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(……よかった。足はある。とりあえず…)
由樹はそのロングスカートから覗く細い足首を見ながら、玄関に駆け寄った。
「上がってもいいですか?」
「もちろんです、どうぞ」
言いながらスリッパを一組出す。念のため自動ドアの外も見てみるが、同席する家族はいないようだ。
一人きりで框に上がり、スリッパをはいた女は、吹き抜けの天井を見た。
「素敵ねえ」
呟いた言葉とは裏腹に、その顔は沈んだままだった。
やはり頬がこけるほど痩せている。
年齢はぱっと見50歳くらいに見えるが、もしかしたらもっと若いのかもしれない。
ひどく疲れた様子で、それ以上言葉を発するのも億劫なようだ。
なかなかリビングの方へ歩き出そうとしない。
だからといって和室の方に興味がありそうでもない。
「……あの、今日はどうされたんですか?」
思わず呟いてから、しまったと由樹は口を塞いだ。
(展示場見に来てるのに、「どうされた」も何もないだろっ!)
言われた彼女は、少し俯き加減に階段の壁を眺めている。
(やばい、これ、ショックを受けてる?それともお、怒ってるとか…?)
「……お、お客様?」
恐る恐る覗き込むと、彼女は、90度首を横に向けて由樹を振り返った。
「……ひっ!」
思わず仰け反りそうになった由樹の肩を女が掴む。
「話、聞いてくれます?」
「ははははは話、ですか?!」
由樹はやっとのことで聞き返した。
「そう。話」
(怪談話?オカルト話?)
「き、き、聞きます!!」
由樹は小刻みに頷いた。
すると彼女は満足したように一度頷き、和室の方へフラフラと歩いていくと、ことわりもせず、掘り炬燵に座り、テーブルの上に手をついた。
由樹は仕方なく、その正面に腰を下ろした。
「………あれ?」
初夏の陽気が爽やかな日であるはずなのに、和室だけ妙に暗くなった気がして、思わず由樹は照明がついていることを確認せずにはいられなかった。
「…………なに?」
由樹の視線につられるように顔を上げた女の目が、和室用ダウンライトの光に照らされて、キラリと光る。
「!!いえ、何でもありません!」
慌てて言うと、彼女はふうっとため息をついた。
少し前傾姿勢で、長い髪の影で表情を隠したまま、某怪談家のごとく、静かに話し始めた。
「実は元主人の暴力が原因で、今年の春に離婚したばかりなんです」
いきなり底につくほどの重い話に、由樹は瞬きを繰り返した。
「ご、ご主人様の……?」
「元、主人です」
カッと見開いた目に由樹は「失礼しました」と即座に頭を下げた。
「……当時はもう、私、逃げることに必死で」
言いながら今度は顔を痩せこけた両手で覆い、荒く呼吸を繰り返している。
「今思えば証拠は揃ってるんだから、ちゃんと刑事なり民事なりで訴えて、貰えるもの貰っとけばよかったと思って」
「はあ、なるほど…」
(……えっと、ここ、精神病院でも、弁護士事務所でもないんですけど……)
急に顔を上げたかと思うと、彼女は、保育園で使うようなキルティング生地で出来た手提げ袋から、何やらファイルを取り出した。
「左大腿部裂傷、右肋骨剥離骨折、右下肢打撲、右前頭部裂傷、頚椎捻挫」
突然指を折り、穏やかじゃない単語を発し始めた彼女を、由樹は目を丸くして見守っていた。
「えっと………?」
「私が元夫に受けた暴力です」
列挙した通りの“負傷名”が入った、医師の診断書が、松竹梅が彫られた黒檀のテーブルに並んでいく。
(ここで広げられても……)
商談が終わったらしい先ほどの夫婦が、篠崎の案内の元、和室に入ってきた。
「やっぱり襖には柄があったほうが素敵ですよねえ?篠崎さん?」
先ほどと同じ女性だとは思えないほど、夫人が華やいだ声を出している。
「いや、僕はね、シンプルなのが好きなんだよ。柄が多いとどうしても狭く見えるじゃないですか。ね、篠崎さん」
主人も嬉しそうに篠崎を振り返る。
「やはりバランスですよね」
篠崎が上品に微笑みを返しながらながら言う。
「畳が江戸間か京間かというのでも違いますし。最近は琉球畳といって半畳縁なしの畳も人気なんですよ。
従来のイグサの若草色だけではなく、シックなグレーや、ライトなイエローなんかもお選びいただけるので、和室に合わせて、柄物や色物を取り入れても素敵かと思います」
二人が感心して頷いている。
「……夫はもともと亭主関白なところがあったんですけど、それがだんだん支配的になっていって。そう単身赴任だったんですよもともとは。それで帰ってきた途端、娘の教育がなってない!すべてお前の責任だ!と怒鳴られ、そのうちに手も出るようになって、それで……」
あちらの会話が盛り上がってくれていて助かった。
少しでも沈黙があれば、どのワードを拾っても穏やかじゃないこちらの話に、一世一代の買い物を契約して、ほくほくと盛り上がっているご夫婦を凍り付けさせるところだった。
由樹は篠崎とご夫婦に聞こえないように、少し前かがみになって彼女に聞いた。
「娘さんがいらっしゃるんですか?」
「ええ。娘が。いえ、息子も」
「ということは、お子さんは、お二人ですか?」
「でも息子は、もういないんです」
「もう……いない?」
「はい」
そこであふれ出る言葉は、突然止まってしまった。
「………そうですね、実例写真を参考にいろいろ見てから決めていただいて大丈夫ですよ。
間取りはある程度早く決めないと工期に関わりますが、デザイン的なところはまだまだ時間がありますので」
夫婦に向けてにこやかに話していた篠崎の視線が、黙ってしまった彼女と、どうしていいかわからずに覗き込む由樹に注がれる。
夫婦は満足したように、篠崎に一礼すると、「じゃあ、設計士さんが決まったら連絡ください。県庁は6時で終わるので、6時半以降ならいつでも来れますから」
と微笑んだ。
(……県庁職員か。やっぱりな)
ご主人の几帳面そうな、それでいて自分に自信のありそうな物腰と目つきを見て、公務員だろうとは思った。
(県職員、30代で年収はまあ安く見積もって600万円。土地まで持ってるとくれば、そりゃあどの銀行も諸手上げて仮審査通すよな)
ぼーっと彼らの後ろ姿を見ていると、目の前の彼女はやっと口を開いた。
「息子は、死んだものと思っているので」
(何を言い出したんだ…この人は)
由樹は視線を彼女に戻し、小さくため息をついた。
この目の前の女性は、きっと家を建てない。
いや、建てられない。
でも……何かを求めてこの展示場に来ている。
『話を聞く、聞き切る』
篠崎の言葉が脳裏に浮かぶ。
(よし。とことん話を聞き切ってみせようじゃないか!)
由樹は掘り炬燵に下ろしていた足を上げ、正座に直すと、彼女が並べた診断書を丁寧に一つにまとめた。
そして俯く彼女に向き直ると、
「詳しく伺ってもよろしいですか?」
穏やかに微笑んだ。