垂らしている。
監視カメラの位置を知ってか知らずか、こちらをまっすぐに見つめる瞳に鳥肌を立てながら、仕方なく由樹は事務所から飛び出した。
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