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午前3時15分。
東京・新橋の雑居ビルにある警備室には、機械音と微かに響く深夜の酔客の声が流れていた。
「……異常なし」
田中蒼(たなかあおい)は、監視モニターを一つずつ見つめながら、記録ノートに手を走らせていた。日課の見回りはとっくに終えた。何も起きない、それが彼の世界であり、彼の救いだった。
蒼は34歳。かつて一流商社の営業として活躍していたが、ある事件をきっかけに転落し、いまではこのビルの夜間警備員としてひっそりと暮らしている。人間関係は極力避け、世間との関わりを断ち、ただ「時間が過ぎる」のを待つように生きていた。
そんな彼の日常に、異物が混じったのは一ヶ月ほど前のことだった。
「こんばんは。今日もお疲れさまです、田中さん。」
その夜も同じように静かだったはずなのに、彼の耳に明るい声が響いた。声の主は、事務所ビル5階に最近オープンしたデザイン会社の男、山本蓮(やまもとれん)だった。
年齢は蒼より少し若いだろうか。くせ毛を無造作にまとめ、細身のスーツの下から覗くのは、いつもどこか着古したシャツ。だが、表情はどこか人懐っこく、見るからに人間観察が趣味のような目をしていた。
「どうして、毎晩来るんだ?」
最初は蒼も訝しんだ。しかし蓮は、蒼が話したがらないことは決して深追いしなかった。ただ隣に座って、缶コーヒーを差し出しながら、天気やニュースの話をするだけ。
――奇妙だが、嫌ではなかった。
むしろ、三年ぶりに「友人」と呼べる存在ができたことに、蒼は戸惑いながらも、どこかで安堵していた。
そんなある晩、蓮がふと、スマホの画面を差し出してきた。
「これ、知ってます? “告白ノ間” っていう生配信チャンネルなんですけど」
蒼は首を横に振った。画面にはバーチャルアバターのようなアイコンが並び、視聴者の投げ銭額がリアルタイムで積み上がっていく様子が映っていた。
「匿名の人が、誰にも言えなかった“真実”を告白するんです。芸能人の裏話とか、殺人事件の未報道部分とか……やばいネタほど投げ銭が跳ね上がる。最高額はね、1億越えですよ」
「くだらないな」
蒼はそう言いながら、目を離せなかった。
「くだらなくなんかない。蒼さんだって話すこと、あるでしょう?」
蓮の目が鋭く光った気がした。
「三年前、何があったんですか?」
蒼の中で、何かが引っかかった。いや、もしかすると最初から、この男は蒼の過去を知っていたのかもしれない。だが、不思議と恐怖は感じなかった。
「……話して、どうなるっていうんだ」
「たぶん、何も変わらない。でも、何かが始まる気はします」
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翌週の夜。
蒼は意を決して、チャンネル運営者の「颯太」からスピーカーとしての認可を受けた。「過去最大のゴシップになる」と太鼓判を押された。事前に蓮が何を話したのかは分からないが、颯太の反応から見て、蒼の事件は“当たり”だったのだろう。
そして、配信本番の日。
スタジオではない。部屋でもない。蒼が座るのは、いつもの警備室の椅子だ。蓮の協力で、音声フィルターと映像エフェクトで顔はぼかされ、声も変換される。
カウントダウンが始まる。
5、4、3、2、1――
「こんばんは。告白ノ間、ご覧いただきありがとうございます。今日は、ある男の壮絶な過去に迫ります」
モニターには、蒼の変換された姿が映る。
「これは三年前、僕の身に起こった本当の話です」
蒼の口から、あの夜の記憶が語られていく――。
信頼していた同僚・小林悠斗と加藤翔の裏切り。愛していた女性をめぐる争い。そして、命を奪うか奪われるかの瀬戸際で下した、ある“選択”。
視聴者数はうなぎ登りに増え、チャットは「やばい」「これ実話?」「誰が悪いんだ?」と騒然となっていく。画面右上の投げ銭額は、開始30分で400万を超えていた。
蒼の表情は震えていた。怒りでも後悔でもなく、それは「終わった」という静かな実感だった。
「これで、よかったのかもしれない……」
ふと、隣に座る蓮が立ち上がった。
「次のスピーカーは僕です」
その声とともに、配信画面が切り替わる。
「は?」
蒼が振り返ると、蓮はスマホを操作しながら、不敵な笑みを浮かべていた。
「皆さん、こんばんは。今日の真相は……田中蒼という男の“本当の姿”についてです」
その瞬間、蒼の体から血の気が引いた。
配信は終わっていなかった。むしろ、ここからが本当の始まりだった。