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林はハイブリッドカーを駐車場に滑り込ませると、大急ぎで運転席から飛び出した。
無駄に広い駐車場を抜け、展示場にひた走る。
外階段を駆け上がり事務所の扉を開けると、営業のメンバーが全員モニターを見上げていた。
映し出された玄関では、つい先日引き渡しを終えたばかりの客である高橋が、顔を真っ赤にして工事課の現場監督と担当した設計士を怒鳴りつけていた。
『ちゃんと家電の寸法を測っての注文設計なのに、どうして洗濯機が入らないんだ!!』
『あ、だから、入らないということではなくて―――』
設計が説明しようとするが、
『入らなかったから、入らなかったと言ってんだろうが!!』
「…………」
思わず林は息を飲んだ。
夫は銀行に勤めていて忙しく、打ち合わせはほとんど妻が参加した。
夫は書類にハンコが必要な日にのみ現れて、ハンコだけ押すと、忙しそうに退座していった。
神経質そうだが、にこやかで、さっぱりとしていて、こんなに怒鳴り散らすタイプには見えなかったのに――。
『設計ミスか!工事ミスか!どっちだ!!』
男の怒号で、マイクの音が割れる。
『高橋様、落ち着いてください。こちらに間取りがあります』
設計士が高橋にA3の平面図を見せる。
『サイズは合っております』
『でも入らなかったんだよ!排水口が邪魔で!!』
『ちなみにお客様の洗濯機はドラム式ですか、縦型ですか?』
『ドラム式ですけど?』
『それであれば、下に隙間がないので、専用の洗濯機バンというものを購入していただきます。洗濯機の下に空間を出すことができるバンなので、排水口の上に洗濯機を置くことが可能です。すると……」
設計士が平面図に赤ペンで洗濯機を書き入れる。
『ほら、入ります』
高橋は黙り込んでその平面図を受け取ると、両手で広げてそれを覗き込んだ。
設計士と現場監督が顔を見合わせる。
モニターを見上げていたメンバーからも安堵のため息が漏れる。
ことはこれで済んだかに思われた。
「まだだ」
自席で腕を組みながらモニターを見上げていた紫雨が呟いた。
「まだ終わってねえ」
林は慌ててモニターを見上げた。
『その洗濯機バンとやらは誰が買うんだ』
設計士は眉毛をハの字に下げながら言った。
『それはお客様ご自身で、ホームセンターに行っていただくなり、ネットで買っていただくなりしていただく必要があります』
『なんだと?』
高橋は設計士を睨んだ。
『俺は家を買ったんだ!引っ越せばもう住める家を買ったんだ!その中に洗濯機を置ける回せる、という条件も当然入っているはずだ!!』
高橋の顔が再び火を噴く。
『暮らすために必要なのものであれば、引き渡しの時までに用意しなければいけないのはそちらじゃないのか!金は払ってもいい!いくらでも払っていい!しかし、その必要性に気づき、引っ越せば完璧に住める状態にして引き渡すのが、君たちプロではないのか!!』
「—————」
「—————」
現場監督と設計士は黙った。
「難しい問題だよな」
画面を見上げていた室井が唸る。
「すでにあるまたはこれから使いたい、家具家電が問題なく使える家の提供、それはもちろんだ。しかし我々が把握すべきはその家具家電のサイズまでであって、仕様・用途に関わる部分は、客の自己責任になる。サイズ表に書かれた洗濯機が縦型かドラム式か、また下に隙間があるかないかは、展示場での打ち合わせをしている我々は見る機会もないし、当日やってみなければわからない。それで文句を言われても、なあ」
室井は頭を掻きながら林を振り返った。
「担当営業はお前だったよな、林」
「……はい」
「サイズ表持って、行ってこい。それでこっちには非がないことを説明してこい」
「え……」
「ここで責任問題に発展したら、後々面倒だぞ。はっきりさせておかないと」
言われるがまま打ち合わせファイルを取るために引出しを開けた。
(でも……こっちに非がないことを説明なんてしたら、余計に火に油を注ぐことになるんじゃ……)
半信半疑でファイルを開く。
『責任者を連れて来いって言ってんだよ!誰だ!社長か!支店長か!連れて来い!!』
割れる声を聴きながら、指が震える。うまくファイルが捲れない。
「いいよ。林。俺が行く」
林は視線を上げた。
紫雨は椅子に掛けてあったスーツの上着を羽織りボタンを留めると、ネクタイの位置を直し事務所のドアを開けた。
「し、紫雨さん…?」
「大丈夫だ。待ってろ」
言いながら紫雨は展示場に消えて行ってしまった。
『高橋様、いつもお世話になっております』
モニターに紫雨が映る。皆はそれを見上げた。
『私、この展示場のマネージャーをしております、紫雨と申します』
言いながら名刺を渡し、腰を折る。
その完璧な仕草に、普段銀行で企業を相手にしているだろう高橋の顔色は少し赤みが消えたように見えた。
『お話は伺いました。洗濯機を入れようとしたところ、排水口が邪魔で入らず、それを避けて入れようとすると、洗面台のラインからはみ出してしまう。そう言うことですね』
『ああ。そんなこっちは素人なんだから、洗濯機のバンとかそういうことを言われても知るわけないんだから。こっちは言われた通り。採寸してちゃんと資料として提示してるんだから、それを入るように設計し、準備するのが、プロの仕事だろうと言ってるんですよ』
『おっしゃる通りです。さらに洗濯機のバンと申し上げても高さもサイズも種類もあり、お客様には判断しかねる内容だと思います。本来であれば私共が、打ち合わせの段階で、遅くても引渡し前までにはアドバイスさせていただき、金額提示の上で、準備させていただくのが筋でございました。大変申し訳ありませんでした』
室井が口を開けた。
「あーあ、謝っちゃった」
飯川も背もたれに寄りかかった。
「…………」
林は入社して約3年。初めて紫雨の謝罪する姿を見上げた。
『当然ですよ。こちらは素人で、セゾンさんを信頼して全てをお任せしてるんですから』
『おっしゃる通りです。大変申し訳ありませんでした』
紫雨はもう一度頭を下げた後、高橋を見つめ腰を低く続けた。
『どうでしょう。これはご提案なのですが、私と担当営業である林で、お使いの洗濯機にあう洗濯機バンを購入し、設置までさせていただきます。高橋様、これから時間はございますか?』
『まあ、あるといえばあるが……』
高橋が腕時計を見る。
『それでは先にご自宅にお戻りいただき、私と林で後程向かわせていただきますので。よろしくお願い致します』
『あ、ああ。じゃあお願いします』
高橋はまだ何か言いたそうだったが、紫雨が頭を下げたので、それ以上言えずに、自動ドアを通って外に出ていった。
「うーん。どうですか、室井さん」
飯川の言葉に室井はモニターを見上げたまま首を捻った。
「まあ、現マネージャーはあいつだからな」
林は再度、頭を上げてからいつものようにだるそうに戻ってくる様子の紫雨の顔を見つめた。
「……かっこよかったです」
「え?」
飯川がその林の小さな声に振り返った。
「紫雨マネージャー、かっこよかったです……!」
「……はあ」
飯川が呆れたような声を出すのと、事務所のドアが開くのは同時だった。
「林、車出せ」
紫雨が自席に戻り財布と携帯を手にすると首を回した。
「はい!」
林は車の鍵を握ると、急いで靴を履き替えた。
◇◇◇◇
高橋家を出た頃には夜の8時を回っていた。
高橋も夫人も、紫雨と林が到着した時には怒りはとうに収まっていた。
それでも平謝りを繰り返しながら、紫雨が慣れた様子で重いドラム型洗濯機を動かし、排水口を繋ぎバンを設置すると、感心した様子で二人で眺めていた。
最後には、バンを買ってくれたお礼にと、引っ越し祝いの懐石弁当を二人にも土産に持たせてくれた。
「すみませんでした、俺のせいで」
公道に出てから、林は再度、紫雨に謝った。
「別にお前のせいじゃねぇだろ。間取りの段階で確認しなかった設計と、引き渡しの時に確認しなかった工事課の責任だ。このことはちゃんと秋山さんにも相談しとくよ」
言いながら紫雨は浅く腰かけ、背もたれに深く身を沈め欠伸をした。
「こういうことはこれからどんどん増えるだろうからな。洗濯機もそうだけど冷蔵庫もいろんな種類が出てきてるから。家電の確認はサイズだけじゃなくて写真も必要かもなー」
言いながら、紫雨は貰った弁当の包み紙を眺めた。
「松味処の弁当って有名だよな」
「そうですね、聞いたことあります」
「腹減った」
「いい匂いしますもんね。早く帰って食べてください」
「…………」
「なんなら、俺の分も………」
「なぁ、お前の家って」
紫雨が助手席からこちらを横目で見た。
「ここから近いの?」