コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
真上に登ろうとしている太陽の光が眩しくて、久次はブラインドを締めた。
新幹線の揺れに身体を預けていたら、意識はいつの間にか遠のいていった。
*****************
瞼の裏に、グランドピアノが浮かび上がる。
白鍵がところどころ剥げている古いピアノ。
薄ピンク色の壁。
ドアには小さな窓がついていて、
でも奥まったこの部屋の前を通る人はほとんどいなかった。
歌っていたのは、確かシューベルト作曲の『魔王』だ。
ト短調。
旋律的には単純なのだが、狡猾な魔王と、家路に急ぐ父親、そして怯える息子の三役を歌い分ける必要のある、難しい曲だ。
「うーん。悪くないんだけどねー」
彼はピアノから手を離して首を傾げた。
「こんな声じゃなかったら、もう少しマシなんですけど……」
虹原が悔しそうに顔を歪める。
「いや、声の問題じゃない」
彼は立ち上がった。
「よし。朗読してみようか!!」
「……朗読?」
「ドイツ語じゃなくて日本語で!日本語訳、わかるだろ?」
言いながら彼は楽譜を裏返して日本語訳の歌詞を見せた。
「はい。感情をこめて朗読!」
虹原はため息をつきながらそれを受け取った。
『風の夜に馬を駆り、駆けりゆくものあり
腕に童帯ゆるを、しっかとばかり抱きけり……』
「あー、違う!」彼は笑った。
「えーっとね」
言いながら自分の携帯電話を弄り始める。
沖藤の指導の際には絶対に見られない光景だ。
虹原は彼の手元を覗き込んだ。
「これ!こっちで読んで!」
渡された画面を虹原は素直に読んだ。
『夜の風を切り馬で駆けていくのは誰だ……?それは父親と幼き子供。父親は子供腕に抱え、しっかりと抱いて温めている』
「はい、臨場感ゼロー!」
彼が肩を軽く叩いてくる。
『息子よ。何を恐れて……』
「はい、ちがーう!」
今度は背中を叩かれる。
「君のパパはそんな感じ?夜中に病気で熱を出した子供を医者に連れていく父親ってそんな声なのかな?」
「…………」
「真面目に!」
『息子よ。何を恐れて顔を隠すんだ?』
『お父さんには魔王が見えないの?王冠と尻尾を持った魔王が……!』
『息子よ。あれはただの霧だよ』
「うーん」
彼はまた立ち上がった。
「なーんか硬いんだよな……」
「そもそも、この曲って硬いじゃないですか。悲劇だし、短調だし。そんなウキウキ歌う曲でもないと思うんですけど」
一丁前に口答えしてみる。
彼はふふんと笑い、また携帯電話を弄りだした。
「突っ立って歌ってるから悪いんじゃないかなー」
「歌って、突っ立ってするもんじゃないんですか……」
目を見開いた虹原に、鼻歌を歌いながら彼は動画サイトyourliveを開いた。
「これって……」
「『ママといっしょ』の曲だよ。聞いたことあるでしょ?“にじのむこうに”」
「もしかして、俺が虹原だからこの安易な選曲を?」
「せいかーい」
彼は足の間に手を突いて椅子から立ち上がると、虹原の手を取った。
「踊ろう!歌はダンスだよ、虹原!」
鐘が鳴る。
前奏が始まる。
歌のお兄さんと歌のお姉さんの伸びやかな歌が始まる。
『雨があがったよ お日様が出てきたよ♪』
彼は手をつないだまま揺れ始めた。
『青い空のむこうには 虹がかかったよ♪』
曲は童謡で、服装はスーツなのに、彼はキレッキレのダンスを披露した。
思わず笑いがこみ上げた。
虹原は笑いながら、彼と共に歌い、躍り続けた。
つないだ手と手に つたわるよ
あったかい ポッカポカのお日様と 同じ匂いがする
確かに彼と繋いだ手から、温もりが伝わった。
そして彼は確かに、お日様と同じ匂いがした。
先生。
先生……。
大好きだったよ。
でも、俺……。
前に進むね。
今まで、ありがとう……。
久次は瞼を開けた。
先ほど閉めたはずのブラインドが開いていて、
温かい陽射しが、久次を包んでいた。