「ええと。説明しなかった私も悪いんだが」
翌朝、エントランスホールに皆を並ばせた沖藤は振り返った。
「外出するときは私に断ってすること。あと、夕飯を食べたら、基本的に外は禁止だ。熊や猿が出る。いいな」
沖藤の言葉に、瑞野が俯きながら頷く。
「よし。じゃあ後はこの話は止めよう!」
沖藤はそう言うと、エントランスのドアを開けた。
「え、外に行くんですか?」
目を丸くした杉本に沖藤が笑う。
「今日の発声は外でやる」
「…………」
皆が顔を見合わせた。
駐車場に出ると、沖藤は自分の車のキーを開けた。
「すぐそこに山があるだろう。あの低い山」
そう言いながら、30メートルほど先にある小さな山を指さす。
「あそこに歌声が届けば合格。全員に自販機のアイスを買ってやろう」
「えー?」
皆が見上げる。
山まで距離はそこまでないが、その間には青空が広がっている。反響せずに音は空気に溶けていく。
「しかし僕は年々耳が遠くなってきているからな……。聞こえないかもしれん」
沖藤は笑った。
「えー、そんなのムリゲーじゃん」
「詐欺―!」
生徒たちも笑う。
「だから僕の耳になってくれる人を選ぼうかな」
沖藤は漣の肩を掴んだ。
「え」
「瑞野君にしよう。昨日心配かけた罰として」
「………」
沖藤は漣を助手席に押し込むと、久次に目配せをして皆に手を振って出発した。
「ちゃんと道路がある……」
漣がキョロキョロと山を眺めていると沖藤は笑った。
「こんな低い山でも子供や高齢者の立派なトレッキングコースなんだよ、ここは」
「へえ」
「朝の散歩に登って下りて30分かからない。でも……」
低い山の頂上まで出て、沖藤はドアを開けた。
「景色は、悪くない」
漣も助手席からドアを開けて、外を眺めた。
「わあ……」
そこには、大中小の山々が波打つようにそびえ立ち、朝日を浴びて濃い陰影を形成していた。
「遠くの山々が青く見えるだろう?」
沖藤が漣の脇に立つ。
「あれは、実は空気の色なんだ」
「空気の色?」
漣は沖藤を振り返った。
「空気というのはね、光の中でも青い色を良く跳ね返すんだよ。だから遠ければ遠いほど」
沖藤が見上げるのにつられ、漣も視線を上空へ移した。
「青い」
「……………」
吸い込まれそうな青い空を、漣は見つめた。
「もう少し空を見ていたかったが。気づかれたな」
沖藤は宿泊施設を見下ろした。
久次が両手を振っている。沖藤も手で丸を作って見せる。
当然前奏はない。
久次が調子笛を取り出し、皆が音程を確認している。
全員が久次の指を注目する。
『例えば君が傷ついて~♪』
歌が始まった。
「聞こえるもんだな……」
漣が思わず言うと、沖藤も「そうだろ」と呟いた。
「彼は……久次は……」
沖藤がゆっくりと話し出した。
「つい最近まで、笑えなかった」
「…………」
その言葉に漣は沖藤を振り返った。
「いつも何か耐えているような。怒りを抑え込んでいるような、苦しい顔をしていた」
「…………」
漣は思い出した。
古文の授業中、黒板を睨みながら、ひたすらにチョークで字を書いていたその顔を……。
「それが今、あんなふうに笑っている」
「…………」
漣も久次の顔を見下ろした。
「あれのことは幼少時代から知ってる。まっすぐで、生真面目で、融通が利かなくて。それでも情に厚く、良い奴だ」
「………」
(……俺も。俺もそう思う)
だから、中嶋が昨日話した内容はどうしても納得できない。
(この人になら……)
漣は沖藤を見つめた。
「先生が……久次先生が、生徒を襲ったという話は、本当ですか?」
「襲った?」
「その両親から訴えられたっていう話、本当ですか?」
「誰がそんな馬鹿なことを……!!」
沖藤の眼が大きく見開かれ、掴みかからんばかりに迫ってきた。
「東京に訪ねてきた弁護士がそう言ってたって、合唱部の奴が……」
その迫力につい中嶋の名前は隠した。
「乙竹か……。どこまでも下衆な野郎だ……!」
沖藤は苦虫を噛み潰したように顔を歪めながら、自分の車に拳を入れた。
「瑞野君。今日の午後の練習が終わったら、私の部屋に来てくれるか?」
「………え」
「全て話すよ。久次と、彼のことを……」
◆◆◆◆◆
(何だ?)
エントランスから沖藤と瑞野を見上げながら、久次は首を傾げた。
先ほどまで山や空を見ながらにこやかに話をしていた二人は、歌が始まったのと同時に何やら深刻そうな顔をし、沖藤は自分たちが乗ってきたセダンを叩いた。
車の調子でも悪くなったのだろうか。
しかしそれなら瑞野が笑っているはずだが……。
瑞野はまた沖藤と何か言葉を交わすと、大きく頷いた。
何の話をしているのだろう。
歌が終わる。
すると二人は揃って頭上で丸を作って微笑んだ。
「……………」
一瞬不穏な空気に感じたが、どうやら杞憂だったようだ。
そもそもあの二人の間で、何かが起こるわけはない。
久次は安堵のため息をついた。
再びセダンに乗り込む、漣の体を見上げる。
空の青さに溶けてしまうほどの小さな体を見つめる。
早く何とかしないと……。
でも自分に、彼が望む方法での解決する術はない。
(……やはり、これしかないのか)
久次は携帯電話を睨んだ。
◇◇◇◇◇
久次は荷物をまとめると、皆を振り返った。
「ちょっと東京で仕事をしてくる。いつ帰れるかわからないけど、前日には帰るから。お前たちはせっかくの沖藤先生に指導していただくんだから。手抜きしないで、全力で挑めよ!」
言うと生徒たちは笑顔で頷いた。
「お土産よろしく!久次先生!」
「馬鹿か」
久次が目を細める。
「……中嶋、頼むぞ!」
言うと中嶋も少し複雑そうな顔をしながらも頷いた。
久次は瑞野の前に立つと、彼を見下ろした。
「……な、何?」
瑞野が視線だけでこちらを見上げてくる。
「もう脱走するなよ」
「……わってるよ」
その柔らかい髪に触れる。
これでいいのか。
この決断で後悔はしないのか。
何度も何度も自問自答を繰り返す。
指先から、手のひらから、ホカホカと瑞野のぬくもりが伝わってくる。
ああ。これでいい。
この決断で、後悔はしない。
「……ちょっとぉ」
杉本が言う。
「ここの空気だけ特別なんですけど……」
久次は笑う皆を振り返った。
「…………」
これで最後だと思うと……。
今にも泣き出しそうだった。
◇◇◇◇◇
手配してもらったハイヤーに乗り込むと、久次は携帯電話を取り出した。
二度とかけることがないと思っていた電話番号。
向こうからかかってきたときに、間違っても出ないようにと電話帳に登録していたその番号。
大きく息を吸い込んでから、久次は通話ボタンを押した。
『……もしもし』
ワンコールも鳴らないうちに、相手は応じた。
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