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テラーノベルの小説コンテスト 第4回テノコン 2025年1月10日〜3月31日まで
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「ええと。説明しなかった私も悪いんだが」

翌朝、エントランスホールに皆を並ばせた沖藤は振り返った。

「外出するときは私に断ってすること。あと、夕飯を食べたら、基本的に外は禁止だ。熊や猿が出る。いいな」

沖藤の言葉に、瑞野が俯きながら頷く。

「よし。じゃあ後はこの話は止めよう!」

沖藤はそう言うと、エントランスのドアを開けた。

「え、外に行くんですか?」

目を丸くした杉本に沖藤が笑う。

「今日の発声は外でやる」

「…………」

皆が顔を見合わせた。



駐車場に出ると、沖藤は自分の車のキーを開けた。

「すぐそこに山があるだろう。あの低い山」

そう言いながら、30メートルほど先にある小さな山を指さす。

「あそこに歌声が届けば合格。全員に自販機のアイスを買ってやろう」

「えー?」

皆が見上げる。

山まで距離はそこまでないが、その間には青空が広がっている。反響せずに音は空気に溶けていく。

「しかし僕は年々耳が遠くなってきているからな……。聞こえないかもしれん」

沖藤は笑った。

「えー、そんなのムリゲーじゃん」

「詐欺―!」

生徒たちも笑う。

「だから僕の耳になってくれる人を選ぼうかな」

沖藤は漣の肩を掴んだ。

「え」

「瑞野君にしよう。昨日心配かけた罰として」

「………」

沖藤は漣を助手席に押し込むと、久次に目配せをして皆に手を振って出発した。




「ちゃんと道路がある……」

漣がキョロキョロと山を眺めていると沖藤は笑った。

「こんな低い山でも子供や高齢者の立派なトレッキングコースなんだよ、ここは」

「へえ」

「朝の散歩に登って下りて30分かからない。でも……」

低い山の頂上まで出て、沖藤はドアを開けた。

「景色は、悪くない」

漣も助手席からドアを開けて、外を眺めた。


「わあ……」

そこには、大中小の山々が波打つようにそびえ立ち、朝日を浴びて濃い陰影を形成していた。


「遠くの山々が青く見えるだろう?」

沖藤が漣の脇に立つ。

「あれは、実は空気の色なんだ」

「空気の色?」

漣は沖藤を振り返った。


「空気というのはね、光の中でも青い色を良く跳ね返すんだよ。だから遠ければ遠いほど」


沖藤が見上げるのにつられ、漣も視線を上空へ移した。


「青い」


「……………」


吸い込まれそうな青い空を、漣は見つめた。


「もう少し空を見ていたかったが。気づかれたな」


沖藤は宿泊施設を見下ろした。


久次が両手を振っている。沖藤も手で丸を作って見せる。


当然前奏はない。

久次が調子笛を取り出し、皆が音程を確認している。

全員が久次の指を注目する。


『例えば君が傷ついて~♪』


歌が始まった。


「聞こえるもんだな……」


漣が思わず言うと、沖藤も「そうだろ」と呟いた。



「彼は……久次は……」

沖藤がゆっくりと話し出した。

「つい最近まで、笑えなかった」

「…………」


その言葉に漣は沖藤を振り返った。


「いつも何か耐えているような。怒りを抑え込んでいるような、苦しい顔をしていた」


「…………」

漣は思い出した。

古文の授業中、黒板を睨みながら、ひたすらにチョークで字を書いていたその顔を……。


「それが今、あんなふうに笑っている」

「…………」

漣も久次の顔を見下ろした。


「あれのことは幼少時代から知ってる。まっすぐで、生真面目で、融通が利かなくて。それでも情に厚く、良い奴だ」

「………」


(……俺も。俺もそう思う)


だから、中嶋が昨日話した内容はどうしても納得できない。


(この人になら……)


漣は沖藤を見つめた。


「先生が……久次先生が、生徒を襲ったという話は、本当ですか?」


「襲った?」


「その両親から訴えられたっていう話、本当ですか?」


「誰がそんな馬鹿なことを……!!」


沖藤の眼が大きく見開かれ、掴みかからんばかりに迫ってきた。


「東京に訪ねてきた弁護士がそう言ってたって、合唱部の奴が……」


その迫力につい中嶋の名前は隠した。


「乙竹か……。どこまでも下衆な野郎だ……!」


沖藤は苦虫を噛み潰したように顔を歪めながら、自分の車に拳を入れた。


「瑞野君。今日の午後の練習が終わったら、私の部屋に来てくれるか?」


「………え」


「全て話すよ。久次と、彼のことを……」


◆◆◆◆◆


(何だ?)


エントランスから沖藤と瑞野を見上げながら、久次は首を傾げた。


先ほどまで山や空を見ながらにこやかに話をしていた二人は、歌が始まったのと同時に何やら深刻そうな顔をし、沖藤は自分たちが乗ってきたセダンを叩いた。


車の調子でも悪くなったのだろうか。

しかしそれなら瑞野が笑っているはずだが……。


瑞野はまた沖藤と何か言葉を交わすと、大きく頷いた。


何の話をしているのだろう。


歌が終わる。

すると二人は揃って頭上で丸を作って微笑んだ。


「……………」


一瞬不穏な空気に感じたが、どうやら杞憂だったようだ。

そもそもあの二人の間で、何かが起こるわけはない。


久次は安堵のため息をついた。


再びセダンに乗り込む、漣の体を見上げる。


空の青さに溶けてしまうほどの小さな体を見つめる。


早く何とかしないと……。


でも自分に、彼が望む方法での解決する術はない。


(……やはり、これしかないのか)


久次は携帯電話を睨んだ。


◇◇◇◇◇


久次は荷物をまとめると、皆を振り返った。


「ちょっと東京で仕事をしてくる。いつ帰れるかわからないけど、前日には帰るから。お前たちはせっかくの沖藤先生に指導していただくんだから。手抜きしないで、全力で挑めよ!」


言うと生徒たちは笑顔で頷いた。


「お土産よろしく!久次先生!」

「馬鹿か」

久次が目を細める。


「……中嶋、頼むぞ!」

言うと中嶋も少し複雑そうな顔をしながらも頷いた。


久次は瑞野の前に立つと、彼を見下ろした。


「……な、何?」

瑞野が視線だけでこちらを見上げてくる。


「もう脱走するなよ」


「……わってるよ」

その柔らかい髪に触れる。



これでいいのか。

この決断で後悔はしないのか。


何度も何度も自問自答を繰り返す。


指先から、手のひらから、ホカホカと瑞野のぬくもりが伝わってくる。


ああ。これでいい。

この決断で、後悔はしない。


「……ちょっとぉ」

杉本が言う。


「ここの空気だけ特別なんですけど……」


久次は笑う皆を振り返った。


「…………」


これで最後だと思うと……。


今にも泣き出しそうだった。


◇◇◇◇◇



手配してもらったハイヤーに乗り込むと、久次は携帯電話を取り出した。


二度とかけることがないと思っていた電話番号。

向こうからかかってきたときに、間違っても出ないようにと電話帳に登録していたその番号。


大きく息を吸い込んでから、久次は通話ボタンを押した。



『……もしもし』



ワンコールも鳴らないうちに、相手は応じた。


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