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◇◇◇◇◇
荒い呼吸を繰り返す右京を転がし、多川が立ち上がった。
カチャカチャとベルトを緩めている。
目頭から幾筋もの涙を流しながら、右京が諦めたようにその動作を静かに見つめている。
―――もう、限界だ。
蜂谷は多川を睨み上げた。
口のどこかが切れたのか、歯が本当に折れたのか、血の味がする。
―――これ以上は、いくら時間稼ぎとはいえ、右京の精神力が持たない。
せっかく治りかけてるのに、またぶっ壊れちまう。
続けて2回も強制的に絞り出された右京は、ぐったりとマットレスの上に丸まっている。
―――もうやるしかない……!
蜂谷は情事に見惚れて力が緩んだ男の手を振り払った。
「……おい、多川!」
言うと多川は食い入るように右京の臀部を見ていた視線をこちらに移した。
「取引だ」
「―――取引ぃ?」
片眉を上げながら蜂谷を見下ろす。
蜂谷は自由になった右手をポケットの中に突っ込んだ。
「――――」
一瞬の迷いが生じる。
これで……
これでおそらく―――。
自分の人生は終わる。
それでも――!
◆◆◆◆
「……なんだ、その汚らしいノートは」
蜂谷がポケットから取り出したのは黒のリングノートだった。
――何考えてんだ。蜂谷のやつ……!
右京は顔を上げてそのノートと蜂谷を交互に見つめた。
蜂谷はもう一人の手も振り払って立ち上がると、一歩二歩と多川に近づき、それを差し出した。
「何だよ……?」
多川は蜂谷を再び押さえつけようとした男たちを手で制し、眉をひそめたままそのノートを受け取ると、パラパラと捲り始めた。
「―――なんだ、これは」
視線だけで蜂谷を睨む。
「俺が今まで恐喝してきた記録だ」
「……恐喝?」
「弱みを握り、脅して手に入れてきた金たちだ。全て事実に基づいてる」
「――――」
多川は最後のページまで捲り終えると、蜂谷を睨み落とした。
「これが?」
蜂谷は多川を見据えていった。
「小さい脳みそじゃピンとこないか?」
多川の脇に立っていた男たちが蜂谷を睨む。
「俺は蜂谷グループの次期社長になる男だぞ?それが高校時代、恐喝をしてたとしたら、大問題だ」
多川が蜂谷を睨む。
「―――つまり右京を返す代わりに、このノートを俺に預けると?」
「ああ、そうだ」
蜂谷は頷いた。
「―――このノートを使って、お前は一生、俺を強請っていい」
「…………!」
右京は目を見開いた。
「お前、何、言ってんだよ……!」
「できる範囲でお前たちの金銭的、処遇的援助をしてやる」
「おい……!」
迷いなくそう言い放つ蜂谷の視線は右京に降りてこない。
真っ直ぐに多川を睨んでいる。
「どうだ。悪くないだろ?」
言いながら蜂谷はノートを多川の手からぶんどると、用具室の入り口まで一気に下がり、ドアを開け放った。
「今ここで、右京を解放しないなら俺はこれを持ってここから逃げ、警察に駆け込む。足は速いんだ。ヤクや煙草で持久力のないお前たちからなんて簡単に逃げて見せる」
「……てめえ」
取り巻きが蜂谷を睨む。
「ここで右京を解放するなら、このノートはお前にくれてやる」
蜂谷は顎を上げながら多川を見下ろした。
「どっちが賢い選択か。その残念なオツムでよーく考えてみな?」
「そうか……」
長いこと沈黙を守っていた多川はやっと顔を上げた。
「確かに悪くない」
口の端を吊り上げている。
「奈良崎さんがこいつを感情のまま殺したとして、埋めたとして、お前をどう始末するかという問題が残る」
「―――」
「お前に教えたのだろう尾沢も然り。殺すのは簡単だが、後始末が面倒くせえ」
「……………」
「それならお前たち二人を口止めをした上で解放し、このノートを預かって、坊ちゃんが無事社長に就任するのを待った方が賢そうだ」
言いながら多川はワシワシと結わえた金髪頭を掻いた。
「乗るよ。お前の話に」
◆◆◆◆
これは賭けだった。
多川が蜂谷コーポレーションと奈良崎を天秤にかけたときに、あちらを選んでしまえば何の意味もない交渉だった。
さらにはこの手書きのリングノートにどれだけの信憑性があるかも微妙だった。
しかし彼は上手く蜂谷の挑発に乗ってくれた。
あと少しだ。
あと少し――。
「右京を解放しろ」
言うと多川はふっと鼻で笑った。
その視線が右京の脇にいた男に移ると、男は頷きながら右京を立たせた。
スボンがベルトの重みで足首まで落ちる。
「―――ちゃんと整えてやれ。これじゃあ外に出た途端に公然わいせつ罪だ」
多川が笑うと、脇の男は舌打ちをしながら右京のズボンをおざなりに直した。
手首でぐしゃぐしゃにまとめられた学ランも直そうとしたが、どこかで絡まっているのかうまくいかず、男は舌打ちをしながらその身体を蜂谷の方に押した。
右京の不安そうな視線がこちらに注がれる。
それに小さく頷くと、蜂谷は彼に手を伸ばした。
「こっちに来い、右京」
「蜂谷……!」
右京が蜂谷に寄ると彼はぐいと右京の腕を引き自分の後ろに隠した。
「さあ、約束だ。ノートをよこしな?」
多川が乱れた前髪を掻き上げながら、面倒くさそうに蜂谷に手を伸ばす。
蜂谷は右京を後ろに隠しつつ、ノートを持った手を多川に差し出した。
大丈夫だ。
こんなノート一冊とられたってなんてことはない。
こいつらがこれを本当に実用する5年後までに、このノートに乗っている人間たちに連絡を付けて、借用金額の10倍で買収すればいい。
もともと弱みを握っている人間たちだ。大事にされて困るのは彼らの方だ。
彼らが無事買収できたならーーー。
こんなノート、蜂谷グループの顧問弁護士がいくらでもねじ伏せてくれる。
蜂谷は生まれて初めて、自分が生まれた境遇と、手段を択ばないグループの人間たちに感謝した。
これで―――
こんなので、右京が助けられるなら。
と、ノートを受け取ろうとしたはずの多川が、蜂谷の腕をぐいと掴んだ。
「……なっ!?」
慌てて手をひっこめようとしたときには遅かった。
蜂谷は多川に引き寄せられ、前かがみになったその顔に横から蹴りが飛んできた。
「蜂谷……!」
身体が吹っ飛ぶ。
右京の声が遠くで聞こえる。
今のショックで耳がいかれたらしい。
「なんてな」
多川が笑い、八重歯が覗いた。
「全ての判断は俺じゃねえ。奈良崎さんがするんだよ。右京ちゃんの処遇も、お前のノートの扱い方も、尾沢を含めたお前たちの運命は、奈良崎さんが結審する」
多川は笑いながら腕時計を見下ろした。
「慌てなくてももうすぐ奈良崎さんがここに到着する。そうしたらお前たちを生かすも殺すも、あの方に決めてもらう」
「―――この野郎……!」
掴みかかろうとする蜂谷をすかさず男たちが押さえつける。
「……くっ」
先ほどのショックでまだ平衡感覚がおかしい。
脚がふらつき、あっという間に捕らえられてしまった。
「蜂谷……!」
右京も同じく左右から押さえつけられる。
「でもな、蜂谷よ。俺は感動したぞ?」
多川がクククと笑いながら、身動きの取れない蜂谷の頭をガシガシと撫でた。
「自分の人生を犠牲にしてでも右京ちゃんを助けたかったのか?健気だねえ」
その顎をぐいと掴み上げる。
「感動したから、右京ちゃんのケツはお前に譲ってやる……」
蜂谷が目を見開く。
「その代わりお前のケツは、俺が貰うからな?」
「――――!!」
もう一つの手が蜂谷の臀部を揉み上げる。
「連結プレイって一度やってみたかったんだよなー」
多川が笑いながら顔を寄せてくる。
「お前、後ろは初めてだろ?優しくして―――」
「ぐあああっ!!」
低い男の声が響いた。
慌てて振り返ると、右京を抑えていたはずの男が床に転がっていた。
「―――は……?」
皆が目を見開く中、脇に立っていた右京がもう一人の男の顎に一発裏拳を入れ、開いた腹にすかさず中段蹴りをかました。
倉庫の扉が歪むほどにたたきつけられた男は、その場に崩れ落ち、口の端から血の混じった泡を吹き出した。
「――右京……!?」
いつの間にか手の拘束を学ランごと外した右京は、怪我しているはずの手首をゴキゴキと回すと、今度は蜂谷を掴んでいる男の肩に手を突いて腰に片脚をつくと、体重をかけて後ろに引いた。
腰から鈍い音をさせて男が後ろに反ると、その身体めがけて回し蹴りを打ち入れ、先ほど倒れた男の上に転がした。
「てめえ!」
右京に掴みかかろうとした脇の男の顔面に、我に返った蜂谷が肘打ちを入れ、両手で顔を抑えた男をさらに蹴り飛ばした。
「行くぞ!蜂谷!!」
「あ、ああ!」
「こら待て!!」
多川の声が追いかけてくる。
しかし豚みたいに肉を付けた身体ではとても追いかけては来れない。
右京は蜂谷の腕を掴むと、入り口付近でおろおろしていた先ほどの男を突き飛ばし、ホールに出た。
「……お前、痛覚戻ったんじゃ……」
走りながら言うと、
「戻ったよ」
右京が息を弾ませながら答えた。
「だから―――死ぬほど痛え……!」
「はは……」
蜂谷は笑うと、まだ縺れる足を必死で動かし彼の後に続いた。
◆◆◆◆◆
しかしホールを抜け、廊下に差し掛かろうとしたところで、ぞろぞろと男たちが入ってきた。
「――――!」
「あれ?ここであってるか?奈良崎さんの放免祝いって」
眉毛のないスキンヘッドの男がこちらを見下ろす。
「――――!」
「黒沼!!」
後ろから多川が叫ぶ。
「そいつを捕まえろ!そいつが奈良崎さんを追い込んだ赤い悪魔だ!!」
「はあ?」
黒沼と言われた男は右京の顔を見下ろすと、
「このチビが?」
と言って笑った。
「悪いけどってことだからここ通んないでくんねえ?」
言いながら懐から何かを取り出す。
日が傾き、緋色に染まったホールの中で、銀色のものが光る。
「――――!」
思わず蜂谷は、それでも組みかかろうとしている右京の腕を引き、自分の後ろに隠した。
男が握っていたのは、刃渡り15㎝を超える、ナイフだった。
スキンヘッドの男の後ろからもゾロゾロと柄の悪い男たちが入ってきて、ホールの入り口はたちまち隙間なく埋まってしまった。
ざっと見て20人はいる。
蜂谷は右京の腕を引いたまま後退った。
「はは。間一髪だ」
多川が後ろから笑う。
「危うく奈良崎さんの放免祝いに水を差すところだった」
じわじわと後ろから距離を詰めてくる。
先ほど用具室で倒してきたやつらものそのそと立ち上がり、ゾンビのごとく歩いてくる。
「―――右京」
蜂谷は右京の耳に口を寄せた。
「紅白幕の上にカーテンがあるの、見えるか?」
右京はホールを取り囲んでいる紅白幕に素早く目を走らせた。
すると、用具室のちょうど真向かいあたりに紅白幕の上の僅かな隙間に、カーテンが見えた。
「あそこが、窓だ」
右京の大きな瞳が蜂谷を見上げる。
「俺があのハゲを押さえつけるから、そのすきに窓に向かって走るんだ」
「―――!」
「窓から逃げて、あとはひたすら走れ……!」
「蜂谷はどうすんだよ……!」
「あいつらの狙いはお前だ。パニックになったらうまいこと逃げ出す」
「――――」
右京は前から近付いてくる男たちと、後ろから迫ってくる多川たちを交互に睨んだ。
「―――行け!!」
蜂谷は右京の腕を引き、カーテンの方向に投げるように突き放した。
「………!!」
右京が弾かれたように走り出す。
―――逃げろ……!
蜂谷もスキンヘッドの男に向かって一直線に走り出した。
その腕を両手で掴み捻り上げる。
「――――この……!」
スキンヘッドの男がもう一つの手で、蜂谷の腰に一発入れる。
「うぐッ!」
それでも、離さない。絶対に。
ーーー右京。逃げろ……!!
紅白幕を引きはがした右京がカーテンを開ける。
「………!!」
窓の外には、先ほどとは比べ物にならない数の、ガラの悪い男たちが並んでいた。