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林の尾行に気が付いたのは、マンションに帰るようになって数日経ってからだった。
それまでは、いつ物陰から彼が現れるかと、エントランスの自動ドアを両手でこじ開けてあの男が後ろから抱き着いてくるかと思うと、気が気じゃなかった。
しかし林の不器用な尾行に気づいてからは、その恐怖は嘘のように消えた。
ありがたかったが、それを本人に伝えるのもおかしい気がした。
彼の中での紫雨秀樹という人間を、“ただのムカつく上司”に戻してほしかった。
季節は夏を過ぎ、広葉樹の葉が落ち始める10月に入っていた。
「どうやら、うちの白根と林さん、付き合ってるみたいですよ」
“そのこと”はセゾンの社員からではなく、シルキーホームの木内から聞いた。
外構の打ち合わせが終わり、客の敷地で話していたとき、木内は何でもないことのようにその話題を口にした。
思わぬ人物の意外な話題に、紫雨は反応するのに数秒を要した。
「白根……さんって、飲み会のときに林の隣にいた子?」
「あ、そうかもしれないです。なんか詳しくはないんですけど、実は前からの知り合いだったらしくて……」
「へえ」
「最近、林さんのアパートから出社してくるみたいで。仲いいですよね」
(………アパート?)
林が一人暮らしをしていることも初耳だった。
「あ、でも本人が隠してるなら、林さんには私から聞いたって内緒にしてくださいね」
と言い木内はガチガチのネイルで固めた人差し指を口に当てた。
そしてそれが剥がれないように丁寧に園芸用の手袋を掛けると、片隅に置いてあったレンガを運び始めた。
「何してんの?」
「あ、仕上がりの感じを積み重ねて写真撮ってお客様に確認してもらおうと思って」
言いながら1つ3kgはあるレンガを次々に並べていく。
白色をベースに所々に黄色や赤色、茶色の3色が、バランスよく配置されていく。そして―――。
「ここにガラスブロックが入ります」
緑色のガラスブロックが、太陽の光を反射してキラリと光った。
こめかみ汗を浮かべながら、カメラを取り出し、出来上がった門柱の写真を取り出した木内を紫雨は見下ろした。
「あのさ」
「はい?」
「現場監督ってあんたなんだ?」
「そうですよ」
木内は汚い作業着に、ばっちりメイクを施した顔で、微笑んだ。
「うちは男も女も、同じ仕事をしています。勤務時間も給料も、現場も営業も全部、です」
その言葉を聞いて紫雨は口を開けた。
そして飲み会での自分の失礼な態度を悔いた。
「いい、会社っすね」
木内はにっこりと笑った。
「セゾンエスペースのマネージャーさんにそう言っていただけるなんて、光栄です!」
紫雨は一生懸命写真を撮る木内の後ろ姿を見ながら、記憶の中の白根と重ねた。
そしてその脇で不器用に微笑む林を想像した。
「……ふっ」
笑いが込み上げる。
紫雨は、まだ整地されていない家周りをならすすかのように、革靴の底で土を撫でた。
その日も、紫雨はいつものように車から降りると、林の視線を感じながら車を降りた。
カードキーのケースを取り出しながら、エントランスの階段を上がる。
キーを磁気パッドに近づけ、ドアを開ける。
そしてエレベーターホールを抜け、自分の部屋がある7階を押した。
いつもは7階までに一気に行くのに、その箱は上がり始めてすぐに止まった。
不審に思いながらも、入り口から避けると、大柄な男が乗り込んできた。
「……上、ですよ?」
その後ろ姿に向かって言うと、彼は黙って壁側を向いた。
「…………」
「…………」
同じマンション内に知り合いや親兄弟が住んでいることは珍しくない。
紫雨は「閉」のボタンを押した。
「何階ですか?」
問うと、男は少しだけこちらを振り返って答えた。
「7階で」
聞き覚えのあるその顔を見上げる。
そこには――岩瀬が立っていた。
紫雨の部屋に無理やり入ると、岩瀬は紫雨をシューズクロークに押さえつけながらその首筋に舌を這わせた。
「手こずらせやがって、お前……!!」
「なんで……ぐっ……!」
スラックスの上から乱暴に股間を揉み上げられ、声が出ない。
紫雨は岩瀬を睨むこともできず、恐怖に目を瞑った。
「なんでマンションに入れたか、か?」
そんな紫雨の顔を覗き込み、正面を向かせると岩瀬は笑った。
「住民が自分の家に入れるのは、当たり前だろ?」
「…………!」
「ちょうど部屋が空いてたんでね」
わざわざこのために?
俺を追い回すためだけに?
「狂ってるよ、あんた……」
胸を襲う絶望に、紫雨の身体から力が抜けていく。
滑り落ちるように、玄関のタイルに座り込んだ。
「わかってねぇなぁ。俺は逃げれば逃げるほど、追いかけたくなるんだって……」
岩瀬は項垂れた紫雨の後頭部に向けて言った。
「これは一つの提案なんだが。お前が逃げれば、俺はどこまででも追いかける。ならいっそ、逃げない方がいいんじゃないか?」
言いながらその腕を掴み強制的に立たせると、再びシューズクロークに押し付けた。
「俺が飽きるまで付き合えよ。紫雨マネージャー?」
70万円近くかけてつくったフルオーダーのスーツから糸の切れる音がする。
ワイシャツのボタンがはじけ飛び、無理に引っ張られたベルトの金具が歪む音がする。
またたく間に、最小限必要なところだけ剥かれた紫雨は、玄関ホールに四つん這いにされた。
準備も前戯もないまま、最小限の潤滑油だけ塗られたソレが、紫雨の入り口に宛がわれる。
「……ちょ、ま……っ」
「待たねぇ」
躊躇なくそれが体の中に突き入れられる。
「………っ」
「俺にしては十分過ぎるほど、待ったんでね」
「………っ!!」
今度は裏返されるほどの勢いでそれが引かれる。
痛みのせいで視界に星が飛ぶ。
紫雨は思わず、スラックスのポケットに入っている携帯電話を握りしめた。
「………ッ」
まだいるはずだ。
今日も尾行してくれた林は、まだこの近所にいるはずだ。
しかし――――。
木内の笑顔が、白根の笑顔に重なる。
その横には微笑む林がいる。
(…………)
スラックスに伸ばした手をフローリングの上に戻す。
紫雨は痛みのせいで吹き出した汗に湿った両手を、力いっぱい握った。
それから約2ヶ月。
岩瀬は一向に飽きる様子もなく、それでいて精神科や肛門科にいかなくても済むギリギリのラインで、紫雨を飼い殺していた。
「ねえ」
腰が立たなくても、一歩も歩けなくても、煙草に手は伸ばせる。
紫雨はベッド脇のそれに手を伸ばすと、一本取り出して火をつけた。
「結局のところ、あんたっていつ飽きるの?」
枕に頬杖をつきながら紫雨を見下ろしていた岩瀬は笑った。
「そればかりは俺にもよくわからなねえな。何年も飽きないかもしれないし、明日飽きるかもしれないし」
言いながら楽しそうに宙を彷徨う金色の目を見つめた。
「でもその瞳の色は結構好きなんだよなー」
紫雨は目を瞑った。
「……じゃあ眼球やるから、どっかに消えてくんねえ?」
「やだよ。その目を見ながらヤリたいんだから」
岩瀬がおかしそうに笑う。
「あ、あとは、あれだ」
「何?」
「俺、惚れられるとダメなんだよな。求められるとどうでもよくなっちゃうのはあるかな」
「ふっ」
今度は紫雨が瞼を開けて笑った。
「そいつは出来ねえ相談だな……」
煙が天井に揺らめきながら上がっていく。
「ここまで俺にされてると、不思議と依存的な愛情を抱くもんなんだけどなぁ。全然俺のこと好きじゃないの?」
「好きだよ。トリカブト育てようか迷ってる程度には」
「ひでーなぁ」
岩瀬は頬杖を外すと、熱い息を吐きかけながら紫雨の耳に舌を這わせた。
「もしかして、他に愛する人がいる、とか?」
「………くくく。はは」
紫雨はいよいよ笑い出した。
「笑わせんな。全身痛いんだから」
篠崎のことを想い悩んでいた日々なんて、遠い昔のように思えた。
紫雨は再び跨ってきた男の重さに耐えながら、襲ってくる痛みに耐えるべく、再び目を閉じた。