次の日。
紫雨は展示場の掃除が終わると自席に座り、曇りガラスのため見えるはずもない窓の外を眺めていた。
昨日の新谷の反応が、言葉が、一晩経っても腹に落とし込めないでいた。
(……なんなの、あいつ。キモいんだけど)
本当は嫌なのに、
本当は篠崎マネージャーが好きなのに、
それでも感じてしまう自分に涙する新谷を、しつこく犯してやりたかったのに。
気持ちに反して絶頂に達した時の、悔し涙が見たかったのに。
『そんなの、あんたに失礼だから、俺は嫌だ!!』
前髪から水滴を滴らせながら、こちらを睨んでいた彼の表情を思い出す。
(おかしいだろ。……頭温かい奴なのかな)
事務所のドアが開いた。
「おはようございます!!失礼します!」
その声に、紫雨は曇りガラスを睨んだままため息をついた。
(……やっぱりこいつ、イカれた奴なんだな)
「臭いは取れた?新谷君」
目の前の飯川がニヤニヤしながらそちらを向く。
「はい!おかげさまで!」
しかし元気よく返事されて、その笑顔は引きつった。
「紫雨リーダー!」
無駄に張り上げた声に、ため息をつきながら振り返る。
「昨日はありがとうございました!」
そこには昨日までと寸分も変わらない新谷の曇りなき顔があった。
(どの口が言うの、お礼とか。逆に怖いんだけど)
「えーと、何かしたっけ、俺」
そっけなく言うと、袋に入った新品のワイシャツを差し出してきた。
「これ、かわりにお返しします!」
(あー、ワイシャツ?いいのに別に。つーか、君の血で汚れてなかった?あれ)
そう言えば、と思って彼の右手を見る。
大層な包帯を手首から親指に掛けて巻いていた。
昨日、篠崎が現れ、バレないように慌てて手錠から無理矢理引き抜いたため、手の皮が剥がれたのだ。
シリコン製で多少伸縮するとはいえ、女物の手錠は、抜くのにさぞきつかっただろう。
今朝掃除の前にカッターで切って回収したが、思ったよりも確かに硬かった。
(そんな怪我負わせた俺にお礼とか、よく言えるな……)
呆れながらそれを受け取る。
「別によかったのに。あんなの貰い物だから。このためにわざわざ天賀谷まで来たの?」
言いながらデスクの端にそれを投げると、新谷は顔を上げた。
「実は、ご報告がありまして」
(報告だぁ?そんなの上司の篠崎さんにしとけよ。なんで俺に言いに来んだよ)
新谷を見ているとイライラする。
逃げ道のないように、外堀から固めて、閉じ込めているつもりなのに、自分の考え及ばない裏道や抜け口を、ひょいひょいと逃げていくような、つかみどころのない彼に。
「あの、昨日のお客様ですけど」
「うん」
「実は……構造見学のアポ、ご両親も誘いまして」
「だからーその客なら断れって言っ……。は?今なんて?」
思わず二度見する。
「ですから、ご両親も誘ったんです。構造見学!」
(……駆け落ち同然で飛び出して、縁の切れた両親も、だと?)
「実は、話を聞いているときに違和感があって。
家を出た割に、前と同じ会社に勤めているし、市内に住んでるし、別に隠れているそぶりもないし。
両親は両親で、それを知っていながら娘を連れ戻したり、勘当宣言しようとしないし。
もしかしてこの両組は、きっかけさえあれば、また家族に戻れるんじゃないかなって」
「………」
「まあ、ダメ元でしたが、今でゼロだから、これ以上悪くなることはないんじゃないですかってお2人を説得して」
(……昨日モニターを切ってからそんな話をしていたのか……)
「今日の朝イチで旦那さんと共に、奥さんの実家に行ってきたんです」
「……構造見学会の誘いに?」
「あ、はい。お父さんの会社が大きな木材加工会社だそうなので、お父さんの意見も伺いたいとの名目のもとに……」
(……なんだそれ。頭ん中、お花畑かよ…)
「それで?」
「相当、怒られました」
(当たり前だろ、そんなの)
「でも最後には、“行けたらな”との言葉をいただきました」
(……いやいや、それって)
「正直、その返答じゃ、五分五分だと思っています」
(わかってんじゃん)
「五分五分で、来てくれると思っています」
(……あくまで前向きなわけね)
「篠崎マネージャーにも相談し、アポ継続の許可をいただきました。だから今日はそれのご報告と、お願いに」
「……お願い?別に俺の許可なんて要らねぇんじゃないの?」
目を逸らしてシステムを起動すると、
「あ、これです!!」
言いながら彼は、ずいと顔を寄せ包帯が巻かれた手で紫雨のマウスを奪った。
「あ、お、おい…?」
「これこれ!この現場!!」
システムの【建築中】にカーソルを合わせ、紫雨の現場を一覧で開くと、そのうちの一つをダブルクリックした。
「この家!先日上棟したばかりの現場ですよね!お客様が求める家の間取りに近いので、ぜひ見せていただきたいんです!」
紫雨は腹の底からため息をついた。
何か楽しくて、今一番ムカついている後輩のために、自分の大事な客の現場を見せてやらなきゃいけないのか。
「紫雨リーダーも、昨日、構造見学会のアポ、とってましたよね!この現場見せるんでしょう?」
「………」
全然考えていなかった。
昨日の夜からずっとこの未知の生物について思いを巡らせていたためだ。
「お客様に俺のことも、頼んでもらえないですか?必要であればご挨拶に行くんで!」
鼻息荒く迫ってくる新谷を睨み、紫雨は視線を外した。
「いくら客の家とはいえ、引き渡しまでは所有権はうちの会社にある。それは契約時に客にも話してある。別に断らなくていいよ。俺にも客にも。ただし、現場監督の工事課にだけは言っといて。前日のうちに掃除しといてくれるから」
「掃除、ですか?」
「現場っつーのは普段は木屑で汚いの。それに大工によっては工具が転がってたり、コンセントからの線が絡んで入り乱れてたり。だから掃除してもらった方がいいよ」
(……しまった。秋山さんもいないのに、こんなアドバイスをしてやる義理なんてないのに)
しかし……。
「……そんなの悪いんで、俺、自分で掃除しに行きますよ!」
「……あっそ」
どうやらそのアドバイスも無駄になったようだ。
紫雨はうんざりして新谷を見上げた。
「どうぞどうぞ、ご勝手に」
言うと新谷はまっすぐこちらを見つめて、頭を下げた。
「ありがとうございます!」
言うなり、ポケットから何かを取り出した。
「あ、あと、これ、篠崎マネージャーからです。“意味がわからなかった”とのことです」
「…………」
それは金色の鍵だった。
ブッと斜め向かいに座っていた林が飲んでいたコーヒーを吹き出した。
(……ああ、そういえばあいつに使ったこともあったっけか)
黙ってそれを受け取ると、新谷はこちらを見下ろした。
「それとも今後のために、それ、俺が預かってたほうがいいですかね」
(こいつ……!)
紫雨はひじ掛けに左腕を置いて、新谷を睨み上げた。
「必要ないんじゃない?俺、つまんないおもちゃはすぐに飽きるたちだからさ」
「わかりました!ありがとうございました!」
言うと、新谷は唇を引き締め、もう一度礼を言って踵を返した。
飯川と林がその後ろ姿と紫雨を交互に見る。
(……可愛げのない奴)
紫雨はそのまま頬杖をついて、事務所から出ていく彼を見送った。
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