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午後の練習が終わり、漣は言われた通りに沖藤の部屋を訪れた。
夕日が差す西向きの部屋の中、沖藤は一人、ベッドに座っていた。
「疲れてないか?」
沖藤は漣に丸椅子を勧めながら静かに聞いた。
「いえ」
漣が首を振ると、彼はスとシの間の口で息を長く吐いた。
「……ロングブレス」
漣が笑うと、沖藤も笑った。
「初めに言っておきたいのだが」
沖藤はベッドの硬いスプリングでバウンドしながら座り直すと、まっすぐに漣を見つめて言った。
「久次先生は……久次誠という男は、今までただの一度も、生徒と性的な関係を持ったことはない。
彼が教師である以上、生徒に手を出すことなんかはあり得ない。それだけは大前提として、この話を聞いてもらいたい」
「でも……」
漣は口ごもった。
「でも?」
「虹原……って生徒とは……?」
「…………」
その名前を出した途端、沖藤は顔をくしゃっと歪めた。
「その名前も乙竹から?」
「あ、いえ……」
漣は罪悪感から僅かに身を引きながら言った。
「先生の自宅で、手紙を見つけてしまって」
「手紙?」
「多分、虹原君宛だと思うんですけど。封もされてなくて住所も差出人もない、手紙……」
「…………」
「彼が、虹原君が、自殺したから渡せなかったのかなって……」
「…………」
西日に照らされた沖藤の眼から涙が流れ落ちる。
「……沖藤、先生……?」
「確かに」
掠れる声で沖藤は口を開いた。
「虹原は、この世から消えた」
「…………」
「私たち大人が、寄って掛かって、一人の男を愛しただけの彼を、責めて諭して、自殺に追い込んだんだ」
******************
虹原は幼少時代から歌の才能を開花させ、熱心な母親の頼みもあり、沖藤は合唱団で指導するだけではなく、彼に個人レッスンを付け始めた。
教えれば教える分だけ伸びていく彼を見ているのは楽しかったし、何より彼自身が歌を好きで、上手に歌えるようになっていく自分に喜びを見出し、子供とは思えない熱量と集中力でレッスンに応えていた。
毎日何時間と歌って普通の男子より喉に負担をかけていたせいか、それとも音楽に夢中になるあまり、クラスメイトが興味を持ち出した女性や性への関心が少なく男性としての覚醒が遅かったのか、彼の変声期は周りから少し遅れてやってきた。
虹原が16歳。
高校に上がったばかりの春だった。
思うように声が出ない虹原ははた目から見ていてもイライラしていて気の毒だった。
「このまま歌えなくなったらどうしよう」
かすれる声で出たそんな弱音を沖藤は笑ったが、彼の横顔は真剣だった。
そんな時に自分の胃にポリープが見つかった。
一年前に父親を胃がんで亡くしたこともあり、沖藤は焦った。
こんなところで倒れてはいられない。
自分は虹原が成長し、立派なオペラ歌手になるのを見守っていきたいんだ。
沖藤はすぐに病院に予約を入れた。
ついでに腸や膀胱や前立腺など、一通りの検査の予約も入れた。
しかし声が安定しないことで、精神まで不安定になりかけている虹原を1ヶ月も放っておくのも気が引けた。
だから……。
彼に指導を頼んだ。
2人がどんな時を過ごし、どんな絆を積み上げていったのかはわからない。
しかし退院した沖藤が2人に会ったときには、その隣に泣きじゃくる虹原の母親と、若い弁護士がいた。
警察に通報したのは、コミュニティーセンターの支配人だった。
狭いピアノ室の中で性行為をしているのを偶然見かけたらしい。
半狂乱になった母親を、皆で止めるのは大変だったという。
「お母さん、待ってよ!俺、本気で先生のことが好きなんだ!」
息子の叫びも言葉も、母親には受け入れられなかった。
彼女は大急ぎで知り合いの伝手を頼り、少年犯罪に強いと評判の弁護士を東京から呼び寄せた。
乙武は、コミュニティセンターでの予約状況と、その日の利用者からの聞き込み、彼が偽名で予約したホテルまで突き止めた。
さらには、彼が学生時代に付き合っていた男性の交際相手まで突き止めた。
警察と弁護士は違う。
乙竹は手に入れた情報の中から、ほんの小さな事実のつなぎ合わせる手法を使った。
そしてそこには、昔の恋人にひどい仕打ちをされ成人男系にトラウマを植え付けられ、華奢で色白な少年に性的な魅力を感じ、欲望のままにその身体を貪り、さらには精神まで洗脳してしまう、変態教師が出来上がった。
2人の間に確かにあった愛は、証明のしようがなかった。
乙竹が組み立てたストーリーとキャラ設定を、裏付ける証拠と証言があり、彼は言い逃れできなかった。
虹原は自分のせいで追い詰められていく彼を、見ていることができなかった。
「……すべて終わりにしたい」
虹原の提案に、彼は静かに頷いた。
そしてコミュニティセンターのピアノ室で、虹原が持っていた通学用のリュックの肩ひもを改造して、
彼らは首を吊った。
「彼ら……?」
漣は沖藤を見つめた。
「そう。彼らだ。二人は同時に、グランドピアノから飛び降りた」
「……え。でも……」
「そう。久次は、助かった」
沖藤は顔を覆った。
「リュックの肩ひもに細工がしてあった。久次の方だけ、一定のストレスがかかると切れるように………」
「もしかして……それで……」
「ああ。あいつの声帯は傷ついてしまった」
指の間から沖藤の苦痛な息が漏れる。
「ピアノ室で意識を取り戻した久次は、声にならない叫び声をあげて、とうに息絶え、ぶら下がっている彼に抱きついた」
「…………」
なんで……なんで、俺のことも連れていってくれなかったんだよ……!!