昨日も一昨日も、夢は同じだった。きっと今夜も変わらずにあの夢を見るだろう。そう思っていた、いやそう思わなかった日は一日もない。しかし今日はいつもと違っていた。
私の感知できる範囲に、人のような生命反応があるのだ。昔も同じような出来事があった。最初は驚いたが、今回は二度目だ。もう焦ることはない。どうせ、前回のように何もしてこないに決まっている。そう思いながらも、久しぶりの来客に内心ではわずかな高揚を抑えきれなかった。ゆっくりと近づいてくるその生命反応は、私の前で止まると感動したかのように息を漏らした。
「つ……………たぞ…!」
くぐもっていてはっきりとは聞こえないが、年老いた声だった。しょうがないので片目だけ開けて様子を見よう。前回は両目開けたら驚かれて逃げられてしまったのだ。目を開けると困るのは生命反応の感知が鈍ることくらいだろう。
そっと右目を開けるとおじいさんは本をじっと見ていた。髪は黒く、もみあげに向かって少しずつ白くなっている。下がった口角と深く刻まれた眉間のシワが気難しそうな性格を物語っている。私がおじいさんをまじまじと見ていると、彼は視線に気づいたのかこちらに目を向けた。
「…ま………て……!」
ほとんど聞こえなかったが、”助けてやる”と聞こえた気がした。私はどうやら閉じ込められているみたいだ。よく見ると四角柱の魔力の壁でできた空間に謎の透明な液体で満たされている部屋に私はいた。どうやって息していたんだろう。そんなことを考えているとおじいさんはさっき読んでいたものとは別の本を片手で開き、壁に手をあてて言い放った。
『-空間解錠《アンロック》-』
壁が粒子となって散っていくと同時に透明な液体も外に流れ出ていく。ただ私は息できるかだけが心配だった。
―夜住〈YASUMI〉が刻宵〈KOKUYOU〉の空間を解錠しました―
液体がすべて流れ出たのを確認し、私はおそるおそる息を吸った。よかった、なぜか液体に浸かっていたときと同じ感覚だ。感動していると、おじいさんが声をかけてきた。
「お嬢さん、名前は?」
分からない、と言いたかったが声が出なかった。当たり前だ。記憶のある限りだとまだ言葉を発したことがないのだから。とりあえず首を横に振り、口をパクパクさせていると状況を察したかのようだった。
「まあいい、今日から私の家に住みなさい。何歳だ?読み書きはできるか?」
意識が戻ってから何年くらい経っただろう。私は手でなんとなく四を作り、首を横に振る。
「じゃあ今日が誕生日でお前は今日から五歳だ。読み書きは私がすべて教える。わかったな。」
色々と言いたいことがあるが言葉に発せず、悶々としているとおじいさんが手を差し出してきた。
「一緒に行くぞ。私は黒瀬 夜住〈くろせ やすみ〉。そうだな、お嬢さんの名前は…」
私は夜住の手に触れようとした瞬間、彼の指先が弾き返された。困惑して自分の手を見つめていると夜住は感心していた。
「珍しい才をもっているようだ。守る能力か…今日からお嬢さんの名は守能〈もの〉だ。私が覚えやすいからな。」
そう言うと夜住は振り返り、ゆっくりと建物の出口に向かって歩き出した。私もおいていかれないように夜住についていく。
私は建物を出て、外の世界に足を踏み出した。目の前には、一切手入れされていない荒れた庭が広がっている。少しぬかるんだ地面には、来たときに残したのだろう夜住の足跡だけが続いていた。夜住は私が建物から出てきたのを確認すると、戸惑う様子もなく泥道に足を踏み入れた。裸足でここを歩くのか。私が泥道を前に立ち尽くしていると、夜住はふと立ち止まり、静かに本を開いて魔法を唱えた。
『-浮宙《レヴィテイト》-』
浮遊魔法だろうか。しかしその魔法は私の防御スキルによって弾かれてしまった。夜住はわずかに目を見開き、私をじっと見つめたが、納得したかのように口を開いた。
「魔法も効かないとなると、ただの防御スキルではなさそうだ。しょうがない。歩いてきなさい。」
嘘でしょ…。自分の力なのに制御できないこのスキルを恨みながら、私は裸足のまま、思いっきり泥道に飛び込んだ。指と指の隙間に泥が入る感覚が気持ち悪かったが、どこか新鮮で心地よかった。
閉じ込められていた建物から出て、一時間ほどが過ぎたころ。小綺麗なお屋敷の前にたどり着いた。どうやらここが夜住の家らしい。乾燥した泥の足で中に入ると女の人が玄関で待っていた。
「お待ちしておりました、旦那様。」
「たった今帰ったよ、由平〈ゆひら〉。」
由平はいわゆるお世話係と呼ばれる人だろうか。ダークブラウンの長い髪を三つ編みにして束ねた、愛嬌のある可愛いらしい顔立ちの人だ。落ち着いた低めの声がどこか安心感を漂わせ、見た目とのギャップを際立たせている。
「旦那様、こちらのお客様は…?」
「森で拾ってきた。今日からこの家で暮らすことになった守能だ。部屋は……」
二人が話しているすきに、家の中をゆっくりと見渡す。外観から内装まで黒で統一された美しい家だ。だが、老人が住むには心が落ち着かない気がした。
「…ああ、今夜までに頼む。あと、特別な防御スキルを使うから触れないように。」
夜住は話終えると靴を脱ぎ、玄関の中央にある階段を昇ってどこかに行ってしまった。部屋の扉が閉まる音がすると由平は、私と同じくらいの高さまでしゃがみ、にっこり笑って話しかけてくれた。
「はじめまして、守能様。私は霞原 由平〈かすみはら ゆひら〉と申します。ただいま足湯をご用意しますので少々お待ちください。」
由平が足湯の準備に行っている間に、私は発声を試みた。
「…あー…。あー、…あー。」
よかった。まったく声が出ないわけではないようだ。けれど声に力がこもっておらず、弱々しく感じた。
「わたし…は、わたしは、もの…。わたしは…」
「姿勢を正しく、お腹に力を入れて声を出してみてください。息を深く吸って、吐くと同時に声を出すといいですよ。」
お湯の入った桶とスポンジを持った由平がいつのまにか目の前にいた。気づかないほど、夢中になっていたようだ。由平に言われたことを踏まえ、もう一度声を出してみる。
「わたしはもの。たんじょうびはきょう。ごさいになった。」
うまく言えた。これなら簡単な会話はできそうだ。私はスポンジで泥のついた足を丁寧に洗い落とし、由平に声をかけた。
「このいえ、あんないして。」
この家は思っていたより狭いようだ。二階は左から書斎、トイレ、夜住の部屋になっている。一階は大きな階段を囲むように部屋があり左から、由平の部屋、倉庫、空室、トイレ、空室、私の部屋、浴室、リビングの順になっている。由平は案内を一通り終えると、私の部屋の掃除や家具の配置換えを手伝ってくれた。
「ゆひらはいつからここで、はたらいているの?」
「私は魔導学園サース校を卒業したあと、この家に来ました。卒業したのは十六歳の時なので、六年は経ちますね」
「がくえんってなに?」
由平は学園について簡単に説明してくれた。
学園は学ぶ八年、競う四年、突き詰める四年に分かれている。学ぶ八年では北と南に分かれた魔導学園に通い、基礎を覚えながら自分と相性のいいスキルを磨く。競う四年では魔導界の中央に位置する魔導高等学園で、戦う魔導術の指導や実技試験を行い、他者よりも自分が優れていることを証明する。突き詰める四年では、中央学園に在籍し、選ばれたエリートの中で四年間戦い抜き首席を決める。そして…
「なんと首席になると…!」
「しゅせきになると?」
ワクワクしながら由平の言葉を待っていると、遠くの方から十九時を告げる鐘が聞こえた。
「今日の話はここまでです。守能様は今日はもうおやすみになってください。続きはまた今度にしましょう。」
由平はそっと部屋の明かりを暗くすると、静かに部屋を出ていった。暗い部屋の窓から外を覗くと、木々の隙間から僅かな光が漏れている。向こうには何があるのだろうか。私は明日から始まる生活に、言い知れぬ高揚感を抱き、ゆっくりと眠りについた。
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