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「―――だめだ。だめだ……母ちゃん!」
賢吾は立ち上がった。
「―――右京君?」
若い塾の講師は、賢吾を見下ろした。
「入っちゃだめだ!」
言いながら賢吾はネットワークカメラを切ると母親に電話を掛けた。
トゥルルルルルルル
トゥルルルルルルル
出ない。
「出ろよ!母ちゃん!!」
鳴り響くコールに心臓が高鳴る。
業を煮やした賢吾は、次は和俊の携帯電話に掛けた。
トゥルルルルルルルル
トゥルルルルルルルル
トゥルルルル カチャッ。
「父ちゃん!!」
気が付くと賢吾は鞄も持たずに塾の廊下を駆けだしていた。
「今すぐ店に行ってけろ!母ちゃんが危ねえんだ!」
「は?何言ってんや?」
「いいから、今すぐ!行け!!」
塾の前に停めてあった自転車に飛び乗ると、賢吾は大きくこぎ出した。
「……母ちゃん!」
ここで呼んでも何もならないことは痛いほどわかっていたが、叫ばずにはいられなかった。
「……母ちゃん!……母ちゃん!!」
ーーー無事でいてくれ!
坂下のおっちゃん!
ミゲル!
売り上げの全て持って行っていいから!
醤油屋ごと持ってってもいいから!
だから―――
母ちゃんだけは返してくれ!!!
右京が到着すると、店のドアは開いていた。
あたりは驚くほど静まり返っていた。
賢吾は自転車を倒すと、一歩一歩、店に近づいて行った。
「う……っ、ぐ……、う……」
誰かの泣き声。
女性のものではない。
坂下であってくれ。
ミゲルであってくれ。
けして……。
けして……。
――母ちゃんを失った、父ちゃんの泣き声ではありませんように。
賢吾は店の前に立った。
「―――――」
ああ。神様。
俺は前世でなんか悪いことをしたのか。
それならいくらでも償うから。
今すぐ俺を殺してもいいから。
母ちゃんを―――。
返してくれ―――。
◇◇◇◇
和俊が怜子の後を追って自殺したのは、怜子の初七日が終わってすぐだった。
怜子と賢吾を連れて良く栗拾いに行った山で、タラの芽が毎年取れた場所のすぐ近くの松の木に紐を通してーーー。
賢吾と祖母の雅江が見つけたときには、冷たく硬くなっていた。
録画したネットワークカメラの映像を手掛かりに指名手配された2人だったが、坂下の方は比較的すぐに見つかった。
和俊の同級生でもある元クラスメイトの家に転がり込んでいるのを、訪問した警察官に捉えられ、あえなく御用となった。
見つからなかったのはミゲルの方だった。
暮らしていた寄宿舎には、事件当日から帰っておらず、友人も身寄りもいないはずの彼は、忽然と館山から姿を消した。
賢吾は学校にも行かず、ミゲルの姿を探し、駅周辺を彷徨うようになった。
そのころ、賢吾は過度なストレスから祖母が作ったご飯も食べられずに、栄養不足から髪の毛先が白くなっていった。
それを駅で会ったどこかの学校の不良にからかわれ、賢吾は生まれて初めて、父親の言いつけを破り、他人に暴力を振るった。
―――こいつらは、蛆虫だ。
血だらけで倒れ、蠢く男たちを見て、賢吾は思った。
醤油は醸造中、うっかり温度管理を間違えると、麹が繁殖せずに死んでしまう。
そうやって無駄になった醤油を、和俊がうっかり捨てるのを忘れバケツに2日放置した。
たちまち中にショウジョウバエが卵を産み付け、蛆虫が大量に発生した。
その黒い海の中でうねうねと蠢く蛆虫に、倒れた男たちはよく似ていた。
坂下も、ミゲルも、こいつらも。
みんなみんな、蛆虫だ。
まっとうに生きている人間を馬鹿にして、騙して、嘲笑ってーーー。
賢吾は視線を上げた。
「せば、駆除しねけばな」
翌日彼は、白くなった毛先を全て、真っ赤に染めた。
「賢吾……。何したなや、その頭……」
声を震わす雅江に、彼は微笑みながら言った。
「殺虫剤ってよ。大体、赤いべ。だからだよ」
賢吾の身体に異常が見られたのは、そのすぐ後だった。
◇◇◇◇◇
猛暑、台風、豪雨のトリプル異常気象と呼ばれた7月だった。
怜子が殺され、和俊が自殺してから、2ヶ月の月日が経とうとしていた。
いまだミゲルは見つからず、それでも賢吾は駅前をぶらつき、色の黒い男を見つけては声をかけ、変な輩に声を掛けられれば応戦していた。
その細身の体が繰り出される破天荒で手加減の知らない攻撃は、いつしか館山の狂犬と形容されるまでになり、館山駅に出入りする際は気を付けろとまで言われるようになった。
その日も暑かった。
道行くサラリーマンは上着を肩に引っ掛け、OLは薄いカーディガンを脱いで腕にかけて歩いていた。
賢吾は一人、暑い中、学ランの上着も脱がずに、駅の駐車場で道行く人たちを見ていた。
日が高く昇り、気温が33度を超し、アスファルトの表面温度が50度を達したとき、賢吾は音もなくその上に倒れた。
運ばれた病院で、熱中症の他に、右の人差し指、中指の骨折、右足の脛骨の骨折が認められた。
「こんなに腫れているのに、なぜ気づかなかったんですか?」
問われる雅江が賢吾にどうして我慢していたのか問いただすと、
「痛くなねがったから」
賢吾は冷や汗一つかかずに答えた。
それから様々な検査が施された結果、右京の身体には、痛みと熱を伝える経路が、つまりは自律神経の一部が機能していないことが分かった。
症例がないため原因は不明だったが、医者の判断では過度なストレスがかかったことに寄る、ある種のショック状態である、ということだった。
突発性無痛無汗症。
そう診断されても、うんともすんとも反応しない孫を見て、雅江は思った。
この子は、“生きる”のを拒否しているのだろうと。
母親を殺され、父親を救うことができなくて、この人生に絶望をしている。
だから自己を愛せない。
自己を守れない。
ただ、
ただ――――。
「ごめんな、祖母ちゃん。無駄な心配ばかけて」
賢吾は感情の籠らない目でこちらを見上げた。
「でも心配しねでな。俺、ミゲルを見つけるまでは絶対死なねえ」
そう。
彼は―――
ミゲルを見つけるためだけに生きていた。
ミゲルが東京で見つかったと、館山警察署から連絡が入ったのは、百箇日の法要の直前だった。
親戚たちは、「ちゃんとわだかまりを無くしてから天国に行けてよかったな」と墓石の前で泣き崩れた。
賢吾はその姿を見つめながら、一人その群れから外れると、山道を歩き出した。
坂下が捕まった。
ミゲルも見つかった。
母ちゃんは殺された。
父ちゃんも自殺した。
「―――あ」
坂道を下りながら、賢吾は口を開けた。
―――もう俺、生きている理由とか、ないんじゃねえの?
怜子は、今まで家族同然で過ごしてきた雇われ人二人に裏切られて殺された。
和俊は裏切られていた事実を受け入れられないまま、和俊と同様疑うのは辛かったはずの怜子を責め、結果彼女を守ることができなかった。
――この世は嘘と裏切りで満ちている。
こんな世界で生きていても、何の意味も――――。
賢吾は顔を上げた。
そこには一軒の古ぼけた酒屋が建っていた。
◆◆◆◆◆
「死を決意した右京を万引き犯だと疑った店主に……。自分の両親を殺した奴らと同じ盗人だと勘違いされたことに、あいつがどれほどの怒りを覚え、どれほど絶望したか。想像すると身体が震えるよ。でもあいつの前には―――」
「……永月が現れた」
諏訪の言葉を蜂谷が引き継ぐ。
「そうだ。理由と思惑はどうあれ、あいつは初対面の右京のことを助けた。
騙された末に両親を失った右京にとって、ただ自分を信じてくれた永月の存在がどんなに輝いて見えたか。
とにかく右京はその一件で、絶望の淵から這い上がってこれたんだ」
「―――――」
ずっと、不思議だった、永月に執着した理由が見えてきた。
あいつは右京を万引き犯の冤罪から救ったんじゃない。
図らずも、人生ごと、命がらみ、あいつのことを救ったんだ。
「―――そして、お前、な」
諏訪はこちらを見下ろしながら言った。
「お前と右京が、この夏休み、何を話してどう過ごしたかは知らないけど、あいつの痛覚が戻ったのは、お前が原因だ」
「――俺が?」
「あいつにとって痛覚は、いわば生きるための身体のメッセージ」
「――――」
「……生きようと思ったんだよ。あいつは心の底から、また生きたいと思った。おそらくは―――」
諏訪の目が蜂谷をまっすぐに移す。
「お前と一緒に―――」
諏訪の背後で後部座席のドアが開いた。
「……お客様」
やけに年のいった運転手はこちらを振り返りながら言った。
「着きましたよ。松が岬署に」