* * *
――――ご主人さま、行ってらっしゃいませ。
――――あぁ、行ってくる。
(初冬の日、ご主人さまは出立なされました)
その日の夜のこと。
フェリシアは廊下で、ご主人、と言いかけ、口ごもる。
いけない。
(ご主人様がいないのに、寝る前にこの場所でよく話していたせいで、呼びそうになってしまった)
(最近はおやすみの挨拶もして……)
そんな廊下での些細なエルバートとの日常を思い出し、
フェリシアは急に寂しさが込み上げ、自分の部屋まで駆けて行く。
そして扉を閉め、床に座り込む。
大粒の涙があふれ出て、止まらない。
寂しく、誰かを想い、泣いたのは両親が亡くなったと分かった時以来。
「戻ってきたご主人さまと……幸せになりたい……」
そう、口に出した自分に驚く。
エルバートに向ける好きの感情は分かっていたけれど、それだけでなく、
(わたし、ご主人さまの花嫁になって、幸せになりたいのだわ)
今までも十分、幸せな生活を送らせてもらってきた。
正式な花嫁候補にもなれたのに、
自分はなんて欲深いのだろう。
けれどもう、想いを止められそうにない。
(わたし、ご主人さまに無事に戻ってきて欲しい)
だから、自分には、なんの力もないけれど、
幸いここへ訪れる初日にミサの為のショートベールは被り持ってきた。
その為、教会に行くことは出来る。
フェリシアは大粒の涙を右手で拭う。
(明日から教会に毎日通い、ご主人さまの無事を祈ろう。想いはきっと届くはず)
* * *
そう強く決意し、翌日の朝。
「あの、リリーシャさん、近くに教会はありますでしょうか?」
ブラン公爵邸の台所でリリーシャに尋ねる。
「はい、歩いて行ける距離にあります」
「なら、今日から教会に毎日通いたいです」
意を決して伝えると、リリーシャは困った顔を浮かべる。
「お気持ちは分かりますが、フェリシア様を外に出す訳にはまいりません」
「そこをなんとか、お願いします」
フェリシアは深々と頭を下げる。
するとリリーシャがふぅ、と息を吐くのが分かった。
(やっぱり、こんな身勝手なこと、許されるはずがないわ……)
「フェリシア様、頭をお上げ下さい」
フェリシアはリリーシャに言われた通り、頭を上げる。
「私、一人の独断では決められません」
「ラズール達にも相談してみましょう」
「リリーシャさん、ありがとうございます」
お礼を言った後、
リリーシャと共に居間へ移動し、
リリーシャが居間にラズールとクォーツを呼び、フェリシアは、ふたりにもお願いをして頭を下げた。
すると、ラズールが、自分は家令である為、家を守らねばならず、リリーシャはエルバート以外の料理を任されている身であること、
そしてリリーシャとふたり、女性のみで行かせるのも危ないとのことで、クォーツを護衛に付け、
今日から近くの教会に毎日通うことを許された。
そしてフェリシアとクォーツは準備を整え、
玄関でリリーシャとラズールに見送られ、
ベルトを肩にかけ、弓矢を背負ったクォーツと共にブラン公爵邸を出て、森の中へと入って行く。
歩みを進める度、クォーツの三つ編みと共に紐の丸く透明な宝石がいくつも煌き、かすかに揺れ動く。
「クォーツさん、あの、庭師でお忙しいのに護衛に付いて下さり、ありがとうございます」
「いえ、エルバート様に頼まれておりますので」
やがて、森を抜け、道に出ると、緩い坂になっていた。
クォーツが言うにはこの先に教会があるらしく、
坂で危ないと、自分を気遣って手を差し出してくれた。
けれど、自分で上がらないとだめだと断り、クォーツと並んだ状態で緩い坂を上がり始める。
教会に近づくにつれて気持ちが浄化されていくかのよう。
「フェリシア様、ここが教会でございます」
クォーツが門の短い階段前でそう言った。
教会は全体的に白く、雪のようで、
ボロ家の近くにあった教会よりも大きく、
美しさも息を呑むくらい程までに美しく、身が竦(すく)む。
「フェリシア様、大丈夫かい?」
(クォーツさんに護衛だけでも迷惑を掛けているのに、心配までさせている。しっかりしなくては)
「大丈夫です」
「では参りましょう」
クォーツと共に短い階段を上がり、門を抜け、扉前に着き、クォーツが扉を開ける。
中も白くて広く、また身が竦みそうになるも、足を踏み入れると、クォーツも中に入る。
すると高貴な司祭が近づいて来て、クォーツが事情を説明し、
毎日教会で祈る許可を得たフェリシアは司祭が神にその皆を告げた後、教会の祭壇の前まで歩いていき、跪く。
そして両指を絡め、両目を閉じ、神に祈る。
(どうか、ご主人さまの命をお守りください)
* * *
こうして、フェリシアはエルバートの無事を教会で祈り続け、2週間が経った頃。
「フェリシア様!」
部屋の扉の前からリリーシャの呼ぶ声が聞こえ、フェリシアは扉を開ける。
「リリーシャさん、早朝からどうしたのですか?」
「エルバート様からお手紙が!」
リリーシャはそう言い、フェリシアに手紙を手渡す。
月の紋章の刻印に、
高級感のある薔薇の絵柄。
(間違いなく、ご主人様からだわ)
まさか手紙が届くとは思わず、驚くも、部屋で読むとリリーシャに告げ、
リリーシャが扉を閉めると、封を開けて手紙を取り出し、読み始める。
フェリシア、まだ帰れず、すまない。
私は無事だ。
お前が焼いてくれたパンを少しずつ食べ、
毎晩、お前の無事を祈り、月を眺めている。
そんな短い内容の手紙だった。
けれど、無事だと分かっただけで涙があふれた。
その後、フェリシアは返事を書き、リリーシャに手渡すと、
この日の晩から月を中庭で眺めるようになった。
(ご主人さま、どうか、ご無事でいて)
* * *
帝都郊外の森からエルバートも想いを今宵の月にのせる。
美しい銀の長髪が夜風で靡く。
(フェリシア、どうか、無事でいてくれ)
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