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◆◆◆◆◆
タクシーで宿泊施設の前まで送ってもらう途中、古めかしいセダンとすれ違った。
その直後、そのセダンが砂埃を上げながらUターンしたのには、気づかなかった。
「……じゃ、前日に迎えに来るからね」
駐車場にタクシーを停めると、母は微笑んだ。
「その時は若林さんも一緒だから。失礼のないようにね?」
「……うん」
漣は小さく頷くと、顎の横で小さく手を振る母親に、弱く手を振り返した。
タクシーが遠ざかっていく。
(……ダメだ。もう、終わりだ)
音にならないその言葉が、黒く影のようになって見える山々に反響して聞こえる。
タクシーのバックライトが消えていった先から、ヘッドライトが輝く。
その車は真正面から漣を照らした。
「……あ」
瞬間的に「轢かれる」と思った。
瞬間的に「それでもいいや」と思った。
しかしその車は滑り込むように漣の隣に停まった。
闇を照らし出すヘッドライトが眩しくて、陰になったその顔は良く見えなかった。
しかし……
今、一番聞きたい声が聞こえた。
漣は無言でその影に抱きついた。
「心配しただろうが!!」
久次は漣を助手席に乗せると、こちらを睨んだ。
「ごめん……」
「財布もないのに、なんでタクシーになんか乗ったんだ?」
ハンドルを殴るように掴みながら久次が車を駐車場にバックさせる。
(……先生は、母さんの顔を見なかったのだろうか)
漣がきょとんと見つめていると、久次は眉間に皺を寄せながら言った。
「……ここから逃げ出そうと思ったのか?」
低くて凛とした声が、耳に響く。
「ちゃんと待ってろって言っただろ」
明らかに怒っている久次の顔が目の前に迫る。
「…………」
全て、話したとしても……。
彼にこの境遇は変えられない。
方法はたくさんあるのだろう。
漣を未成年とわかりつつ買ってきた生徒たちを訴える。
売春を斡旋し収入を得ていた谷原を訴える。
子供の売春を傍観していた母親を訴える。
でも。
そのすべてを自分は望まない。
母さんを犯罪者にすることなんてできない。
楓の生活を困窮させることなんてできない。
それなら。
いっそのこと………。
「外の空気を吸いたくなっちゃったんだ……。ごめんね!」
漣は笑った。
「母さんから、メールが来てさ」
「……何て」
久次はまた顔をしかめた。
「俺が嫌がることはしないって。養子にも行きたくないなら、行かなくていいってさ」
「……」
「俺の意思を尊重するって言ってくれた」
嘘は言っていない。
母は確かにそう言った。
それが本心ではなくても。
「だから俺。合宿終わったら家に帰るよ。大丈夫。母さんはわかってくれるから。だって……」
言いながら目の奥が痛くなってきた。
ダメだ。
堪えろ。
今泣いたら台無しだ。
漣は涙も熱も飲み込んで、言った。
「だって、俺の母親なんだからさ!」
********************
パン!!
8畳の和室は、その音でブルブルと震えた。
「………奥様。暴力はちょっと」
隣に座った乙竹が依頼主に対して小さな声で言う。
「あなた、何考えてるんですか?この子はまだ16歳なんですよ!?」
倒れた身体に食い掛るような母親の声が響く。
「こんな子供を性欲の対象にするなんて……頭がおかしいわ!しかも男性同士でなんて。おぞましい!!これは犯罪ですよ!わかってるんですか!!」
「お母さん!俺、本当に先生のことが……」
少年は必死で母親を止めようとする。
「黙りなさい!!あなたはわかってないのよ!!」
縋りつこうとする少年を、母親がふり払う。
「私は一番わかってるの!だって、あなたの母親なんだから!!」
先生……お母さんが……。ごめんね?
こっそり落ち合ったコミュニティセンターのピアノ室で、傷ついた顔にマキロンをしみ込ませたティッシュで拭く少年は泣いていた。
……先生。
俺、先生を犯罪者にできない。
でも先生と離れることもできない。
もう。
全部、終わりにしたい……。
********************
瑞野の顔を見て………。
泣くまいと堪えている充血した目を見て。
ひきつった口角を見て。
その言葉が嘘だと悟った。
しかし………
自分に何ができる。
これだけのことをやってのけただけあって、谷原の準備は周到で、その手口は巧妙だ。
ここ数日でそのことに気が付き、動き出した自分とは違う。
綿密に準備された計画。
精密に隠された証拠。
何もできない。
……俺は今回も、何もできないで終わるのか?
久次は苛立ちながら助手席に回り、ドアを開けた。
瑞野が少しおびえたような目でこちらを見上げる。
なんとかしなければ。
このままでいいはずがない。